YouTube「この国のかたち」より
第1集 ”島国”ニッポンの叡智 (49分)
日本人の柔軟さの素。
第2集 ”武士”700年の遺産 (49分)
武士という人間像は、日本人が生み出したその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。
明治の奇跡。驚くほど手間のかかることを驚くほどのスピードで全国一斉に実現したこと。学校教育の柱である小学校を8年で全国各地に整備、明治19年には近代産業の要である鉄の大量生産を実現した。鉄道網も30年あまりで7000kmを広げた。
また、わずか4年で手品のように鮮やかに郵便制度を展開した。手品の種は全国の村々の名主のしかるべきものに特定郵便局をやらせたことによる。かれらの名誉心を十分に刺激した。まず、郵便事務が公務であることを説いた。家を自費で改造し郵便ネットワークはわずか4年で完成した。庶民にまで根付いた公意識が奇跡の近代化が成し遂げられていったのである。一部の政治家や実業家の力というより国民一人一人の総力をあげて実現した。名こそ惜しけれが「公の意識」に代わっていった。
また、明治の政治主導による資本主義が形を成したのは、汚職しなかったからである。
明治の役人たちは、痛々しいほどに清潔だった。明治の日本には資本主義の興し手たちをみても民衆をみても、また民権運動家をみても公の意識が横溢しすぎていた。
その公の意識を武士という人々の中にみつけられる。
武士がはじめて表舞台に登場した鎌倉時代。日本史が中国や朝鮮の歴史とまったく似ない歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府という素朴なリアリズムをよりどころにする「百姓」の政権が誕生してからである。
律令制の土地制度という不条理なものから農地の所有をたしかなものにした。その影響は人の心にあらわれた。決してもつことが赦されなかった土地を、はじめて自分のものとした喜び。それが決して恥ずかしいことをしないという「名こそ惜しけれ」という精神につながった。
鎌倉時代に語るべきものの第一は、武士たちのこの節義というものだろう。ついで、かれらの死についてのいさぎよさといっていい。こればかりは古今東西の歴史の中で際立っている。かれらは坂東武士とよばれた。
土着の倫理「名こそ惜しけれ」、名を汚すような恥ずかしいことをするなという坂東武者の精神はその後の日本の非貴族階層につよい影響をあたえ、いまも一部のすがすがしい日本人の中で生きている。
「名こそ惜しけれ」とさえ思えば、キリスト教的な倫理体系に、このひとことで対抗できる。
総まとめ
「この国のかたち」司馬遼太郎
第1集 ”島国”ニッポンの叡智 (49分)
日本人の柔軟さの素。
第2集 ”武士”700年の遺産 (49分)
武士という人間像は、日本人が生み出したその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。
明治の奇跡。驚くほど手間のかかることを驚くほどのスピードで全国一斉に実現したこと。学校教育の柱である小学校を8年で全国各地に整備、明治19年には近代産業の要である鉄の大量生産を実現した。鉄道網も30年あまりで7000kmを広げた。
また、わずか4年で手品のように鮮やかに郵便制度を展開した。手品の種は全国の村々の名主のしかるべきものに特定郵便局をやらせたことによる。かれらの名誉心を十分に刺激した。まず、郵便事務が公務であることを説いた。家を自費で改造し郵便ネットワークはわずか4年で完成した。庶民にまで根付いた公意識が奇跡の近代化が成し遂げられていったのである。一部の政治家や実業家の力というより国民一人一人の総力をあげて実現した。名こそ惜しけれが「公の意識」に代わっていった。
また、明治の政治主導による資本主義が形を成したのは、汚職しなかったからである。
明治の役人たちは、痛々しいほどに清潔だった。明治の日本には資本主義の興し手たちをみても民衆をみても、また民権運動家をみても公の意識が横溢しすぎていた。
その公の意識を武士という人々の中にみつけられる。
武士がはじめて表舞台に登場した鎌倉時代。日本史が中国や朝鮮の歴史とまったく似ない歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府という素朴なリアリズムをよりどころにする「百姓」の政権が誕生してからである。
律令制の土地制度という不条理なものから農地の所有をたしかなものにした。その影響は人の心にあらわれた。決してもつことが赦されなかった土地を、はじめて自分のものとした喜び。それが決して恥ずかしいことをしないという「名こそ惜しけれ」という精神につながった。
鎌倉時代に語るべきものの第一は、武士たちのこの節義というものだろう。ついで、かれらの死についてのいさぎよさといっていい。こればかりは古今東西の歴史の中で際立っている。かれらは坂東武士とよばれた。
土着の倫理「名こそ惜しけれ」、名を汚すような恥ずかしいことをするなという坂東武者の精神はその後の日本の非貴族階層につよい影響をあたえ、いまも一部のすがすがしい日本人の中で生きている。
「名こそ惜しけれ」とさえ思えば、キリスト教的な倫理体系に、このひとことで対抗できる。
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凄い事ですね
>明治の役人たちは、痛々しいほどに清潔だった
現在は??
議員天国どころか その婦人まで・・・
まあ 言っても無駄ですね
> 現在は?? 議員天国
現在の議員のモラルは低いですし、役人たちの不清潔さにはあきれます。
明治時代も井上馨が、西郷に「三井の大番頭」というほど“貪官汚吏”の権化みたいな者も「この国のかたち」の中で触れています。
民間も役人も、総じて清潔だったといっています。
歴史学者には否定され、いろいろ些細な誤りを指摘されたりしていますが、一般庶民に歴史を大衆小説風に展開してくれたこと、イイのじゃないでしょうか。
https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/s/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E5%8F%B2%E8%A6%B3
どうすればよいかと上官に尋ねたら、引き殺して
国民を守る軍隊が、敵軍と交戦する責務を優先させて、国民を引き殺すなんて馬鹿げたことだと呆れたと述懐しています。
例えば、スポーツでトップを目指すのに耐える力をつけるための叱咤激励のビンタ罵声をよしとする風潮が、どこぞの現代の組織が陥る
愚策に似ています。
司馬遼太郎さんの真髄ですね
司馬遼太郎さんのキリスト教に関する講演
聴いた記憶有りますが、その時感動を覚えました
八百万の神のいます日本ですから、キリスト教のみを信じなさいという考えには、ついて行きにくいのでしょうか・・・。
司馬遼太郎が次のように記しています。
死せる両親たちは発見されることが遅かっただけで、つまりザビエルが日本にやってくることに間に合わなかっただけで、なんの罪もないのである。
死んでしまった先祖たちが地獄に堕ちるなら、自分だけがキリスト教信者になっても救いがありません。
『自分だけがキリスト教信者になって天国に行けてもも、死んでしまった先祖たちが地獄に堕ちるなら
救いがありません』
私の 浅学では
キリスト教信者、現世では敗者復活制度あります
が、死後は敗者復活な無い。
日本の仏教社会は、現世では敗者復活難しいが、
死後には敗者復活制度ありますね。
『悪人正機説』等キリスト教信者には理解できない
でしょうね。
当方は、政治や宗教観をブログにするのをご法度にしていますが、ときどき読後感想という形や風刺でアップするていどです。