もののはじめblog

コメント歓迎 ! 
必ずコメントに参ります by iina

忠臣蔵~罪深いひと~

2005年12月10日 | 歴史
討入は12月14日。悪役といえば吉良上野介義央が似合い、三世紀にわたってすっかり板についてしまった感がある。しかし、「忠臣蔵」が演じるように上野介は本当に罪があるひとだろうか。そもそも、浅野内匠頭はどうして上野介に斬りつけたのか?

最も一般的なのが賄賂説。他に、吉良が浅野内匠頭を面罵した説。ふたりの性格の違い説。内匠頭の持病(神経症的な気の病)の病気説。上野介の横恋慕説や寵童説。塩の製法を頼み断られた塩田説。浅野内匠頭が勅使接待の費用を節約しすぎたという予算説。
等々あるけれど、要は喧嘩であって、朝廷の勅使を迎える大事な勅使饗応の日に、しかも勅使接待役にありながらわざわざその当日に、私憤を晴らしたのは言語道断の振る舞いだ。たとえ、諸説にあるような無体な目にあっていたとしても、一国の主(あるじ)たる身にしては軽率な振る舞いだ。
殿中で刀を抜くこと事態が「その身は切腹、お家断絶(幕府の常識)」なのだから一時の激情に身を委ねていい筈がない。これだけでも、藩を束ねる資格はないといえる。そのために一族郎党ばかりか相手藩まで巻き添いにしている。
浅野内匠頭は、忠臣蔵で一番罪深い人だ。

ここのところをどなたも指摘しない。
フーテンの寅さんなら「それをいっちゃ~ おしまいよ」で、美談が成立しない。触れてはならぬご法度として伏せておいた方がよい。みなさんも、よくそこのところをわきまえてか、忠臣蔵としての演劇を愉しむばかり。
もちろん、幕府の喧嘩両成敗の鉄則に反したことに対する赤穂浪士のとった行動は、日本の歴史に残る快挙であることに変わりはない。

<吉良上野介>

時代は変わり、何年前だったか大石家と吉良家で仲直りしたようです


コメント (18)    この記事についてブログを書く
« 師走は 忠臣蔵 | トップ | 鮟鱇擬姿 »

18 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
浅野様頭痛説 (Shigekazu)
2005-12-10 22:00:54
浅野内匠頭が当日大変な頭痛で侍医玄渓を呼ばせたという話が、私が小学生の頃読んだ本に出てました。幕府の喧嘩両成敗の法というのが本当にあったのかどうかよく知りませんが綱吉の処置はおそらく適法であり、荻生徂徠の仕置意見も理にかなっているでしょう。足利支流でもともと松平・徳川よりずっと家格の高い吉良家を悪者にするもっと深い理由があったのではないですか。
返信する
TB有り難うございます☆ (たまご)
2005-12-11 07:45:13
iinaさん・・・でよろしいですか?

昨日はトラバ有り難うございます。

私の家のカレンダーには12月14日に○印が

つけられています。



奥深い「忠臣蔵」ですが、読み手にとって、

また小説を書く書き手にとってその作品のカラーが

色々と変わるのも面白いところですね。



実のところは本人のみぞ知る・・・といったところで

しょうか
返信する
赤穂浪士 (ジョージ小川)
2005-12-11 11:54:33
トラックバック有難うございました

返信する
はじめまして (下町ウォーカー)
2005-12-11 14:00:03
はじめまして、iinaさん。

コメントありがとうございます。

ブログ拝見させていただきました。



わたしは“吉良さま”を供養する吉良祭・元禄市へ行ってきました。

たくさんの屋台が並んですごい賑わいでしたよ。

現在は、当時の吉良屋敷の1/76の本所松坂町公園(吉良邸跡)として残っています。

おなじみの甘酒接待・義士祭が14日に行われます。

この甘酒が、とってもあったまるんです(笑)
返信する
TB有り難うございます (まさ)
2005-12-11 17:05:24
忠臣蔵は歌舞伎になったので大げさにして物語としておもしろいですね。事実はかなり違うと思います。原因が塩の問題と言われたり、吉良上野介は領民から慕われていた名君だったとか。赤穂側から見た面と、吉良川から見た面では違います。
返信する
コメントにお礼 (iina)
2005-12-11 20:59:25
円さん へ

師走は気忙しいですね。

iina宅でもクリスマス模様です。ハイ、ブログが。

>広島の聖光寺というお寺には、大石内蔵助の髪の毛の塚があるそうです。

>その話を聞いて、へえー、でした。

きょうのiinaのブログは、あゃ へぇ~

そうくるか と、いった内容かも知れません。

コメントをありがとうございました。



⇔円さんより

浅野内匠頭がアホやから、というのは、松島 栄一「忠臣蔵」、小林 信彦「裏表忠臣蔵」、井上 ひさし「不忠臣蔵」などでも書かれていたと思いますよ。



四の三半さん へ

>双葉社の杉浦日向子氏著の”ゑひもせす”に収録されている”吉良供養”が私は好きです。

愛知の吉良町では、善政を敷いた吉良さまで通っています。

当時の価値観では、浅野内匠頭のそばに付いていた江戸のブレーンに恵まれなかったともいえます。それも殿様次第なので、浅野内匠頭はいつか同じような過ちを犯したかもしれません。

iinaは耳は耳でも、トーストの耳が好きでした。

母が油で炒め、砂糖をまぶした耳です。



こはぜさん へ

冬専用の雪駄があったのですね。

なるほど見た目にも暖かそうです。

iinaは祭りの雪駄をもっていますよ。

それも、浅草の三社祭にゆかたで集う会があって求めたのです。

ゆかたを買おうと、駅前を見回すと「きもの屋」をみつけ、

昼休みに出かけたら、「は”きもの屋”」でした。

師走は「忠臣蔵」ですね。



Shigekazuさん へ

>足利支流でもともと松平・徳川よりずっと家格の高い吉良家を悪者にするもっと深い理由があったのではないですか。

深い読みですね。

ただ、だからこそ高家を尊重していたのが実態だったと思います。

いずれにせよ突然の悲報に両家はてんてこ舞いさせられ、悲劇になってしまいました。

また一方、逆に劇「忠臣蔵」にもなったのでしょうか。



たまごさん へ

「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」

これは大石内蔵助の辞世の句です。

大石内蔵助の大ファンで赤穂まで観光してしまうとは、行動力がありますね。

iinaは京都の「一力」を通り過ぎただけですが、山科で偶然に隠家を見つけましたヨ。

皇室の御寺である泉涌寺のそばですが、庵のような風情でした。

⇔たまごさんより

内蔵助らしい辞世の句ですよね。

歴史などさっぱり興味もなかったのですが、

これをきっかけに少しずつ歴史が私の中で

繋がりつつあるんです。

赤穂まで行った事は今となっては「夢」のような

出来事です。

でも、その「夢」を見させてくれた内蔵助には

感謝しています。

・・・って300年以上経ってから感謝されても

内蔵助も困るだろうなぁ~~

何でも、子孫が演歌歌手をしているらしいですよ。

「大石ゆきえ」という名だったと記憶しています。



ジョージ小川さん へ

当時の有名な学者・佐藤直方の論法には初めて接しました。

①内匠頭が幕府の法を犯して死刑にされたので、上野介を仇だと考えるのは筋違いだ。死刑が不満ならば、不当裁判した幕府が敵になる。

②あだ討ちは、不当に殺された者の子がするものなのに、家来がしたのはあだ討ちとはいわない。やはり犯罪だ。

①はなるほどと思いますが、②は忠臣たろうとすれば武士道たり得ると考えます。

元禄のころは戦闘もなく平和だったので、馬鹿殿様に対してでも操を立てるという儒教を武士たちに諭した、というのはよく見受ける解釈ですが、理屈に合っていそうです。



下町ウォーカーさん へ

10日が東京両国の吉良邸跡で『吉良祭』だったのですか。

14日に『義士祭』なのですね。

『吉良祭』を前に行うというのもいいですね。

『義士祭』の後だと悪役とされる吉良さまは見向きもされなさそうです。

iinaはなにより甘酒接待(無料)が魅力です。

⇔下町ウォーカーさん より

10日・11日の“吉良祭”では「元禄市」が開かれており、たくさんの屋台が並んでいます。

相撲のまち・両国名物「ちゃんこ」もあるんですよ。

きょうみたいな寒い日は体があったまります!

わたしも14日“義士祭”での甘酒接待が魅力です。

この甘酒がうまいんです(笑)



まささん へ

(愛知から) と匿名で、9日のブログに対して、こんなコメントを頂きました。

『日本中、忠臣蔵になる師走です。元禄時代の話だから300年の歳月が流れ、いまだに、吉良の殿様が「殺され」ますね。

人気ある「仇討ち忠臣蔵」は、日本の文化にさえなってしまった。

地元吉良には、吉良さんの親戚筋が四家あります。そのひとつが「遠縁」にあたります。

吉良町は、当然、忠臣蔵はやりませんし、子供たちに教えて知らせることもありません。

吉良の殿様60歳までの功績を称え、我が郷土の英雄としては、伝えてくれるようです。

高校まで、地元でしたが「忠臣蔵」とは、なんだろうか?あまり知らないで過ごしましたね。

たまさか、殿様が「悪役出場」しているなんて!

ショックでねー

47人なるゲリラ隊が、60を越え、晩年の老人を殺すとは。』

真にまささんのご指摘とおり「赤穂側から見た面と、吉良川から見た面では違います」ね。

匿名で記すまでもありませんが、いまだに引きづっているようです。

返信する
天邪鬼のひとり言 (嵐風人)
2005-12-18 14:58:47
まさしく、おっしゃる通りですが、そう考えるとおもしろくないのでしょうね。TBさせて頂きました。私の方もおもしろくないかも。。。
返信する
吉良供養 (たち)
2005-12-29 22:31:20
iinaさん、はじめまして。

TBありがとうございました。

気付くのすごく遅くなって申し訳ありませんでした



浅野内匠頭、一番悪いのにたしかに誰もツッコミいれませんね。逆に吉良上野介は悪者扱いで、毎年時期になると放映される「忠臣蔵」での討ち取られるときの情けない演出は、ちょっとやりすぎのような気もします。



杉浦日向子さんの「吉良供養」は、討ち入りの様子を描いていますが、討ち入り中に浪士がお菓子を食べたというエピソードにはびっくりしました。よく食べられるなあって

返信する
Unknown (とんぼ)
2007-12-14 12:32:46
はじめまして、とんぼです。
TBありがとうございました。
私は古い着物の柄から、いろいろと読み解くのを楽しみにしております。討ち入りは、当時の社会情勢や庶民、武士の暮らしぶりなど思えば、さぞかしたいへんであったろうと思いますが、元はと言えば「アホな殿様を祝に持った武士の悲哀」。更に「不参加」の赤穂浪士は後々までもさんざん不遇を囲ったと言いますから、ほんとにアノヒト「罪な人」ですねぇ。
私は年代的に言って「東映」の忠臣蔵で育ったので、吉良さんというとつい歴代「悪役俳優」の憎々しげな顔を思い浮かべてしまいます。でも、名君であったそうですし…。赤穂と吉良の代表が「仲直りの儀式」なんてのもやったような。浅野さんはあの世で何を思っていることやら。いや、阿久里さんに「あんたねぇ」としかられているかも。
返信する
(とんぼ)さん へ (iina)
2007-12-16 12:37:58
武家の仇討は、「子供が親の仇を討つ」ことだけ。
親が子の仇を、兄が弟の仇を、は許されてなかった。
家臣が相手方を討つ忠臣蔵は、筋が通らぬという話を読んだことがあります。
また、
吉良家はお家断絶。「不参加」の赤穂浪士は後々までも
不遇だったようで、末代まで影響を引きずったようです。
いずれにせよ、罪なはなしでした。
返信する

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事