9月21日の今戸へのお参りの帰り道、橋場や南千住へも寄りました。橋場のおばけ地蔵。夕暮れ時だったので車の往来が少ないためかタクシーが休憩していました。
時代を経たトタンや木造の質感などお地蔵さまを取り巻くすべてのものがタイムスリップしたかのような懐かしさにあふれていて感動的。
横に建つ供養塔は昭和25年の建立ですが、この辺りがかつては総泉寺の寺域だったのが大震災のあと板橋の志村坂上に移転してしまったので土地に残された魂を供養するための由、裏に刻まれています。志村の総泉寺は赤羽からそんなに遠くないので、橋場時代を記憶するものなど残っていないか尋ねたことがあったのですが、何もないというご返事でした。
すぐ近くに「妙亀塚」が公園として残っています。
隅田川対岸の「木母寺」は謡曲「隅田川」の梅若丸の墓である「梅若堂」で知られていますが、川の反対側のここは歌舞伎化された「隅田川もの」に出てくる「班女の前」という名前で出てくるお母さん=妙亀尼ということになるんですね。
歌舞伎での隅田川ものというと吉田のお家騒動から梅若丸と班女の前の悲しい話が軸ですが、いろいろパロディーもあとあと出てきて「法界坊」とか「清玄桜姫」とか「桜餅」などいろいろあるのですが、川と都鳥というのはつきものです。今回しっかり確認していないんですが、三ノ輪の商店街辺りあたりだったか、「隅田川」だったか「都鳥」というお菓子が売られているみたいです。浅草とか向島なら当然ですが三ノ輪というところで出しているというのはちょっと見てみたいです。
橋場から清川に出て「泪橋」の交差点から常磐線と日比谷線の高架の間に鎮座する大きなお地蔵さんも覗いて行こうと向かってみました。
日比谷線の南千住の駅の南側の操車場の向こうに見える再開発された汐入の街並み。高層住宅が並んで荒涼とした感じですが、確か自分がまだ20代で上野に勤めていたころは汐入には古い長屋が広がっていて、そのところどころに石の碾臼が転がっていたり、イボタガキの殻が見えたりしていたと記憶しています。ここらでは胡粉製造が地場産業だった時代があったそうなんです。「胡粉」というとすぐに「今戸人形とつながっていたのか?」みたいについ短絡的な考えをしてしまいますが、実際製造から販路をいつか調べてみたいと思います。なお。明治通り白髭橋より北に「石浜神社」があり有名な伝説の今戸焼の発祥、太田道灌によって滅びた千葉家の残党が石浜の岸辺に住み着いて、地面の土で生活雑器を作り始めた、というはなしの舞台がこの近くです。
小塚原刑場の跡はもう少し清川、橋場、石浜寄りにあったのが、操車場建設のためお寺は現在にところへ移動した、とか聞く延命寺。大きなお地蔵さまのそばまでいってみるつもりだったのが既に日も暮れて門が閉められていました。この画像門扉からぎりぎりカメラを向けることができた限界です。初めてここへ来たときは、お地蔵様の真上両側を地下鉄や常磐線の車両が大きな音たてて通り過ぎるので気の毒な印象を持ちました。小塚原で思い出すのは落語「骨の賽」(今戸の狐)、今戸で小間物屋のおかみさんになって狐の絵付けをするのが、もと千住のお女郎さんだったので「骨の妻」と「賽子の賽」とかけてあって、「賽子は骨を材料にするものもあった」ということと「千住」に刑場があったから符丁で「コツ(骨)」と呼ばれていたのが重なりあって話が面白くなっているんですね。
もう真っ暗なのでこれ以上寄り道も厳しいかと思い、常磐線に沿って三ノ輪まで行き、三ノ輪の商店街から都電や明治通りを縫って帰途につきました。
商店街の中の「砂場」の古い普請がかっこいいです。三ノ輪の商店街から外れるとすぐとなりは真っ暗な住宅街、という感じです。お酒や食べ物を気にすることなしにできる体であったなら、ここいらで時間を過ごして、、という気持ちですが。現実を考えて通り過ぎました。今戸、日本堤、清川、橋場、、、、はじめてではないけれど、じっくり進めばまだまだいい感じのものがたくさんありそうで、まだ寄ってみたいと思います。