鶴ヶ城
2018年03月30日 | 旅
会津若松城こと鶴ヶ城
西出丸から入った帯郭辺り 北側 太鼓門辺り
1384年、蘆名氏が築城し黒川城と名づけた。
伊達政宗が豊臣秀吉の制止を無視し蘆名氏を滅ぼし城を手にするも、政宗は1590年に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。
代わって蒲生氏郷が入城し七層の天守閣を完成させ「鶴ヶ城」と名を改めた。次に上杉景勝が120万石で入封。
関ケ原後1601年(慶長6年)に蒲生秀行が再び入城。
1627年伊予松山より賤ヶ岳の七本槍の一人・加藤嘉明が入封。
1643年、徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。
2011年、天守閣の瓦を検証通りの赤瓦に葺き替えた。
←鉄門からの天守閣
御三階跡の前辺り
茶室麟閣 右奥
鉄門の先に南走長屋がつづき、最奥が千飯櫓。
白帯が飯豊山(いいでさん) 太鼓門跡
磐梯山
磐梯山 ポール辺りの飯盛山に白虎隊が眠る
②にもどる つづく
西出丸から入った帯郭辺り 北側 太鼓門辺り
1384年、蘆名氏が築城し黒川城と名づけた。
伊達政宗が豊臣秀吉の制止を無視し蘆名氏を滅ぼし城を手にするも、政宗は1590年に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。
代わって蒲生氏郷が入城し七層の天守閣を完成させ「鶴ヶ城」と名を改めた。次に上杉景勝が120万石で入封。
関ケ原後1601年(慶長6年)に蒲生秀行が再び入城。
1627年伊予松山より賤ヶ岳の七本槍の一人・加藤嘉明が入封。
1643年、徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。
2011年、天守閣の瓦を検証通りの赤瓦に葺き替えた。
←鉄門からの天守閣
御三階跡の前辺り
茶室麟閣 右奥
鉄門の先に南走長屋がつづき、最奥が千飯櫓。
白帯が飯豊山(いいでさん) 太鼓門跡
磐梯山
磐梯山 ポール辺りの飯盛山に白虎隊が眠る
②にもどる つづく
自分も およそ1カ月前に行ったばかり
記憶も新しいです(^o^)
その時は お濠も凍って
お城も雪景色でしたが
今は すっきり春の装いですね
お城も ひと際美しいお姿でまぶしい程です。
そうでしたね、お城は延岡城でしたか。
夜に城を歩くことはありませんが、ライトアップのお城もいいですね。
ライトアップされた景色を撮るのは、案外と難しいですがよく撮れています。
> 鶴ヶ城 自分も およそ1カ月前に行ったばかり記憶も新しいです(^o^)
Kさんの鶴ヶ城は、まるで雪像のお城みたいに凍って見えます。ブルル
https://blog.goo.ne.jp/yamakawa_trek/e/cae72d5b1cb33c8f20b62ba985c3631f
なんとなく、そうと思ってましたが・・・。
白虎隊は鶴ヶ城ですし、ほかでは会津若松城ともいいますから、こんがります。
悲劇の白虎隊の歌が有名です。
白 虎 隊 の 歌 詞 (作詞:島田磬也 作曲:古賀政男)
1 戦雲暗く 陽は落ちて
弧城に月の影悲し
誰が吹く笛か 識らねどんも
今宵名残の 白虎隊
2 紅顔可憐の 少年が
死をもて守る この保塞
滝沢村の 血の雨に
濡らす白刃も 白虎隊
(詩吟)
南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
痛哭涙を飲んで且彷徨す
宗社亡びぬ 我が事おわる
十有九士腹を屠って斃る
3 飯盛山の 山頂に
秋吹く風は 寒けれど
忠烈今も 香に残す
花も会津の 白虎隊
花も会津の 白虎隊