元の木阿弥(もとのもくあみ)とは、一旦状態の良くなったものが元の悪い状態に戻ることを表す言葉。阿弥陀仏と何か関係があると考えられがちだが、木阿弥というのは人の名前で、元の木阿弥とはある故事に由来した言葉。
戦国の世の1551年、大和の武将・筒井順昭が28歳にして不治の病で亡くなった。彼の息子の藤勝(のちに順慶)はまだ幼いため、これに乗じて敵対する松永弾正が攻めてくる恐れがあった。そこで順昭の遺言により順昭と声がよく似ている奈良の木阿弥(黙阿弥)という貧乏な僧侶を影武者に仕立てた。
順昭の死を知っていたのはほんの数人。木阿弥は贅沢な生活が出来たわけだがやがて筒井家は体勢を立て直し順昭の死を公表。順慶を正式に当主とした。木阿弥は任を解かれ奈良に帰った。「元の木阿弥」に戻ったというわけである。
故順昭は、三年間喪を秘せといったが、味方でさえ木阿弥を主君と思うようになったため、喪を発したのはなんと永禄三年、足掛け十年目であった。余談ながら、順昭が秘策を講じたとき枕元に島左近がいた。彼は、のちに筒井家を浪人し、石田三成の家老になって関ヶ原前後における外交、戦略を担当した。
本話題をきょうのブログにしたのは、今朝読んだ小説がこの故事に触れていたので、本当かと調べたらその通りであることがわかった。
[ 洞が峠 に つづく ]
戦国の世の1551年、大和の武将・筒井順昭が28歳にして不治の病で亡くなった。彼の息子の藤勝(のちに順慶)はまだ幼いため、これに乗じて敵対する松永弾正が攻めてくる恐れがあった。そこで順昭の遺言により順昭と声がよく似ている奈良の木阿弥(黙阿弥)という貧乏な僧侶を影武者に仕立てた。
順昭の死を知っていたのはほんの数人。木阿弥は贅沢な生活が出来たわけだがやがて筒井家は体勢を立て直し順昭の死を公表。順慶を正式に当主とした。木阿弥は任を解かれ奈良に帰った。「元の木阿弥」に戻ったというわけである。
故順昭は、三年間喪を秘せといったが、味方でさえ木阿弥を主君と思うようになったため、喪を発したのはなんと永禄三年、足掛け十年目であった。余談ながら、順昭が秘策を講じたとき枕元に島左近がいた。彼は、のちに筒井家を浪人し、石田三成の家老になって関ヶ原前後における外交、戦略を担当した。
本話題をきょうのブログにしたのは、今朝読んだ小説がこの故事に触れていたので、本当かと調べたらその通りであることがわかった。
[ 洞が峠 に つづく ]
元の木阿弥の話面白く読ませてもらいました。
藤沢市の白旗神社には義経の首塚があります。
頼朝は、義経の首実験をすることもなく、江ノ島の北にあるこの地に埋めたとか。
1号線の傍らにあります。
筒井順慶にからんで「元の木阿弥」と「洞が峠を決め込む」の二つも故事をもっているというのは珍しいですね。
ところで、滝廉太郎作曲「ハトぽっぽの碑」が浅草寺境内にあります。
(数波 零)さん へ
トリビアは、よく見る番組だけど、「杏マナー」を連続で書くと文字全体が右下がりに見えるというのは見逃したようです。
面白い話をありがとうございました。
(k-a-3)さん へ
UFOはホントに目の錯覚の類だったのでしょうか?
いろいろと拡大解釈して尾ひれがついたのでしょうか。
目の錯視も、知覚の錯覚もあり得るはなしです。
例の
『1+1=1』は、一体どうなるのでしょうか?
コメントをありがとうございました。
(GreeneryPark日記)さん へ
じっと 見ていると 揺れているように感じますね。
ブログタイトル「鬼の首取ったつもりが俺の首」は、
人工的ながらホントに首をとったように思えるでしょう?
ちと、不気味ではありますが、ひねった写真です。
(変愚院)さん へ
変愚院さん、こんにちは。
いろいろとご活躍ですね。
東京の隅田川には、言問橋がかかっていますが、
「名にし負はば いざ言問はん都鳥 …」という
隅田川を舞台にした在原業平ゆかりの和歌から
命名されたそうです。
はじめは、葛城の一言主神と関係ありそうに
思ったものでした・・・。
(ほのか)さん へ
メインHPにお越しでしたか。ロマンあふれる飛鳥ですね。大阪時代に何度か訪ねました。
(時ノ坊)さん へ
役小角に関するブログが多いのに驚き !
iinaブログ中に役行者が一言主神に建設を命じた、葛城山から大峰山への架け橋の残骸とされた「岩橋」をリンクしています。あるいはお出掛けしてご存知のご様子ですね。
なお、「富士講」についてブログしていますので、ご覧ください。