つい先日豪徳寺の「東肥軒」さんをお訪ねした記事をアップしたばかりなのですが、「豪徳寺の招き猫」として門前で鬻がれていたという招き猫は世の移り変わりととも仕入れていた産地も変遷して新旧さまざまなものがあったのだろうと思われます。ここでは手元にある画像のうちすぐ出すことができたものをご紹介するのみで、まだまだこぼれているものはたくさんあるのではないかと思います。
最初の画像は昭和53年刊「ガラクタ百科・身辺のことばとそのイメージ」(石子順造 著・平凡社)の1ページ、刊行された当時あるいはそれ以前の豪徳寺で撮影された画像だと思います。昭和53年といえば当時私は高校2年生で毎日「明大前」まで通学していたので、豪徳寺の近くにいたんですね。(感慨)
最上段に明らかに常滑産らしき瀬戸物屋でも売られていたタイプの大きな猫さん(これは特に進化して頭と胴のプロポーションがデフォルメされたもの?自分が小学4年生の頃、つまり昭和48年頃、浦和の瀬戸物屋で見たものと同じで、テグスのヒゲが植えられています。)が写っていますが、その周りに写っている大小の猫さんたちは大きく分けて「首輪に鈴玉」タイプと「首輪によだれかけに鈴玉」タイプの2つがあったことがわかります。しかも後者のタイプは大きなひとつのサイズに限られているようです。前者は大から小までさまざまなサイズがあり、現在のものにつながるタイプのようですが、現在のものが全体的にマットな仕上がりなのに比べると常滑産のものに似て、つやがあります。現在のものと実際並べてみないとわかりませんが(豪徳寺の招き猫は自分で持っていないので)現在よりも常滑産に近い感じがするのですがどうでしょうか?
さて2枚目の画像は昭和10年刊「郷土玩具大成・第1巻・東京篇」(有坂与太郎 著・建設社)の中の「招猫」と題してまとめられた記事の画像で一番左は浅草被官稲荷の招き狐、前列のふたつは今戸の尾張屋春吉翁のお作りになられた丸〆猫(小)の座り姿と臥姿の一対です。そして後列の二体が「豪徳寺招猫2種」と記されています。
本文中に「なほ、現在、招猫を特別に販売する個所は、世田谷区世田谷町に在る豪徳寺門前で、此処には土製と陶製と二種あり、前者は前面に招福、後者は同じく丸に招と記されている。」とあります。(少なくとも昭和10年以前までは仕入れる産地が異なっても胸に「招福」か「丸に招」と入れるのが豪徳寺招き猫の特徴のひとつだった?)
真ん中のが陶製つまり「かんかん人形」で瀬戸辺り?右端の太った「招福」と書かれた猫は鈴を紐で通してあるのは、大正ころ深川門前仲町で丸〆猫をもじって売られていた「¬〆猫」(かぎしめのねこ)のひとつのタイプと共通するところで(「¬〆猫」の画像として紹介されているのは首輪も鈴玉も型の彫りとしてできているタイプのほうが知られていると思います。)、京都辺りの産ではないかと思いますが如何でしょうか。時代が下って昭和の戦後30年代終わりころから人形つくりをはじめた今戸の白井さんはおそらくこうした先例から鈴をリリアンや紐で通すヒントを得たのではないかと思うのですが、、。
画像3枚目は1枚目と同じく昭和53年刊「ガラクタ百科・身辺のことばとそのイメージ」(石子順造 著・平凡社)からの画像の一部です。3体並んでいる右は豪徳寺の招き猫。中央は常滑産の招き猫。左端は今戸焼の白井さん作。
こうやって並んでいる画像を見て改めてよく似ていると思います。(片や招く右手が頭から離れ、もう片方のはくっついていますが、これは割り型のやり方でどうにでもできそうです。離れているほうが技術的には面倒ですが、バリを削るか否かくらいの差ではないでしょうか?又鼻と鼻梁辺りのモデリングは片方の型の彫りが甘くなっているという程度の差ではないでしょうか。甘くなっている顔の造作の上に描かれた目の位置がずれているのがちょっと違って見える程度?両耳の間の谷間は深いほどバリ取りが面倒なので、谷間を埋めて浅くしたほうが楽なので割り型を作る時に意図的に浅くすることはできそうです。向かって右側の耳先から首、首から肩にかけての稜線は割り型の前後の合わせ目の位置のつけ方やバリの取り方により変わるものだとも考えられます。)
1枚目の画像から受ける印象から自由に空想させてもらえば現在の豪徳寺の猫の母体は常滑系にあり、3枚目の画像の印象からは造形的にモデリングは今戸の白井さんの招き猫と豪徳寺の招き猫はどちらが「兄か弟か」或いは「母か子か」「卵が先か鶏が先かの関係」のようで、どちらにしても(異父兄弟として)常滑系から生まれたのかもしれないと考えることができるように思います。ちなみに地下鉄のポスターで大ブレイクしている白井さんの2連招き猫(今戸神社の縁結び招き猫)は画像3枚目の招き猫をもとに作られているので!!!そうか「常滑亜系」の招き猫だったのか!!!と感慨に耽っています。因みに1枚目と3枚目の画像は昭和53年以前のものなので、それ以降の豪徳寺と白井さんそれぞれ更に進化して分化していると言えるのではないでしょうか。(分化には意図的な進化と型の磨耗による変化の両方の要因が考えられ、たとえば浅草被官稲荷の鉄砲狐を白井さんが作っていた最末期のものは型の磨耗の夥しいものでした。)
先日再現してみたいと書いた豪徳寺の招き猫の画像がまだみつかりません。はやくみつけて、できれば所蔵されている方を探して参考にさせてもらいたいなと思う今日この頃です。
招き猫から離れてしまいますが、上記の石子順造さんの著作を全て読んだわけではないのですが、庶民生活のなかの聖と俗悪のはざまに関するテーマの文章がとても面白く、上記「ガラクタ百科」と並んで「小絵馬図譜」(芳賀書店)の文章など読んでみて痺れます。
※この記事の豪徳寺の猫は今戸焼ではないのですが、便宜上「今戸焼招き猫」のカテゴリーでとりあげてみました。
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