最後の生粋の今戸焼の人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のご命日。
墓所をお参りさせていただいたついでに今戸町内を少し歩いてきました。最初の画像は山谷堀に架かる今戸橋から吉原方面を眺めたところ。堀は暗渠になってしまい、今では遊歩道になっています。左にそびえているのが待乳山の聖天様。この構図は古い絵画や絵はがきにも残っています。向かって右側が今戸町です。明治くらいの写真だと、橋と聖天様の間の家とビルが建っている辺りに焼き物を商う店が写っていたりします。
もと金澤家と窯のあったところをお参りしてから
隅田川の畔へ。2枚目の画像は桜橋袂から上流を眺めたところ、、。ここには今戸から橋場にかけて土手道が続いています。昔の今戸の河岸の名残だそうです。古い絵など見ると河岸で薪を船から降ろす作業をしていたり、そばにダルマ窯やひょっとこのような形の窯から煙が立ち登っています。川面から結構高低差があるのですが、昔もこんなに高かったのか?と思います。20年ほど前に今戸にあった古い燃料屋さんのお爺さんに話を聞いたことがあるのですが、今戸焼には欠かせない松の薪とか松の枝
を茨城県の岩井辺りから船で運んで来ていたそうで、そうした荷物がこの辺りで降ろされ、瓦や今戸焼の製品が積み込まれていたらしいです。それと今戸にはいろいろな有名人も住んでいたそうで、踊りの神様「7代目坂東三津五郎」、新派の「喜多村緑郎」、女優の十朱幸代さんのお父さん「十朱久雄」さん、もっと古い話で「夜嵐お絹」と浮名を流した美男の「市川権十郎」(河原崎権十郎とは別人)、そして有名なのが7代目沢村宗十郎が経営していたという「有明楼」です。「有明楼」は隅田川と山谷堀の合流点の角辺りにあったようで、明治の錦絵に描か
れていますね。画像2枚目は下流を眺めたところ、向こうに見えるのは言問橋。手前の護岸が右へカーブしています。暗渠になった山谷堀がここだけ姿を残しています。昔はここから猪牙船が吉原めざして上っていったところです。そしてこのカーブの内側に「有明楼」があったのでしょうか?画像右端に見えるのが仮設の芝居小屋「平成中村座」の一部です。ちょうど水門の真上に建っているんですね。芝居の大道具の「書き割り」(背景)とか桜や竹などが外から見えました。そばを通ると「バタバタ」というツケの音やお囃子にのって「イヤーッ」という四天の声が聞えてきたので、時代物の狂言の立ちまわりをしているところだったのでしょう。
画像三枚目は山谷堀の水門を渡って、下流かた上流を眺めたところ。向こうの橋は桜橋です。手前の川の綾線がV字に見えるところ、これが山谷堀です。
「待乳沈んでこづへ 乗こむ今戸はし 土手のあいがさかたみがハりの
夕しぐれ 君をおもへば 逢わぬ昔がましぞかし どうしてけふは ござんした そういふ初音をききにきた」
という端歌の舞台です。
「名にし負はば いざ言問はん都鳥 我がおもふ人はありやなしやと」