


柳生の里は、陣屋跡、家老屋敷、柳生一族の墓が点在する剣豪の里だった。
柳生石舟斎宗厳は、戦国末期に上泉伊勢守について新陰流の秘伝を授けられ、新たに無刀の術を極め、柳生新陰流を創始した。
「剣は人を斬るに非ず、人を活かすにあり」と説く人を生かす「活人剣」こそがその極意とされ、それゆえに無刀取り(世に言う「真剣白刃取り」)という神技にいきついたのだと思われる。

この伝説の一刀石は、柳生の里から薄暗い山道を30分ばかり歩いたところにある。
![]() | 石舟斎の五男の但馬守宗矩は、将軍家の兵法指南役として秀忠・家光に柳生新陰流を教授し、将軍側近をつとめ一万石余で大名の列に加わり、後に大目付の要職についた。 ←柳生家墓所(左から宗冬、宗矩、十兵衛)) |
![]() | 柳生の里に通じる柳生街道の春日山原始林内に石仏が点在する。 朝日観音は、朝日があたると美しく浮かび上がる。 大仏殿建設の石材を掘り取った跡に20体の石仏が彫られた春日山石窟仏、 |
<注>18年ほど前の関西のテレビ「歴史街道」に放送された画像を使用。



>「剣は人を斬るに非ず、人を活かすにあり」
素晴らしい言葉ですね
>石舟斎が修行中・・・
2年前にご参考にさせていただきました
↓
http://blog.goo.ne.jp/yamakawa_trek/e/66ad35118dd2b141a48fe80a2f4ed05c
昭和41~2年だったでしょうか、組合の下部組織である青年婦人部(独身男性と女性で組織された部)の主催で近鉄奈良駅前から柳生の里まで約20キロメートルほどの山道を歩く行事に参加した時のことです。
最初は元気よく歩き始めたものですが、15~6キロメートルほど行ったところで、2~3年前に痛めた膝痛が再発し、苦しみながら到着したことが思い出されます。
帰りはバスで帰ったのですが、その後、暫くビッコを挽いての通勤でした。
見学したところはよく覚えていませんが、外から見た長い白い塀はよく覚えています。
石舟斎 カランコロンと 真っ二つ / iina川柳
「一刀石「を伝説に残すほどの技を、石舟斎は宮崎県の岩山・比叡山で修行して「カランコロン岩」を試しに斬ったのてしたね。
柳生の里には、一度しか行ったことはありませんが、録画した「歴史街道」を見直すと書き残しを感じて追加しました。
川柳の交流相手は、次の「晴れおとこ」さん宅の「しりとり川柳」です。いちど此方で修行を・・・。
http://homepage2.nifty.com/hareotoko/top2.html
iinaは、狭い庭の木の剪定程度ですから、木の根回しをする心配はありません。せいぜい、定価を「値切る」ことを
店員に試みています。
柳生街道を歩き膝痛が再発とは、苦い想い出があったのですね。
>天体を撮影構図へ取り込む場合、情緒のある月が良いと思います。
再び指摘すると、また怒られそうですが、タイトルに年月日は無粋です。写真に情緒を盛る心得があるのに、タイトルに
日付はいただけません。
備忘録として日付を入れているとのことですが、投稿日は自動で印字されるので、記事と投稿日を正く記憶したい場合は、
但し書きに残すことで叶います・・・。
観客の関心は、題目ですから日付は邪魔です。なにより無粋ですから、情緒を気にする焼酎学生さんらしくありません。
またまた、余計なことをコメントしてしまいました。ご免なさい。
関西の「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を
時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。
http://asahi.co.jp/rekishi/index.html
そんなことから、柳生の里も歴史街道に含まれます。
未だ、子孫の人達が住んでいるんでしょうかねえ。
>柳生の里は・・・どこまでが史実で、どこからが創作なのか、非常に興味があります。
謎めいたところに惹かれるのは、更家さんと同じです。
奈良から柳生街道を行った直ぐに浄瑠璃寺があります。ここの寺は、奈良的で好感です。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/215dfa12183b7b8f8340957ff3cb5962