まだはっきり年末という空気ではなくて勇み足かもしれませんが、手元にあるものに気がついたのでアップしたいと思います。
これには「寿ミ田川 半七」という陶印があるので、今戸にいた最後の半七、7代目白井半七にょる香合です。白井本家である善次郎家から5代前くらい?に分家したのが半七家ですが、世間でのネームバリューでは圧倒的に半七家が有名なので本家のように記されているケースがすくなくありませんが、本家は善次郎家なのだそうです。
今戸にいた最後の半七というのは、関東大震災で被災されたあと、阪急グループや宝塚歌劇の創立者だった小林一三の招きにより宝塚に移って開窯したのがこの7代目なのだそうでその後8代目、9代目まで続きました。関西に移ってからの半七の代々は今戸焼の手法のものも残していますが、京焼風な作行のものが多く残されているような気がします。
この牛の香合はおそらく干支として作られたのではないかと思います。というのは、これよりひとまわり大きな寝牛の香合もあり(姿も異ります)そちらの箱書には大正6年と明記されているのです。どちらも目鼻立ちや表現、釉薬の肌合いや銀化加減が同じです。技法的にどうやったか不勉強でわかりませんが、マットなところと照りのあるところ、ほぼ同じです。
寝牛の姿は「牛の御前」のイメージなのでしょうね。大震災前ですから牛の御前のあった場所は現在の牛島神社のあるところより川上の長命寺の近くだったそうです。
大震災後の区画整理で牛島神社が現在のところに再建されるのと同じ頃、白井半七も関西に移住し、その後も今戸に残って家業を続けていた白井本家の善次郎家も大空襲によって今戸を離れ、葛飾の宝町に移り操業されていました。震災後、関西で操業していた半七家ですが、何かあった折々には、葛飾に移った本家に挨拶に来ていた、と本家善次郎家の白井和夫さんからお話を聞きました。
今戸焼本流の半七にょる作陶で、今戸の土人形(今戸人形)とは別のものですが、昔の今戸焼のひとつの作例として興味深いと思います。