東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

丸〆猫(まるしめのねこ)⑥★

2015-03-31 22:59:09 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)


この画像はNHKの「美の壺・招き猫」番組内の1シーンです。ご覧になられた方も少なくないかと思います。新宿区内の「水野原」遺跡から出土した丸〆猫です。

これまで、いろいろな近世遺跡からの出土例を探してもみつからなかった丸〆猫にやっとめぐり逢いました。今(2010.3月)から4年前くらいでしょうか?新宿区の歴史博物館の図書室で遺跡報告書を閲覧していた際、報告書巻末の白黒の遺物写真を見ていましたら、土人形類を一括して撮影した写真があって後ろのほうに見覚えのある構図の招き猫がありました。早速閲覧申請をして現物に対面したところ、背面にやっぱりありました。丸〆の陽刻が、、、。以前は報告書には一個一個の遺物の実測図、データ表があったものですが、コストの面でひとつづつの記録はしていないので、この猫についてのデータは写真以外何もなかったのです。担当の方もさして関心がない様子でした。2度目に申請して再会し、いろいろなアングルから写真を撮ったり、採寸したり、持参した拙作の丸〆猫の素焼きと並べて比べたりしました。



この遺跡では安政年間に火災があって、遺物にも焼き焦げが見られる、ということで、この猫にも焦げたようなところがありました。招く手先が欠損しているのが残念ですが、もう一体別の遺跡報告書に中に同じ型と考えられる猫がありまして、これも申請しているのですがまだみつからないようです。その後、NHKから美の壺で招き猫を採り上げたいから取材にお邪魔したいという依頼があって、その際、この出土遺物のこともお教えして、番組に採り上げられたわけです。それまでは、廃校になった小学校の地下室にある収蔵庫パン箱の中で、他の遺物に混ざって忘れ去られ、眠っていた猫でしたが、番組放映後は、歴史博物館の収蔵庫で重要資料として収まったと聞いています。大出世ですね。それにしてもみつかってうれしいです。とりあえず今
の時点ではこれが確認できるところ今戸焼の最古の招き猫であり、尚且つ確認できる造形物として最古の物証ではないかと考えています。この姿は横座りで顔だけ正面を向いて招いており、今戸焼の招き猫としての特徴を具えています。もっと後になると西日本の招き猫の影響を受けた正面向きの姿の招き猫も今戸焼で作られるようになりますが、もともと座り姿の猫(横座り)がたくさん作られていた今戸焼では座り猫から鞠抱き猫が生まれ、それから招き姿に変化したと考えればごく自然だと思います。



丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。



★過去にアップした記事ですがブログ移転のため埃に埋まっていたものを虫干しする意味で再アップさせていただいております。また移転以前の記事内のリンクが移転によってずれているケースも見られますので今後修正していきますのでご了承ください。

 

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今戸焼⑱「都鳥の徳利」(白井半七 作)★

2015-03-31 20:45:57 | 今戸焼(浅草 隅田川)


「寿ミ田川」の陶印があり、今戸焼の7世白井半七の作だと思います。へら彫り或いは押し印で都鳥が水面にいろいろな姿で描かれています。

7代目白井半七は関東大震災に被災し、その後招かれて関西に移住して開窯した人ですが。「寿ミ田川」の陶印は今戸で製作していた時代のものだと思われます。



手にとってみて、握ってみてなじんでくるようなやさしい歪みというのか、温かみのある形が好きです。土はやはり東京の土ではないようですが、真っ白という感じでもなく、時代がついたためなのかわかりませんが、ざっくりとした風合いに感じられる徳利。こういうのでお酒を呑むとおいしいかも。



黄色みを帯びた釉薬の色も渋くて好きです。




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こんなのは久しぶり♪

2015-03-30 22:15:20 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

今、うちの町内の自治会館が立て直しの工事中で、いよいよ地面を掘っているところです。隅田川から直線で700mくらいのところでしょうか。こんなおいしい工事現場というのは本当に久しぶりです。というのも、大抵はブルドーザーとかがどっさり掘り出した山の中からちぎれた粘土層の部分だけ選んでもらってくることが多いのですが、今回の場合既に地表から1mちょい掘り下げてある足場そのものが粘土層なんで、いわば巨大な「クリームチーズケーキ」の上に立っているという感じなんです。だから足元のどこを掘り出しても粘土。

スコップで足元を四角く割り出せば「チーズケーキの塊」状態なんです。これはもう夢心地というもんです。

慾をいったらきりがないけれど、ここの工期のリミットさえなければずーっと掘り出してプ―ルしておきたいところです。

とりあえず厚手のポリ袋に小分けにして自宅に持ち帰りました。

水もそろそろ温くなってくるので、これからは水簸(すいひ)をやりだめて沈殿させ、水を飛ばしながらたくさん粘土を作り置きしていきます。

今戸人形「寒紅の丑」(鈴木 たつ作他) ★

2015-03-29 08:40:35 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

底冷えのする厳しい寒さの毎日です。暦では昨日1月22日が今年の「寒の土用の丑」の日のようです。

ものの本には「寒の土用の丑」に作られた紅には口中の荒れや女性の病に薬効があるとして重用されていたとか、、。またこの日には紅を商う小間物屋は画像のような今戸焼で作られた牛の姿をおまけとして配ったということです。



昭和のはじめの有坂与太郎の著作には、作者は今戸・長昌寺前の「鈴木たつ」であると書かれています。たつの母親の「鈴木きん」もまたこれを作っていた、またたつの姉の「江川しん」(川向の向島に住んでいた)は専ら木地を作っていたとも書かれています。昭和のはじめまではまだこの一族によって生産され、供給していたのは向島の「小町紅本舗」であったとか。現在浅草に「小町ヘアー」というお店がありますが、もしかすると「小町紅」と関係のあるお店なのでしょうか。まだ聞きにいったことがないのでわかりません。



牛には黒塗りと金塗りと2種類あり、配られた際、どのような区別がされていたのか、または2つ対で配られたのかなど不明な点があります。何か参考になる本などありましたらご教示いただけると幸いです。一時はこれらのような牛は古物としてかなり見かけたものですが、最近ではあまりそうした機会も少なくなってしまったような気がします。当時としてかなり出回っていたものだったような気がします。



上記の有坂与太郎の著作によれば、磁器の固焼き製の牛が登場してから、昔ながらの土の牛が駆逐されてしまったようなのです。ひとつ疑問なのは、紅丑の習慣は明治から遡ることはない、と記されているのに、都内の近世遺跡からの出土品の中には色のとれてしまった同じような牛がみられることです。






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天日干し

2015-03-28 10:58:02 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

やっと春だなと腕まくりしたり襟を開いて歩ける陽気を感じられます。数日前からおかしな風邪で熱を出してほとんど寝込んで仕事もせずに寝ていたのも医師から抗生物質を処方してもらい、何とか快方に向かっています。困るのは鼻。鼻はなかなか治りません。それと既に10か月近く嗅覚を失って匂いがわからないんです。
さて、さっそくいいお天気なので陰干しにしておいた人形たちを物干しに並べて天日干しにします。まだ陰干し状態のものがたくさん待っているので漸時、天日に晒していきます。

真ん中には十五夜さんのためにマットを敷いて日向ぼっこできるよう、、。
一年のサイクルで心情的にどん底な区間(山手線路線図でいう品川辺り)は切り抜けて、上昇していく季節ではあるので、こうしたお天道さまの光をあびてせっせと作業しなければ、と自分に檄を入れているところです。


追記:これまで「地域のブログのランキング」というものに入っていましたが、やめました。名残のアイコンがつきまとっていますが、どうやって消したらいいのかわからないので、そのままです。無視してください「自分の記したいこと」「記したいときに」「すきなように」のんびりアップしていきたいのでよその「お色気商売ブログ」とか「おばさんブログ」とかそれぞれ違う方向性のブログどうしで同じ土俵で上げられたり下げられたり優劣付けられるのは何だかしっくりしませんでした。ひとりのんびり「変な化け物おやじブログ」は続きます。

浅草と深草 ★

2015-03-26 23:05:26 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)


以前からずっと気になっていたこと。

今戸焼が生れたのは浅草。今戸人形の発生の母胎となった京都・伏見人形のふるさとである伏見には深草という地名がある。古い文献には「深草焼」という名称も残っている。



浅草深草。「浅い」と「深い」。余りにもシンメトリックに対称的な地名。どちらかが何かを基準にして対比的に名づけられたかのよう、、。



浅草については、、、



「江戸東京学事典」によると
「浅草の地名の由来には、諸説があり、アイヌ語のアツアクサ(海を越すという意味)にちなむとか、チベット語のアーシャ・クシャ(聖のおわす所の意味)に由来するなど。定説は「江戸往古図説」が「往古下谷より此わたりへかけて平地にして武蔵野の末にて草もおのづから浅々しき故浅草と云しなるべしといへりさもあらんか」と述べているらしい。(以上よそのHPから引用させていただきました。)



深草については、、



「寛永14(1637)年刊の『洛中絵図』(以後発刊年省略)に深草町とある。町名の由来は不明だが、「地名の国語学的分類」(以後「地名分類」と略す)では、町内に深い草地があったなど土地の状況からの命名と推定される。」。(以上もよそのHPから引用させていただきました。)とありますが、いつまで遡ることができるのか明記されてはいないのでよくわかりません。



しかし浅草についてはまた、、



「往古、草深い武蔵野の中で浅草の一画は茅や芝草ばかり浅々と生い茂っていた草原だったので、京都の深草と対比して「浅草」の地名が生まれたのであろう……これが定説だそうだ。(他にも諸説ある)」(以上もよそのHPから引用させていただきました。)ので、やはり深草に対して浅草という名前がつけられたものでしょうか?



ただ浅草と最初に呼んだ人は「深草」を知っていて、それに対比させてつけたのであれば、深草との何かしらの共通点をもって名づけたのでしょう?それは何なのでしょうか?川でしょうか?



江戸の古い川柳に「かはらけ(土器)は 浅い深いの土で出来」というのを読んだことがあります。



浅草の地名は浅草寺の創建以前に遡るとされているので、今戸焼の起源とされている時代よりもはるか昔です。しかし、浅草寺の創建以来、瓦や土器類の需要はあっただろうと思われますし、今戸焼以前にそれらを作る人はいたのではないか、と考えれば、土師の存在を想像でき、伏見、深草あたりの土師の流れを汲む人たちが「深草」に対して「浅草」と名付けたとしても不思議ではないと思いますがどうでしょう。はからずも、浅草寺縁起に土師中知(はじのなかとも)という三社様のひとりの名前が出てきます。



私は歴史に疎く、学問にも疎いので、あくまで勝手に空想しているまでのことなのですが、これらについてわかる本があったら読んでみたいです。



画像は左が古い伏見人形の「子抱き」です。新しくても明治はじめ、あるいは江戸末に遡るものでしょうか?黄色い部分は「きはだ」の煮出しのように見えます。右は尾張屋春吉翁作の今戸人形の「子抱き」で関東大震災以降の作ですが、この型自体はもっと昔に遡るものでしょう。いづれにしても、今戸人形が伏見人形からの抜き型から生れたということがわかる一例です。



 


また、伏見人形を母体にしながら独自を発展をした今戸人形の特徴の中には型だけではなく、彩色の仕方(配色や振り金・砂子(真鍮粉)など、また動物などの眼の入れ方など)に伏見の面影を残しているものが少なくないと思います。猫ひとつでも、白目(地色として黄色や金色を置いて)の上にまんまるな黒目(瞳)を置くとか鼻孔の表現として朱色で点をふたつ置くなどは伏見の面影ではないかと考えられるのです。
また、古い今戸人形には植物の煮出し汁を部分的に置くという技法が散見されますが、これなども、古い伏見人形にも観られることなので、おそらく伏見人形の影響下で今戸でも採用した技法のひとつではないかと思っています。


 



 



 



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今戸人形「口入稲荷狐・羽織狐」(鈴木たつ 作)★

2015-03-26 00:06:45 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)


最後の今戸人形師と言われた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)以外にも戦前までは、代々今戸人形師の系譜をひく土人形作者の名前が辛うじて記録されています。旧浅草区今戸3丁目にいた、「鈴木 たつ」と「加野 とく」の2人です。

そのひとりが画像の人形の作者「鈴木 たつ」です。



有坂与太郎の著作に、今戸人形の全盛期であった嘉永年間の今戸人形の作者の地図(今戸町内の分布図)が掲載されています。(出典については定かに示されていない。)この中には上記、尾張屋・金澤春吉翁の養父である尾張屋・金澤兼吉翁の名がある他、「土直」こと「するがや惣三郎」という名前があります。また「あぶ惣」(虻惣)という屋号も記録されており、同じ家であるかのような記述があります。



この「あぶ惣」の末裔で後継者が「鈴木 たつ」であると述べられています。この人は今戸の長昌寺のそばに住み、芋屋渡世の傍らに「寒紅の丑」「貯金玉」「鉄砲狐」「口入稲荷狐と羽織狐」を作っていたとあり、特にこの「口入稲荷狐と羽織狐」それと「寒紅の丑」の作者として知られていたようです。この人の母親は「鈴木 きん」といい、同所で同様な人形を作っており、その妹が明治43年頃向島区寺島町に移った「江川 しん」で、「しん」が木地を作り、「きん」が彩色した、という内容が書かれていますが、その娘の「たつ」の場合どうだったのでしょう。



「芋屋渡世」とあるのは、生芋の卸し販売なのか焼き芋屋なのか、、、。仮に焼き芋屋だったならば、火を使う仕事なので、小さな人形の木地を焼くくらいのことは可能だと思います。雑器などの生活器物ではないので、ごく低温の甘い焼きであっても構わないのではないか、と勝手に想像しているのですが、、、。



この一家について詳しく記録されているものが少なく、今となっては知る手掛りもありません。今から20年ほど前、今戸町内で戦前から炭屋を営んでおられたお爺さんに昔の今戸焼屋さんについてお話を伺ったことがありましたが、「鈴木 たつ」についてはわかりませんでした。また、長昌寺付近の自治会の方にも戦前のことを伺いましたが、「芋屋」についてもわかりませんでした。



時既に遅かった上、この辺りは橋場の一部を除いて、ほとんど戦争で被災し、その後転出、転入のあった土地なので戦前の事でさえ難しいです。また、昭和戦前の記憶がある世代の男性だと、出征されて夭折されているケースもこの辺りでは多かったようです。清川の玉姫稲荷神社の神主様(おそらくご先代)にも伺ったのですが、わからないとの事でした。



仮に、地元で生れ育ったとしても、土の狐ひとつに関心がない限り、どこの誰が作っていたか、などと気にかけないほうが自然で当然なのかもしれません。



画像の狐の話に戻ります。「鈴木 たつ」による羽織狐ですが尾張屋さんの型とは微妙にモデリングが異なります。これが「あぶ惣型」というものでしょうか?股引きから爪先にかけて真っ黒に塗られていますが、草履の部分は前に出ぱっています。ちょっとロンドンブーツのようにも見えてしまうのですが、、。



羽織狐の近世遺跡からの出土例は意外と多くないのですが、一点、豊島区染井の遺跡から出土したものを記憶しています。そして、その出土品のモデリングは、この「あぶ惣型?」のによく似ていたと思います。



 



 


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京都 「草星」さん

2015-03-24 23:58:34 | お世話になっているショップさん

先日、お世話くださる方があって、お知り合いの京都の「草星」さんという器をお取り扱いになるお店で拙作のもの数点を置いていだだけるということになりました。本当にありがたいことです。河原町通りと丸太町通りの交差する「出水町」というところにあるそうで、私自身まだ伺ったことのないので、画像は「京都スタイル」というサイトのものをお借りしています。
「科捜研の女」とか「京都地検の女」のドラマの再放送をよく観ているんですが、「沢口靖子さんのフアンですか?」「名取裕子さんのフアンですか?」とか人さまからよく聞かれるのですが、お二人とも演じられる役どころがいい感じです。でもそれ以上に京都の町裏とかが映るのが楽しみなんです。関西に親戚がひとりもいないので京都、奈良、大阪ともに生まれてこのかた指で数えるくらいしか行ったことがない。それだけに余計にあこがれる地域です。その京都で拙作の人形を置いていただけるなんて、、。(自分が人形になって京都に行きたいですねえ。)とにかく箱根山の向こうには縁がないのでこうしてお世話くださるのがありがたいです。

焼きものの歴史に関しても、今戸焼は京都の焼きものや三河の焼きものを技術を追って発展していたという事実があり、今戸人形も京都の伏見人形を母体として育ったものです。そういう意味では東から上洛するような緊張感というものもあります。あくまで器ご専門のお店ですが、もし機会がありましたら、東京の土で作った人形もご覧いただきたいとおもいます。


「草星」
〒602-0862
京都市上京区出水町266-9
TEL 075-213-5152

「草星」さんのサイト→


「京都スタイル」さんのサイトはこちら→

丸〆猫(まるしめのねこ)②★

2015-03-22 11:14:12 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)


明治35年発行の「うなゐの友・2編」に掲載されてる丸〆猫の図です。先の丸〆猫と細部や配色が異なっていますが、構図意匠はほぼ同じです。図の横に「浅草観世音の堂下にて鬻く猫俗に招き猫にて裏面尾の所に丸〆の印あること他に類なし」とあります。近年話題となっている広重の錦絵が確認される前までは、この図がもっとも古い丸〆猫の図と考えられていました。もっとも、広重の錦絵も今からたどってみると、随分前の展覧会などでも紹介はされていたのですね。郷土人形や招き猫の愛好家が見落としていただけのように思われます。(私もそのひとりです。)この「うなゐの友」の図ですが、こういうものが明治35年以前にはあったという手がかりにはなるのですが、写真ではなくて、描き手の主観の入った表現ですからデフォルメもあるだろうし、立体として捉える場合、どれだけの信ぴょう性があるのかと考えていました。①でお手本とした猫には腰のところに丸〆の彫りがありますし、この図の解説にも「裏面に丸〆の印がある」とありますし、丸〆猫なるものには、とにかく裏に丸〆の印があるものという定義になります。その謂われについては有坂与太郎さんの著作から有名なお婆さんの話につながっているわけですね。

丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。



丸〆猫(まるしめのねこ)③→


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丸〆猫(まるしめのねこ)①★

2015-03-22 11:02:19 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

今戸焼・今戸の土人形の歴史や招き猫の発祥について、これを抜いては語れない人形のひとつだと思います。古くは戦前の有坂与太郎さんの著作の中で招き猫の最も古い作例だとか、発祥とか元祖として嘉永5年の丸〆猫が採り上げられています。丸〆猫という名前を知ったのは小学生の頃、学校の図書室にあった「保育社カラーブックス」という文庫版サイズのシリーズの中で「日本の郷土玩具」という本の後ろのほうに県別郷土玩具一覧というのがあって、名前だけが記されていたのでした。何のことか全くわからず、今戸焼の人形であることすら知りませんでした。

時は流れて、土をいじるようになってから、実物を持っている人から、お手本を見せてもらうことができ、作ったのが写真の丸〆猫です。今から15年くらい前のことでした。はじめて見たときは、不気味な愛想のない招き猫、人面猫のようだと思いました。TV番組「東京生活」でも採り上げていただきました。その頃から戦前に発行された文献などにも目を通すようになりました。有坂与太郎さんによる著述がそのひとつです。



丸〆猫についての記事は、現在いろいろな本で紹介されているわけですが、その内容は有坂さんの記述に基づいているわけです。



また、描かれた図としては更に遡ること明治時代に大人を対象として、各地に残る土俗玩具を採り上げた清水晴風さんの「うなゐの友第2編」に描かれた丸〆猫が当時としてもっとも古い図のようでした。配色や表情の違いはあるものの、お手本となった丸〆猫と構図といい意匠といいよく似たものです。



最近目にした本などで、「まるじめねこ」とルビの振ってある記事があったかと思いますが、江戸東京のものである以上、濁らすに「まるしめ」ではないでしょうか?たとえば芥川龍之助は「駒形」は「こまかた」と濁らないのが正しいと何かに書いていますし、「鳥越」は地方の地名では濁るけれど、浅草の「鳥越」は「とりこえ」であるという話を聞いたことがあります。江戸東京の人形問屋の総元締でいらっしゃる吉徳さんでは「まるしめのねこ」と呼んでいらっしゃたので私もそれに従っています。しかし「今戸」は「いまど」なんですね。昔は「今津」という地名だったそうですが、、。



丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。



丸〆猫(まるしめのねこ)②→

丸〆猫作りについて採り上げられたTV番組についての記事はこちらです。



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お知らせ(東京民芸協会 4月例会)

2015-03-20 08:46:53 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)


港区南青山にある「べにや民芸店」さんのお世話により、このたび「東京民芸協会 4月例会」でお話させていただくことになりました。
生来の話下手。また自慢にもなりませんが生来の「挙動不審者のような」なりですので、まとまった内容でしっかりとお伝えできるような話ができるかどうか心配ですが、せっかくいただいた機会ですのでパワーポイントによる画像とともにお話させていただこうと思っています。基本的には一昨年埼玉県川島町の「遠山記念館」でお話させていただいたような内容+αといったイメージでいます。

その案内はがきをいただきましたので、その内容に沿って案内させていただきます。

東京民藝協会4月例会
「今戸人形のいまむかし」
日時 2105年4月7日(火)19時~21時ころ
場所 ておりや 千代田区神田小川町2-8 扇ビル4階
参加費 500円(会員以外は1000円)
定員 25人位(会員優先/先着順)
参加申し込み 4月4日(土)まで。資料準備の都合あり
       tokyominngeikyokai@gmail.com
またはFAX:03-3335-5859(藤田)


事前申し込みだそうですが、お付き合いいただける方いらっしゃいましたら、どうかよろしくお願いいたします。

東京民芸協会ブログもご覧ください。→

 

 

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今戸人形「口入狐・羽織狐」(尾張屋春吉翁作)★

2015-03-20 08:28:14 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)



右の2体が「口入稲荷」の裃狐と女狐、、通称「口入狐」、左の立ち姿のが「羽織狐」です。



言わずもがなの事ですが、口入稲荷は清川にある「玉姫稲荷神社」の境内に鎮座する社で、元禄14年、新吉原の廓内に高田屋七兵衛という口入所があって、家内に稲荷の社が鎮座されていたが、霊感に基づき同社を現在の地に移したため、それから口入の呼称がおこったとか、、。



また、羽織狐は玉姫稲荷の土蔵裏から狐の像が発掘され、それに倣って作られたもので、これは祈願する時にその使いとして用いられるが、念願の叶った時には裃を着けて額を持った狐を奉納するきまりであると、有坂与太郎の戦前の記述にあります。



また、ある説には、現在吉原神社に合祀されている九郎助稲荷の荒廃するに及んで、羽織狐も口入稲荷から授与されるようになったのだといわれるが、憶測の域を出ない、、とあります。



羽織狐の姿は遊び人のようで、左手を羽織の中でげんこつに構えていざという喧嘩に備えているポーズで、このポーズを「やぞう」と呼ぶところから、この狐を「やぞう」と呼ぶ人もあったようです。



尾張屋さん作のこの人形をはじめて見るまで知らなかったのですが、草履を履いているのですね。鼻緒を描かれているのです。草履の先がしっかりと出っ張って造形されています。知らなかった頃は裸足なのだと思っていました。



「口入狐」の画像の女狐が両手を前に正座していますが、これとは別に宝珠を抱いているのもあります。



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彼岸の入り・稲荷祭・浅草寺示現会と神輿

2015-03-18 21:49:33 | 日々

今日になってお彼岸の入りだということに気がついて、何を置いても今戸の尾張屋さんのご墓所をお参りしなければ、、と慌てて出かけてきました。お参りできてひと安心。今戸から浅草並木町まで戻って、バスで帰るというのがいつものコースで、山谷堀吉野橋から馬道へ出て三社様(浅草神社)境内の被官さま(被官稲荷さま)をお参りして観音さまの境内を横切って裏道を抜けて、といういつもの「裏から表へ」のコースでありながら、寄ってみて今日が被官さまの稲荷祭だったということに気がつきました。いつもは閉まっている御札所が開いていて、ご本殿にはたくさんのお供えもの。

お札所には御参詣の人が並んでいておまもりとか鉄砲狐も授与されていました。恥ずかしながら、被官さまの稲荷祭は初午ではなくて3月ということは知っていながら、当日のお参りしたことがなかったんです。


そして例によって鉄砲狐の祠もお参りして、、。


そのあと三社様の正面に出たら、御神輿3基が境内に並んでいて、、。

今日3月18日は観音様の「示現会」(推古天皇36年の今日早朝、宮戸川(隅田川)で漁をしていた竹成様と浜成様の網に「観音様」がかかり、お祀りしたという「浅草の誕生日」なんだそうで、清本の「善玉悪玉」の舞台のオリジナルが今日起こったということなんですね。観音様の法要に合わせて三社様では3基のお神輿がそれぞれご三柱なので、観音様に向かって並んでいるということらしいです。
浅草っていつ来ても年がら年中お祭りとかイベントやってるって感じですが、今日こそは「浅草の誕生日」だったとは、、。知らないで来てお参りさせてもらえたのも春吉翁のお導きかと、ありがたいことでした。
でも平日だというのにやたら混み合ってました。さすが、浅草。

いい塩梅

2015-03-17 11:09:35 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

今日はよい天気で物干しとなりの十五夜さんの部屋でも室温20度あります。
みてください。石膏鉢に寝かせておいた水簸(すいひ)して沈殿済みの泥しょうがいい塩梅に水分を吸収されて「ぱっかり」と亀裂が入っています。
亀裂の入り方向に違いがありますが真ん中に入っているのはほぼ中心も「べとべと」ではなさそうな兆候です。


早速鉢の口縁に板を当てて逆さにしてドンドン叩くと「お子様ランチ」のような形に抜けます。鉢のほうにこびりついた粘土も残さず集め、厚口のポリ袋に入れて仕事場へ運びます。空になった鉢に再び泥しょうを流しこんで。。。

外で外気に晒したほうが乾きがいいんですが、雨でも降られると困るので、焼成窯の脇のスペースに移動して寝かせます。

石膏に吸収された水分を更に「吸水ダスター」という毛氈みたいな素材を下に敷いて吸わせます。1週間くらいは毎日「びしょびしょになったダスター」を乾いたのと交換し(おしめを取り替えるような、、。)びしょびしょの水分も捨てるのが勿体ないので、植木の上で搾ってから干します。これで2~3週間するとダスターの湿り方も遅くなり、鉢自体も軽くなってくるのです。

ここまでの作業は買ってきた土を使えば必要ないんですけどね。でもやっぱり「地元の土を材料に地元の名物だった人形を作る」ってことが「郷土玩具」「郷土人形」発祥のストーリーにつながる訳で、焼いて色を塗ってしまえば関係ないということも考えられますが、、、。少なくとも昔の今戸人形に近づくための手間とかおまじないだと信じてやっている工程です。人形の出来が悪かったとしても「土だけは正真正銘の東京の土でございます。」と答えることができます。

今戸焼(24)おかめの火入れ★

2015-03-17 10:58:51 | 今戸焼(浅草 隅田川)

今戸焼の定番ですね。錦絵にもよく描かれているもの。「今戸焼(21)河童の火入れ」同様に、中に灰を敷き、火種を入れて、煙草の吸いつけとして使うと同時に手あぶりにもなる器物です。

作りとしては河童の火入れ同様、素焼きに胡粉の下地を塗り、その上から泥絵具で彩色したものです。余りにも有名なものなので、ひと目見るだけでいかにも今戸という感じですね。



今戸焼の土人形の作者といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)も作っていたそうですが、もっと手の込んだ仕上げだったようで、この火入れの作者はわかりません。最近の出来のものに比べて幾分すらっとしています。今戸の「おかめの火入れ」としてイメージが焼きついているのですが、フォルムは何を意味しているのか、というと不思議な感じがします。浅学のため、この言われについてよく知りません。



古い書物のどこかに書いてあるのでしょうか?



わからないので、自分なりの推理ですが、まず、おかめといえば、お酉さまの熊手につきものです。手ぬぐいで頬かむりしているのは何故か?また、お面の下のひだ状の彫りのあるところは、単に達摩さんの座禅姿を真似たものなのか?地方の郷土玩具で張り子のおかめだるまというものも結構あるのですが、、。しかし張り子のおかめだるまだと全体を赤く塗ってあるのが多いです。どうして頬かむりした手ぬぐいとひだ部分を塗り分けてあるのか?



おかめは江戸の里神楽にも必ず登場するし、お酉さまの熊手にもついている。お酉さまの裏手は吉原の遊郭があり、そこでは「にわか」という芸能が名物になっていた。歌舞伎などの芝居をパロディーにした「にわか」などもあって、その趣向というものが通な人たちのこだわりのひとつだったのでしょう。その趣向に「見立て」というものがありますね。いくつかのものを組み合わせて、別のイメージを作る(見立てる)。 吉原の「にわか」の時に限ったものではないかもしれませんが、見立ての飾りというのがあったのではないかと思うのです。


おかめのお面とかぼちゃ(唐茄子)と手ぬぐいを使って、おかめが頬かむりしているような見立ての飾りを作った。その意匠を写したものではないかと思うのです。だから、茶色く塗ってあるところはかぼちゃなのではないかと思うのです。(ご存じの方のご教示お待ちしています。)



「おかめかぼちゃ」という言葉を聞いたことはあるのですが、どういう語源なのかわかりません。



この火入れの茶色の部分には「きら」(雲母粉)を混ぜて塗ってあります。面描きも何か素っ頓狂な表情で笑ってしまいます。



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