
きょうが、社会人になってピッタリ50周年に当たる。記念にその時代を回想した。その時代の給与のベースアップはやはり桁違いだった。
1973年のオイルショック(石油危機)直前に社会人になったので、給与に着目すると3年後の給与が初任給の倍を超えたほどの勢いだった。
当時は、社会に出立てなので、それが如何にすごかったかに気付かなかった。
この5年後に1975年の倍に、その6年後にその倍になった。入社13年後には初任給の8倍を超えた。
いまの銀行定期の金利が0.002%なのが、当時は8%。10年間で2倍近くに増える桁違いな時代だった。
1980年代末期から1990年代初頭、日本中がバブル景気に湧き、株価や不動産価格が高騰を続けた。
1973~99年の郵便貯金の定額貯金3年以上の利回りの推移が次。
バブルがはじけると急激に落ちこんだ。こうして、超々低金利が今もつづいている。

1972年(昭和47年)の出来事




01月09日 「ムーミン」放送開始
02月02日 元日本兵・横井庄一 「恥ずかしながら」と帰国
02月03日 札幌オリンピック
02月19日 あさま山荘事件
03月 奈良県明日香村の高松塚壁画発見
03月15日 山陽新幹線 新大阪駅~岡山駅 開業
05月15日 沖縄返還
06月17日 ウォーターゲート事件
09月05日 ミュンヘンオリンピック、テロ事件
10月01日 「シャボン玉ホリデー」 放送終了
10月28日 上野動物園にパンダのランラン、カンカン来日
【流行歌】
「結婚しようよ」よしだたくろう、「学生街の喫茶店」ガロ、「男の子女の子」郷ひろみ、「瀬戸の花嫁」小柳ルミ子、「女のみち」ぴんからトリオ、「喝采」ちあきなおみ
【洋 画】『死刑台のメロディ』(伊) 『猿の惑星』『ゴッドファーザー』『キャバレー』(米)
1973年のオイルショック(石油危機)直前に社会人になったので、給与に着目すると3年後の給与が初任給の倍を超えたほどの勢いだった。
当時は、社会に出立てなので、それが如何にすごかったかに気付かなかった。
![]() | 1972年の初任給手取りは 45000円。 ただし、春闘後の正式初任給は52500円。 春闘を反映した6月給与と4月を比べると 7500円16.6%アップだった。 |
![]() | 3年後1975年に初任給の倍を超えて111740円。 前年の22830円25.6%アップ (追給45660=22830×2は 4~5月分の意) |
いまの銀行定期の金利が0.002%なのが、当時は8%。10年間で2倍近くに増える桁違いな時代だった。
1980年代末期から1990年代初頭、日本中がバブル景気に湧き、株価や不動産価格が高騰を続けた。
1973~99年の郵便貯金の定額貯金3年以上の利回りの推移が次。
バブルがはじけると急激に落ちこんだ。こうして、超々低金利が今もつづいている。

1972年(昭和47年)の出来事




01月09日 「ムーミン」放送開始
02月02日 元日本兵・横井庄一 「恥ずかしながら」と帰国
02月03日 札幌オリンピック
02月19日 あさま山荘事件
03月 奈良県明日香村の高松塚壁画発見
03月15日 山陽新幹線 新大阪駅~岡山駅 開業
05月15日 沖縄返還
06月17日 ウォーターゲート事件
09月05日 ミュンヘンオリンピック、テロ事件
10月01日 「シャボン玉ホリデー」 放送終了
10月28日 上野動物園にパンダのランラン、カンカン来日
【流行歌】
「結婚しようよ」よしだたくろう、「学生街の喫茶店」ガロ、「男の子女の子」郷ひろみ、「瀬戸の花嫁」小柳ルミ子、「女のみち」ぴんからトリオ、「喝采」ちあきなおみ
【洋 画】『死刑台のメロディ』(伊) 『猿の惑星』『ゴッドファーザー』『キャバレー』(米)


それにしても、よく50年前の給与明細を保存してましたね。
定期金利が8%くらいだったのを覚えてます。
2年定期の利息を1年目に受取るタイプと据え置くタイプがあったように記憶してます。
古きよき時代が懐かしいです。
まさか、年利1%を割る時代が来ようとは夢にも思わなかったです。
後に、振込払いになりましたが、それまでは現金払いでした。給与袋から明細のみを剥がして生涯の給与明細を保存してますょ。
現在は、コロナが蔓延し阪神淡路大震災と東日本大震災さらに原発事故にサリン・テロを遭遇し、事件も事故も常識外れを目の当たりにしています。
そのうえ、ロシアが戦争をはじめてしまいました。恐怖です。
この先、何が起こるか❔
富士山の噴火にそなえて避難訓練の必要性が叫ばれはじめました。ありえる脅威です。
バブルのころは、ワープロもなく卓上計算機は1972年は30万円ほどの高級機器でした。
コンピーターは、ワンフロア使っていて、オープンリールで記憶していました。ワープロは1981年に1台400万円ほどでした。
* つる姫さんのブログアドレスをコメント上に置きました。
バブル時代には、給料は上がるし、個人ではとても行けない様な高価なお店に業務でお供したりして、いい目に合ったことも多々ありましたが、でも好きな時代ではありませんでした。
仕事のノルマは、果てしなく倍々になっていくし、世の中、土地転がしの話しばかりで、汗水たらして働くのはバカだみたいな風潮が嫌いでした。
そう、今の中国の様に、金権主義がはびこっていましたね。
岸根公園が東京ドーム3個分の広さで
バブル時代の営業ではノルマが増えて大変な時代であったことでしょう・・・。
普通の会社が、ディーラールームを備えて株取引するのをテレビが報じる時代でした。その会社は、バブルがはじけて
大変な目に遭ったことでしょう・・・。果たして、生き残れたか ❔
銀行と協調融資したのが焦げ付くなど、ソルベーシーマージン不足で外資に包括移転して顧客を保護しましたが、
第二の人生に踏み出さざるを得なかったです。
沖縄が本土復帰しての仕事は、満期または解約した場合に、戦前戦後のインフレ率を考慮し、さらに戦後の物価上昇も配慮して、その率を求めることでした。
この年に、横井庄一氏が「恥ずかしながら」と日本に帰国しました。
そうでした、札幌オリンピックの開催された年でしたょ。^^
* 比企の丘さんのブログアドレスをコメント上に置きました。
あの当時パスポート持って沖縄に仕事にいってました。
そのころの沖縄はほとんどが基地経済、基地関係雇用者、メイド、基地地主、米軍相手の三次産業、ベトナム戦争中であり、戦争に向かう明日の生死もわからぬ兵士がドルをポケットに夜の酒場で大散財。ステーキが1$。ウヰスキーボトルハーフが5$。
本土復帰は希望を持ったようですが、1$=360円が変動相場制になって305円に、財産が2割弱減ったと嘆き節でした。
基地返還・・・沖縄の人にとって左右に関係なく当たり前の主張です。
コメントありがとうございました。
給与を現金払いしていた昔は、2万円を5千円札2枚と千円札10枚にして喜ばれたことがありました。
そうでした。
上司の中には諸控除に数万円を引かせて「へそコリ」にしてましたっけ。