東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

落語「今戸の狐」から★

2015-03-15 10:48:32 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)


皆さまご存じの落語「骨の賽」(今戸の狐) 。

以前、知人から寄席の招待券をもらうことが多かったので、割とよく出かけたものですが、この演目は生で聞いたことがないんです。古今亭志ん生師匠所演のCDだけは持っていて聞いています。他の演者のは知らないのですが、細部など違うのでしょうか?



あらすじについては、私などが今さらと思うので省略します。

ここでは、噺の中に出てくる今戸焼の狐について長年不思議に思っていることを記したいと思います。内職で狐の絵付けをしている場面。これは昔、今戸焼の陶工の中に「木地屋」と呼ばれる人がいて、土人形の素焼きまでを専門として、業者が素焼きを仕入れ、別の人間が内職で色付けしていたという話と内容が合います。



噺の一番終わりの場面で、遊び人が勘違いして良助の家に上がり込んできて、戸棚の中の狐についてのやりとりで「金貼り」「銀貼り」という言葉がでてきます。遊び人にとっては「金張り」「銀張り」という博打の符牒が良助が内職で仕上げた狐の仕上げの種類との「金貼り」「銀貼り」と重なってくるところが面白いところですが、この「金貼り」「銀貼り」に相当する今戸焼の狐を私は未だかつて見たことがありません。金箔や銀箔を土人形の一部に貼りつけるのか、それとも全体に貼りつけるのか、、?箔を立体に貼りつけるのは結構面倒な作業のはずです。



2枚目の画像の手前に見える小さな狐のひとつ、黒ずんで見えるのは、これはまがい金泥(真鍮粉)を膠で溶いて塗ったものです。金泥には赤口、青口とあって、いずれも塗ったときにはきれいに輝いていますが時間が経つと酸化するのか真っ黒になります。こうしたまがいの金泥による仕上げは、歳の市で売り出される恵比寿大黒や寒紅の売り出しのおまけの紅丑などによく見られ、またこのような小さな狐に塗られる作例は見られます。しかし箔を貼ったものは見たことがありません。あるいは、どこかに残っていたら、後学のため、見せていただきたいと思います。



画像の狐たちは、今戸焼でお稲荷さんの奉納用に作られた「鉄砲狐」(一説に形が鉄砲の弾に似ているから)と呼ばれるもので、今戸で最も作られていた型のひとつです。地元浅草・下谷のお稲荷様はもとより、都内各地、成田山新勝寺の出世稲荷をはじめ下房一帯、相模のお稲荷様でも見かけていますし、埼玉県内でも、、。また東松山や熊谷付近、秩父地方では今戸の鉄砲狐を真似たよく似た狐も見られます。今戸には他にもたくさんの狐の種類はあったのですが、数の多さからいっても、噺に出てくる狐はこの型のものではないかと思います。作り手もたくさん、大きさもいろいろあったようですが、こうして並べてみると型も微妙に異なり、色も泥絵具だったり染料だったり、面描きのタッチも違います。お人形の吉徳さんに伝わっている天保年間の人形玩具の色手本にも配色が示されていて、台座のしましまは丹と群青、狐の足元は黄色(石黄?)と指定されています。2007_0101_000000p1010209



塗りが新しいものでも、型自体は台の低い型が古い型であると、誰かに聞いたことがあります。



3枚目の画像は私が再現を試みたものです。



ちなみに「骨の賽」ならぬ「土の賽」は今戸で作られていたようです。



YouTube動画 古今亭志ん生(五代目)「今戸の狐」→


★過去にアップした記事ですがブログ移転のため埃に埋まっていたものを虫干しする意味で再アップさせていただいております。また移転以前の記事内のリンクが移転によってずれているケースも見られますので今後修正していきますのでご了承ください。

 

 

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今戸人形 「晴れ着」(明治時代・尾張屋兼吉翁作?)

2015-03-12 05:54:27 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)


状態がよい人形ではありませんが、形や配色を把握できるという点では「こんな人形もあったんだ!」という作例を知る手がかりのひとつになると思います。新しい「おべべ」を着せてもらってうきうきしている心情の伝わってくる姿ですね。私は昔の「ローカルCM」のお宅なんですけど、この人形を見ると古い関西のCMを思い出します。「まあ きれいにならはって! ええ好みの着物やこと。そいつぁー岩田だよ。岩田呉服店」というのがあるんですが、うれしそうに両振袖を開いて見せたりするんです。まあCMに限ったことではなく、よい着物を身に着けたときにする姿なんでしょうね。

この人形の背面には「尾兼」の彫りがあり、最後の生粋の今戸人形の製作者であった尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~昭和19年)の養父であった金沢兼吉翁のお作りになった型なんだと思います。色の配色、色材の様子から、関東大震災後の春吉翁の作ではなくて、まだ今戸人形がおもちゃとして現役に作られていた明治時代のものだと思われます。振袖や裾に描かれた菱状の花模様は「羽子板持ち娘」にも見られるパターンですね。目のまわりの赤いぼかしもいかにも今戸人形という感じです。今日では娘さんたちが晴れ着を着る成人式とか大学の卒業式くらいなものなのかもしれませんが、思わずこんなポーズととってしまうということがありそうな気がします。(眉の描き込みがないので、既婚の女性なんですかね。でも着物や仕草は若々しい感じに見えるんですが、、。結髪的にはどうなんでしょうか。)

 

 

 

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乾也雛と○草雛

2015-03-03 21:19:29 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

今晩こそは「ひゐなの宵」ということになりますか。だいぶ前に「乾也雛と浅草雛」という記事をアップしたことがありました。
その続きということで記してみたいと思います。
最初の画像は当然ながら我が家の手持ちの人形ではありません。三浦乾也作の「室町風土雛」です。
モデリングもさることながら彩色の描き込み、、すごすぎます。展示のガラスケース越に撮ったものなのでちょっとぼやけていますが描き込みのすごさはおわかりになるかと思います。底にだったか背面にだったかへら彫りで記してあったかと思いますが、展示の仕方で廻って観ることができません。
これって型つくりなのか、完全に一品ものの手づくねのものなのかも触ってみないとわかりません。

2枚目の画像は手持ちの土雛で供箱。「深草雛」と記されています。上の乾也作の雛とは違いますが、雰囲気としては似た方向性のものではないかと思っています。一番眼につくのは台に描かれた「繧繝縁模様」(うんげんべりもよう=グラデーション風のたて縞模様)です。顔がお団子にちょこっと可愛い鼻をつけた様子も方向性としては近いと思います。今から4年か5年前、これの実物を見たくて、京都府総合資料館の「みかづきコレクション」蔵の同様の作の閲覧申請をして8月の末の京都へ一泊二日の強行軍で出かけたのです。更に遡ること今から30年くらい前だったか、玩具研究家の故・斉藤良輔さん監修だったかの「日本の人形」だったか「雛」だったか、新聞社から出版されたムック本があり、その中で郷土雛の東と西というテーマでカラー図版があって、その中に、この手の人形が「今戸人形」として紹介されていたこと。それが「みかづきコレクション」のものだということは後に藤田順子さんの「母と子のお雛様」だったか「お雛まつり」だったかに同じ画像で紹介されていたことで知りました。また「お人形は顔が命の吉徳さん」の先々代・山田徳兵衛さんの「人形百話」だったかによく似た人形の白黒画像があって「浅草雛」というものであることを知ったのです。京都まで閲覧に行った後、ほとんど同じつくりの現物が我が家に来たわけですが「深草雛」の箱書きがあって、「あれー?」という感じがするのですが、先の「繧繝縁模様」にしても乾也の雛とよく似たパターンなのはまったくの偶然ではないのだろうと考えています。「みかづきコレクション」にはしっかり「浅草雛」として登録されています。「浅」と「深」の一文字の違い。「かはらけは深い浅いの土で出来」という古い川柳がありますね。清水晴風の「雛百種」の中に浅草だったか江戸だったかの雛が含まれていて、この画像のに似た傾向のものだったような。そして以前アップしたことがある今戸人形の「一文雛」もお団子顔系です。
これら地下で何かしらつながっているのかどうかと思っています。せっかく我が家に来てくれたお雛様なので、いずれお手本として作ってみたいとうずうずしています。乾也作の「室町雛」に比べると地味にも見えますが、これでかなり描き込みのあるお雛さまです。

「乾也雛と浅草雛」→
今戸人形「一文雛」→
今戸人形「一文雛」(尾張屋春吉翁 作)→
今戸人形「一文雛と五人囃子」→

今戸人形?「ちょっと変わった裃雛」

2015-03-01 18:15:45 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

3月に入りました。日々の雑事の追われて気がつかないことが多い中、春は着実に近づいています。昨日のご墓所参りで隅田公園には既に盛りの過ぎた紅白の梅の木々が見られたり、うちの町内の比較的人通りの少ない細道の梅の木や椿の木の間をたくさんの「めじろ」が飛び交っていました。まだグレイな地面にもぎざぎざのタンポポやタネツケバナの小さな葉っぱが放射線状に貼りついていました。雛まつり目前。これまでいくつかの今戸人形のお雛様やその周辺のお人形をとりあげてきましたが、ちょっと不思議な感じのものがしまってあったのに気がついてアップしてみました。
今戸焼の土人形のお雛様といえば、一番ポピュラーなものであったであろう「裃雛」です。伝世品として残っているもの、近世の遺跡から大量に出土する遺物の量から見ても、今戸人形のお雛さまを代表するものだと思います。以前にもスタンダードな裃雛をアップしていますが、今回のは感覚的にちょっと違う?ような気もするのです。構図としては裃雛そのものですがモデリングとしては前後の肉付けが厚く、ぼってりとした印象。男雛の顔がややたて長で首が埋まっているように太い。女雛のあご周りは特に丸みを帯びて「肝っ玉母さん」の故・京塚昌子さんをイメージしました。ガラ(土玉)は入っておらず振っても鳴りません。面描きの筆があまり延ばさずちょこっとしたタッチですが筆の穂先は鋭く、慣れた筆使いではあります。(尾張屋春吉翁のタッチにも似てはいるような、、。)でもこんな感じの面描きの裃雛は我が家にはこれ以外ありません。
ひとつ気がつくのは帯紐と櫛?の部分に使われている銀(アルミニウム粉)です。銀で思い出すのは今戸人形の流れを汲む千葉県飯岡の土人形。あまり見たり触れる機会の少ない人形ですが、かなり末期に近い飯岡人形の裃雛の図版では着物の群青色の上に、粒子のかなり細かい銀色の粉を叩きつけてあるのを記憶しています。飯岡の人形といえば、かなりダイナミックな筆使いで子供の描画にも通じる野趣にあふれた作風というイメージがありますが、実際のところ画像の裃雛は「飯岡人形」の初期に近いものなの?」「今戸人形」なのか?頭をひねっているところです。

また男雛の底には古い三越の値札(たて書き)が貼りついていて「♯9 壱號 拾参銭」と記されているので、土雛が大人の趣味家の収集対象となり、三越呉服店(または百貨店)の陳列会場で即売されていたものではないかと想像しています。お詳しい方にお教えいただきたいところです。

今戸人形の雛やその周辺に関するこれまでの記事

今戸人形「裃雛」(江戸時代後期)→
今戸人形「裃雛」(明治時代)→
今戸人形「裃雛」(尾張屋春吉翁作)→
今戸人形「一文雛」→
今戸人形「一文雛」(尾張屋春吉翁作)→
今戸人形「一文雛と五人囃子」→
「乾也雛と浅草雛」→
今戸人形「官女」→
「今戸の土偶で雛まつり」→
「地口ゑ手本から①」→

拙作「仕事場」での記事「身に余る光栄」→

「吉徳さんと裃雛」→

捻り人形「招き河童」

2014-07-03 22:13:11 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010897 まだ仕事が済んだわけではないのですが、久しぶりに昔の人形の作例をご紹介したいと思います。画像ぼけぼけで済みません。

 とても小さなもので高さ2.5センチくらいでしょうか。残念なことに招く手先が損じていますが、私にとっては形があるだけでも十分な資料です。

損じている部分から覗く土色は江戸の赤い土ではなくて白っぽいものです。しかし、浅草辺りで鬻がれていたものと言ってよいでしょう。

 今戸人形の範疇に入るかどうかというところで断言できませんが、東京で作られたものと考えて間違いないでしょう。

損じているほうの手はあきらかに別作りで作って接合したもので「捻りの人形」「小捻(しょうねん)」という類のものと考えてよいでしょう。

戦前の有坂与太郎の著作等では「小捻」の作者の系譜には江戸東京系と関西系とがあったようです。

昨年の暮れにお亡くなりになられた捻り人形の名人葛飾の「杉立命光」さんと立話とさせていただいたことがありますが、杉立さんは遡ると京都の系統の流れを汲むのだと仰っていました。また、杉立さんはご自分の捻りの細工に使用する土は「本山木節粘土」(もとやまきぶしねんど)だと仰っていました。木節粘土はキメが細かく、粘りがあり、収縮も少ないので人形に向くのだそうです。

 画像の河童は木節粘土かどうかわかりませんが、関東の土ではなくてキメの細かい中京、関西の土と言って間違いはないのではないでしょうか。

古い尾張屋さん(江戸明治からの伝統を伝えていた最後の正当的な今戸人形屋さんで昭和19年に亡くなられた)の河童の人形の型では愛嬌のある可愛い表情のものがありますが、この人形は妖気のある、ちょっとおっかない顔ですね。そもそも河童は妖怪のひとつでもあり、滑稽な伝説もあれば、恐ろしい行いもしていたようなので、こんな表情のが本来なのかもしれませんね。

使用されている色は尾張屋さんの「藍色」とも、戦後人形製作を始められた白井さん(人形作りの古い伝承はない)の「澱んだ緑色」とも異なる草色がかった色ですが頭髪に「べんがら」の茶を置く辺り、やはり今戸に近しい感じがします。
河童が招く動作は画像の人形に限らず、一文人形にも招く河童があるのでパターンとして確立していたのかもしれません。

それにしても「招き猫」に限らず「招き狸」「招き狐」あり「招き河童」ありと、今戸焼の土人形には古くから招くパターンというものがあったというのは楽しいと思います。

古い今戸焼の河童の土人形の作例としてご参考まで

尾張屋春吉翁作 「客引き河童」→

尾張屋春吉翁作 「河童の火入れ」→

尾張屋春吉翁作 「娘河童」→

 

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今戸人形「太夫」(尾張屋春吉翁 作)

2013-01-15 21:29:25 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1011056今戸焼の土人形最後の作者であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)による「太夫」です。これまでの太夫に比べると裲襠のラインのつっぱり加減が甘くなってきてはいますが、前記2体の「太夫」と同じ型、あるいは前記の型からの型抜きによって形が甘くなったものではないかと考えています。春吉翁によるこの「太夫」の人形の裾には画像のように松が描かれていることが多いので「松の太夫」と呼ばれることが多いようです。春吉翁は裲襠を水色系統で塗ることが多かったのではないかと思うのですが、色違いとして画像のように鉛丹のような顔料で塗るケースもあったのでしょう。帯の緑色はレーキ系の顔料で、酸化銅ではありませんが、混色して昔の発色を出しているのではないかと思います。上からまがい振り金(真鍮粉)を巻いています。

裲襠を水色系統に塗ったものもあるので比較のため画像をアップしておきます。

同じ型の人形でも時代や作者により異なった印象になるという描彩や配色の変遷のごく一例としてとりあげてみました。

Photo_2


今戸人形「太夫」(幕末~明治はじめ?)

2013-01-15 21:08:42 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1011057_2型としては先の植物煮出しによる彩色の太夫とほぼ同じものですが全体的に顔料によって塗られているので、天保以降から幕末、明治はじめくらいにかかる可能性のある人形ではないかと思います。面描きはややユーモラスで稚拙な感じになっています。これは彩色者の違いによるところだと言うこともできます。裲襠は紫土べんがら、着物の胸元と褄は鉛丹のような赤い顔料で帯は緑青(酸化銅)、裲襠の襟周りは石黄で塗られています。裾の部分には緑青で「早蕨手」のような模様が描かれており、まがい振り金(真鍮粉)が蒔かれています。

先の人形とこの画像の人形とのあいだに実際どれくらいの年代差があるのでしょうかちょっとわかりませんが、それでも裲襠を薄紫色に塗ろうという意図は植物煮出しと顔料の違いはあっても共通しているように感じられるので、太夫さんの裲襠は紫系統という色の指定なり、世間の好みがあったものかどうか空想しているのですがどうでしょうか?


今戸人形「太夫」(江戸時代後期?)

2013-01-15 20:49:10 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

Photo生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)を最後に、江戸明治と伝統が受け継がれていた今戸焼の土人形の流れは廃れてしまいました。

時代を経て都内の再開発や建て替えの工事の際に江戸の近世遺跡から出土する当時の食器や生活道具に混ざって、色のとれてしまった土人形もかなりの種類と数が確認されているようです。

その中には伏見人形をはじめとする関西や中京かと推測される産地のものもありますが、東京の土で作られたもので、尾張屋春吉翁がご生前に製作されていた人形の種類と同じと考えられるものもあります。

また伝製品の古い今戸人形も残っており同じ型同じ姿の人形であっても時代や彩色者によって色の変遷をみることができます。

画像は江戸時代後期の作と考えられる「太夫」とよばれる人形です。色のとんでしまっている部分もありますが、残っている色から裲襠の薄紫色のように発色しているのは顔料ではなくて植物煮出しの「蘇芳」と「きはだ」の液体の混合で膠をつなぎとして塗られているものです。帯と褄の部分は墨、着物は緑青(酸化銅)、襟元に朱または鉛丹を置いています。額の生え際の表現が速筆のようでありながら鋭く、面描きも穂先の鋭いタッチです。

この人形はもとは伏見人形の「太夫」の型から型抜きされたものだろうと故・浦野慶吉さんがおっしゃっていました。時代が下って尾張屋春吉翁が「松の太夫」としてお作りになったものと型は同じだろうと考えられます。おととしで創業300年を迎えられた江戸東京のお人形の老舗「吉徳」さんに残っている天保年間の人形玩具の彩色絵手本である「玩具聚図」の中にも数点の今戸人形の配色が描かれています。その中にはこの「太夫」はありませんが、当時の今戸人形の配色には植物煮出しの指定はされておらず、顔料中心の配色になっているので、その点から画像のような植物煮出しで彩色する方法はそれより以前のやり方なのではないかと思われます。


今戸人形「大黒天ねずみ」(尾張屋春吉翁 作)

2012-10-25 20:16:48 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010934今戸焼の土人形の最後の生粋の作者と言われた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた人形です。

いで立ちは今戸焼の人形の中でも特に知られている「口入稲荷の男狐」に似て裃姿。但し手にしているものは絵馬ではなくて二股大根に宝珠です。同じ裃姿ではあっても口入狐に比べて肩が低く袴の前方への張り出し方も強くないので、口入狐を細工してねずみに直したというよりももともと別の型から直したものではないかと考えています。

口入れ狐のほうは裃雛の男雛から直したもの。画像の大黒天ねずみはおそらく福助お福の夫婦の福助の型(叶福助ではなく)から直して作られた型なのではないかと思うのです。

画像の人形は裃が胡粉に墨か黒の顔料を少しだけ混ぜたような淡い灰色、着物部分は朱色ですが、同じ型でも色違いがあり、裃が弁柄(酸化鉄)、着物が群青という配色パターンもあり、後者の配色は江戸以来の今戸人形の福助の配色と共通するからです。

背面に朱色で「大黒天」と記されていますが、どこかの神社仏閣の授与向けに作られていたものなのかどうか、、、?知っている限りの古い文献でこの人形の授与に関する記録というものを未だ読んだことがないので、もしご存知の方がいらっしゃれば是非ご教示くださいませ。

授与云々についてはわかりませんが、この人形の名称「大黒天ねずみ」は戦前の複数の文献にも記されています。ねずみは言うまでもなく大黒様のご眷属なので、日本全国に分布する伝統的な土人形産地の人形の中にも。大黒様と一緒だったり、大黒様の姿をしたねずみであったりすることが多い中、この「大黒天ねずみ」は裃を着て擬人化されてはいますが、大黒様の装束とは直接関係のあるイメージではありません。

しかし手にしている大根こそがミソで、「恵比寿大黒」→「恵比寿大根喰う」(えびすだいこくう)という地口になっているのです。「大黒」→「大根喰う」なんですね。「ねずみ大根喰う」→「ねずみ大黒」とも言えるわけです。

こういう趣向がいかにも江戸っ子好みだと喜んでしまうのは私くらいでしょうか?

春吉翁より以前に作られた同じ型の古い人形や出土品を未だ見たことがないですが、有坂与太郎あたりの記述に、この型の人形が春吉翁一代による創作とも記されていないので、もっと昔からあった型なのだろうと考えているところです。

来年の干支でもないのに何故今頃ねずみなのか?とお思いの方もいらっしゃるかと思いますが今後の記事の展開の伏線としてご紹介させていただきます。

P1010936


今戸人形「子負い」(尾張屋兼吉翁作・明治時代)

2012-06-20 20:24:29 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010201最後の生粋の今戸焼の人形であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)の養父である尾張屋5代目の兼吉翁の作ではないかと思っている人形です。筆のタッチが春吉翁晩年の作に比べると大味な感じ。赤部分には明治特有の紅系の顔料が使われている点、緑部分に花緑青(酸化銅)が使われているなどの理由でそう思っています。晩年の春吉翁の人形のレパートリーにはこの型が入っていなかったのか、昭和になって造られたこの人形はまだ観たことがありません。

お母さんの眼のまわりに赤っぽいぼかしがあるのですが、紅を水溶きしてぼかしたような感じには見えないので粉のまま刷毛で刷り込んだものかどうか?お母さんの着物の色が渋いです。何色なのか?


「今戸人形に関する3題」

2012-05-15 01:14:02 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010676日本人形玩具学会の会誌「人形玩具研究 かたち・あそびvol.22」が発行されました。今回は私も今戸焼の土人形のことについて何か書けば、とのご提案をいただき、「今戸人形に関する3題~尾張屋春吉翁のこと・丸〆猫について・落語「今戸の狐」から」というタイトルで筆を執らせていただきました。

元来、文才はありませんが、だらだら書くことは嫌いではありません。会誌という性格上、研究論文集のような感じもしますが、私自身そんなに研究しているという態度ではないので、思うこと知ったことを記したというところです。

内容的に今戸焼の土人形のついて綴った内容なので興味のない方からすればひどくつまらないかもしれませんし、窮屈な感じがするかもしれません。ご希望の方にこの会誌を差し上げますと言いたいところですが、結構いい価格ですので、自分の文章の部分だけ印刷屋さんに頼んで抜き刷りとして製本してもらったものはたくさんあります。

もし関心を持っていただける方がいらっしゃいましたら、抜き刷りでよろしければ、差し上げますのでHPトップのメールからご連絡ください。お名前ご住所などの個人情報については発送以外の目的には使用することはありませんのでその点はご心配くださらなくとも大丈夫です。

また送料等もこちらで負担しますので、ご心配なく、、。


今戸の土偶で雛まつり

2012-03-03 16:52:39 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010365今日3月3日は上巳の節句でおひなまつり。

面白半分であり合わせで飾ってみました。イメージとしては川柳「柳多留」21編 文化頃の有名な句

「村の嫁 今戸の土偶(でく)で 雛まつり」

 

考証的にはだいぶいい加減なところもあるかもしれませんが、イメージとしてはこんなのもありではないかと、、、。

まず中心の今戸焼の土人形つまり今戸人形の裃雛ですが、天保年間の配色手本では既に群青色や鉛丹をふんだんに使うようになっていますが、それより遡る文化文政であれば、まだ群青色ではなく、画像のように赤部分には植物の煮出し(蘇芳)で黄色部分はやはり植物の煮出し(キハダ・黄柏)の煮出し汁を膠に混ぜて塗る配色だったのではないかと思います。襟には朱色か鉛丹。部分的に使われている緑は緑青(酸化銅)か「くさのしる」といわれるもの。当時としては鮮やかな赤や青はまだ庶民生活には縁遠いものだったのではないでしょうか?

後ろには江の島名物の「貝屏風」を巡らせてみました。(ほとんど貝が残っていませんが、、、。)画像の屏風は明治以降の出来で、赤が既に鮮やかな合成的な色にはなっています。この貝屏風、昭和のはじめには既に作られなくなったようですが、かなり有名な土産物だったようで地方へ販路があったようです。

桃の花を挿しているのは初期伊万里のお神酒徳利で、これは文化年間でもあったのでは、、、。

庶民の雛まつりであれば、雛の故実とか有職に捉われることなく、顔のあるものなら何でもOKだったのではないか?これは個人的なイメージです。そこで、やはり昔の浅草の名物だった「浅草の練り人形の金魚」を添えてみました。いわゆる赤物の玩具で医療の発達していなかった当時の呪いとして疱瘡の神様は赤いものに執りつくと考えられていたので赤い玩具や絵を持たせて子供が病に罹らないようにという思いの造形でもありました。但し画像の金魚は天保以降のものだと思います。「練り人形」というのは桐箪笥つくりで出た桐のおがくずをふのりやふすまを混ぜて練った素材で型抜きして作ったもので、土人形よりは軽く焼く手間も要らないので着付けの雛人形の頭にもよく使われた素材です。

財力のあったお武家や豪商であれば豪華なお人形にお飾りもしたでしょうが、そこは庶民。緋の毛氈ひとつでも、当時としてはかなり上等なものだったでしょう。今でいうカシミアのようなもの。古い家のお雛飾りを見学に行ったことがありますが刺繍の入った小袖や裲襠を開いて敷き物にしているケースもありました。画像では昔手に入れた古い野良着を敷いてみました。「村の嫁」にこだわりすぎ?しかし案外藍色と人形たちのコントラストがいやらしくなくすっきりして見えると思います。

この句の作られた当時のイメージとして画像から割り引いてみるべきところは、裃雛はOKだとして、特に赤い色はこれほど鮮やかで強烈ではなかったのだろうということです。

時代考証に厳しい人が見たら、怒られるかもしれませんが、面白半分で撮影してみた画像です。


春吉翁のご命日

2012-02-29 21:30:38 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010319今日2月29日は今戸焼の土人形すなわち今戸人形の生粋の最後の作者であった尾張屋・金澤春吉翁のご命日でした。昭和19年の今日のこと。つまり江戸時代から脈々と流れていた今戸人形の伝統の灯が消えてしまった日ということができます。

画像は昭和はじめに撮影された今戸の尾張屋・金澤家の焼成窯で焚きつけ作業をしている春吉翁の後ろ姿です。お亡くなりになられたのが今から68年前のことなので、その時にはまだ今戸にこのような窯があったのだということも不思議な感じです。

P10103402月29日はその年のカレンダーによってはない時もあるので、今年こそは、と金澤家の方のお許しをいただいてお参りさせてもらおうと指折り数えていました。そして当日にこの雪。「特別な日はやっぱり特別」という感じがしました。

足跡ひとつない雪の積もった墓所にお邪魔して雪を払い、お掃除させていただき、お花とお線香をお供えして失礼しました。

かつての今戸にはほうぼうから窯からの煙が登っていた。それが隅田川を背景に江戸の風物のひとつに数えられていた、といいます。

「今戸焼」という一般的な概念では、「日常的な雑器」と「土人形」というイメージでしょうか。実際にはお茶道具とか工芸品的なものも作られていたようで、その方面では「白井半七家」を筆頭に本家の「白井善次郎家」、「橋本三治郎」「作根弁次郎」などの名工の名前が伝わっています。しかし、「半七家」は関東大震災のあと関西へ移住。「善次郎家」は葛飾に移住されました。

P1010341一方の「土人形」のほうでは、この「金澤春吉翁」が最後の伝統を守っていらっしゃったわけで、片や「白井半七」片や「尾張屋春吉」といった具合に春吉翁も生前には「今戸焼」の一翼を担うスターだったのでした。

その証拠には春吉翁のご生前には全国各地からはるばる翁を訪ねて「今戸詣で」する人々が絶えなかったといいますし、そうした記事が残っています。

人形愛好家の間では今でも有名な翁ですが、江戸東京博物館には翁作の今戸人形が展示されていますので是非一度ご覧になっていただきたく思います。3枚目の画像はかつて翁の窯があったところです。


「今戸の狐」ではない

2012-02-17 22:07:09 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010241今日用事があって浅草へ行ってきました。用事が済んだあと被官稲荷様へ。

以前、とても残念な話をある方から聞いており、これまでも何度も目にしていたのですが、、、。

ここは新門辰五郎ゆかりのお稲荷さんでもあり、被官(ひかん)が東京訛りで仕官(しかん)に通じることから「仕事につく」という縁起かつぎでむかしから信仰の篤いお稲荷様です。それと、ここの玉垣には中村吉右衛門・中村時蔵・中村米吉(先代・勘三郎さんの前名)も残っています。

P1010238また、ここでは今戸焼の「鉄砲狐」がつい最近まで奉納されていたということで、知る人ぞ知る「生きた今戸焼」に出会えるところでした。今戸の白井さんのお作りになった鉄砲狐が初午で授与されていたのです。昔なら今戸の鉄砲狐はどこにでもあったものですが、瀬戸物製の狐が堅牢で色落ちしないなどの理由から戦前から既に、鉄砲狐は瀬戸物製の狐に駆逐されていたのです。幾分古い鉄砲狐は金杉通りの三島神社に残っていますが、今でもきちんと奉納されていた最後の砦はここだけではなかったでしょうか。

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しかしいつの間にか、奉納されている鉄砲風狐は今戸焼ではなくなっていました。どういう事情でそうなってしまったのかはわかりませんが、今こうして並んでいるのは京都で作られたものなのです。手を合わせてから狐さんの底を見させてもらいました。おわかりになりますか?底があります。本来の鉄砲狐には底はないのです。見たところ、鋳込み式成形でできているようです。白井さんの鉄砲狐の型はかなり摩耗して丸くなっていたのをお手本にしたようです。

落語「今戸の狐」には手内職で狐に彩色する人達の様子が出てきます。

今戸焼の狐には鉄砲狐以外のさまざまな型がありましたが何といっても一番需要のあったのは鉄砲狐だったので、いわば一番身近で代表的な狐であったはずです。時代の変遷によって今戸焼の生活雑器や道具類は身の回りから消えてしまいました。。

この鉄砲狐こそは、信仰の中で息づいている「生きた今戸焼」だと思っていたのですが今戸焼でなくなってしまい残念のひとことに尽きます。姿は一見似せて作られており、信仰の上では今戸焼であろうがなかろうが要は心であって関係ないだろう、と仰る方もおいでかもしれませんが、東京人のひとりとしてはかなりセンセーショナルなことです。

昔の鉄砲狐の画像についてはP1010240_2

 

落語「今戸の狐から」→

 

山田徳兵衛著「人形百話」より→

 

三島神社の鉄砲狐→

 

擦り込みのある鉄砲狐→

 

鉄砲狐の異種?→

などお時間ありましたらご覧ください。

 


今戸人形 「経木箱入りの向かい招き狐」(明治時代)

2012-02-03 22:08:56 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010156今年は2月3日は節分と初午が重なっているので各地の神社仏閣の豆まきに加え、お稲荷様のお祭りも重なり、見て回るのも大変なことでしょう。

季節にふさわしい昔の今戸焼の人形を、、と思いますが、節分の鬼となると出土品を含め、はてあっただろうか?と頭をひねります。確か最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治~昭和19年)のお作の中に、泥面のひとつとして鬼があったような気がしますが手元にはなく、、。他に鬼があったかどうか、、、?外道の泥面はたくさんあったはずですが鬼とは別のように思えるし、春吉翁作の般若の泥面は残っていますが、これも鬼とは別。出土品には鬼に姿形が割と似ている雷様がありますが鬼ではない。

やはり初午つながりで狐であれば、今までご紹介した以外にもたくさん作られていました。画像の経木箱入りの招き狐は以前ご紹介した「枡入りの恵比寿大黒」と性格的に似ていると思います。当時の生産や販売方法は恵比寿大黒同様、際物屋さんとかおもちゃの問屋さんによッてコーディネートされたものでしょう。今戸焼の窯元で全て一貫生産したものではないと思います。

今戸焼屋さんは型抜きから素焼きまで行い(木地専門)、それを仕入れて、手内職で彩色するおかみさんたち(ちょうど落語の「今戸の狐」(骨の賽)の世界のような)がいて、箱は別のところで調達される。画像のものには残っていませんが、ガラスの蓋が紙で蝶番のように一辺固定されていて、ガラスの裏側から泥絵具でお幕が描かれていたのだと思います。以前ご紹介した「経木箱入りの天神様」と同じだと思います。

奥の山積みにされた小判は片面抜きでぴったりと底板に貼りつけられています。構図は恵比寿大黒のそれとほぼ同じですが、手前に宝珠が3つ積み上げられているのが異なります。

向き合う招き狐ですが、構図としては「太郎稲荷の向かい狐」に似ていますが、太郎稲荷のは手は招いていません。それとこの狐に関しては片面ではなくしっかり二枚型で背面もあります。彩色に関しては昔の今戸人形の公式とおり、手足や腰の境界を薄い桃色でぼかしています。(もっと古いものは鉛丹での擦り込み) 台座の繧繝縁風の彩色は天神様とほぼ同じですね。

今戸焼の招き狐については戦前浅草被官稲荷で授与されていたものや、画像のような狐、更に出土品に見られるような鉄砲狐型で招くものが存在するのですが、招き猫との関係でいうと、招き猫が先でその影響で狐も招くようになったのではないかと考えているのですが、どうなのでしょうか?また、画像のように経木に箱に収まった形のもので2体の招き猫が向かい合わせに招いているという構図のものが存在したのかどうか?あってもよさそうなものなのにまだ見たことがありません。春吉翁の作を含めてそれ以前の古い今戸焼の人形に向かい招き猫があったのかどうか、、、。今戸焼の招き猫の古いものの中には右招きも左招きも単独で存在する作例は確認できますが、2体一対で招くものがあったのかどうか、、、。あったら見てみたいです。

ご参考までに

 

「枡入りの恵比寿大黒」の画像はこちら→

 

「経木箱入りの天神様」の画像はこちら→

 

「太郎稲荷の向かい狐」の画像はこちら→

 

お時間ありましたらご覧ください。