東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

雪の今戸

2012-02-29 22:36:18 | 日々

P1010339最後の生粋の今戸焼の人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のご命日。

墓所をお参りさせていただいたついでに今戸町内を少し歩いてきました。最初の画像は山谷堀に架かる今戸橋から吉原方面を眺めたところ。堀は暗渠になってしまい、今では遊歩道になっています。左にそびえているのが待乳山の聖天様。この構図は古い絵画や絵はがきにも残っています。向かって右側が今戸町です。明治くらいの写真だと、橋と聖天様の間の家とビルが建っている辺りに焼き物を商う店が写っていたりします。

もと金澤家と窯のあったところをお参りしてからP1010342
隅田川の畔へ。2枚目の画像は桜橋袂から上流を眺めたところ、、。ここには今戸から橋場にかけて土手道が続いています。昔の今戸の河岸の名残だそうです。古い絵など見ると河岸で薪を船から降ろす作業をしていたり、そばにダルマ窯やひょっとこのような形の窯から煙が立ち登っています。川面から結構高低差があるのですが、昔もこんなに高かったのか?と思います。20年ほど前に今戸にあった古い燃料屋さんのお爺さんに話を聞いたことがあるのですが、今戸焼には欠かせない松の薪とか松の枝

P1010343を茨城県の岩井辺りから船で運んで来ていたそうで、そうした荷物がこの辺りで降ろされ、瓦や今戸焼の製品が積み込まれていたらしいです。それと今戸にはいろいろな有名人も住んでいたそうで、踊りの神様「7代目坂東三津五郎」、新派の「喜多村緑郎」、女優の十朱幸代さんのお父さん「十朱久雄」さん、もっと古い話で「夜嵐お絹」と浮名を流した美男の「市川権十郎」(河原崎権十郎とは別人)、そして有名なのが7代目沢村宗十郎が経営していたという「有明楼」です。「有明楼」は隅田川と山谷堀の合流点の角辺りにあったようで、明治の錦絵に描か

P1010344_3れていますね。画像2枚目は下流を眺めたところ、向こうに見えるのは言問橋。手前の護岸が右へカーブしています。暗渠になった山谷堀がここだけ姿を残しています。昔はここから猪牙船が吉原めざして上っていったところです。そしてこのカーブの内側に「有明楼」があったのでしょうか?画像右端に見えるのが仮設の芝居小屋「平成中村座」の一部です。ちょうど水門の真上に建っているんですね。芝居の大道具の「書き割り」(背景)とか桜や竹などが外から見えました。そばを通ると「バタバタ」というツケの音やお囃子にのって「イヤーッ」という四天の声が聞えてきたので、時代物の狂言の立ちまわりをしているところだったのでしょう。

画像三枚目は山谷堀の水門を渡って、下流かた上流を眺めたところ。向こうの橋は桜橋です。手前の川の綾線がV字に見えるところ、これが山谷堀です。

「待乳沈んでこづへ 乗こむ今戸はし 土手のあいがさかたみがハりの

夕しぐれ 君をおもへば 逢わぬ昔がましぞかし どうしてけふは ござんした そういふ初音をききにきた」

という端歌の舞台です。

P1010345_2川面に都鳥が見えました。これぞ雪中の都鳥です。

「名にし負はば いざ言問はん都鳥 我がおもふ人はありやなしやと」


春吉翁のご命日

2012-02-29 21:30:38 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010319今日2月29日は今戸焼の土人形すなわち今戸人形の生粋の最後の作者であった尾張屋・金澤春吉翁のご命日でした。昭和19年の今日のこと。つまり江戸時代から脈々と流れていた今戸人形の伝統の灯が消えてしまった日ということができます。

画像は昭和はじめに撮影された今戸の尾張屋・金澤家の焼成窯で焚きつけ作業をしている春吉翁の後ろ姿です。お亡くなりになられたのが今から68年前のことなので、その時にはまだ今戸にこのような窯があったのだということも不思議な感じです。

P10103402月29日はその年のカレンダーによってはない時もあるので、今年こそは、と金澤家の方のお許しをいただいてお参りさせてもらおうと指折り数えていました。そして当日にこの雪。「特別な日はやっぱり特別」という感じがしました。

足跡ひとつない雪の積もった墓所にお邪魔して雪を払い、お掃除させていただき、お花とお線香をお供えして失礼しました。

かつての今戸にはほうぼうから窯からの煙が登っていた。それが隅田川を背景に江戸の風物のひとつに数えられていた、といいます。

「今戸焼」という一般的な概念では、「日常的な雑器」と「土人形」というイメージでしょうか。実際にはお茶道具とか工芸品的なものも作られていたようで、その方面では「白井半七家」を筆頭に本家の「白井善次郎家」、「橋本三治郎」「作根弁次郎」などの名工の名前が伝わっています。しかし、「半七家」は関東大震災のあと関西へ移住。「善次郎家」は葛飾に移住されました。

P1010341一方の「土人形」のほうでは、この「金澤春吉翁」が最後の伝統を守っていらっしゃったわけで、片や「白井半七」片や「尾張屋春吉」といった具合に春吉翁も生前には「今戸焼」の一翼を担うスターだったのでした。

その証拠には春吉翁のご生前には全国各地からはるばる翁を訪ねて「今戸詣で」する人々が絶えなかったといいますし、そうした記事が残っています。

人形愛好家の間では今でも有名な翁ですが、江戸東京博物館には翁作の今戸人形が展示されていますので是非一度ご覧になっていただきたく思います。3枚目の画像はかつて翁の窯があったところです。


開設2周年

2012-02-22 03:31:05 | 日々

P1010259このところ身辺のことでいろいろあったり、憂鬱な話題などですっかり忘れていましたが、ゆうべ2月21日で当ブログ開設2周年でした。

記事の内容がどうしても偏った方向になってしまうのは、やはり私の興味関心が偏っているのでどうも地味な内容だったり、気分本位でとりあげているので、日頃からお付き合いくださっている皆様本当にありがとうございます。

開設以来のアクセス数というのを見ますと56890とありました。ありがたいことです。

開設当時に比べると、身の境遇やら、身辺の変化やらいろいろありましたが、いろいろいただいたコメントに励ましていただいています。体調や身の回りのことで更新が滞ることもありますがこれからもどうぞよろしくお付き合いください。よろしくお願いいたします。

先ほど仕事場から戻ると十五夜さんが膝に頭を擦り寄せてきました。今日は割と長く一緒に過ごしましたが、それでも離れると呼んでいます。猫さんと暮らしている人は皆そうおもうのでしょうが、十五夜さんこそはわが家の丸〆猫さんです。


「今戸の狐」ではない

2012-02-17 22:07:09 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010241今日用事があって浅草へ行ってきました。用事が済んだあと被官稲荷様へ。

以前、とても残念な話をある方から聞いており、これまでも何度も目にしていたのですが、、、。

ここは新門辰五郎ゆかりのお稲荷さんでもあり、被官(ひかん)が東京訛りで仕官(しかん)に通じることから「仕事につく」という縁起かつぎでむかしから信仰の篤いお稲荷様です。それと、ここの玉垣には中村吉右衛門・中村時蔵・中村米吉(先代・勘三郎さんの前名)も残っています。

P1010238また、ここでは今戸焼の「鉄砲狐」がつい最近まで奉納されていたということで、知る人ぞ知る「生きた今戸焼」に出会えるところでした。今戸の白井さんのお作りになった鉄砲狐が初午で授与されていたのです。昔なら今戸の鉄砲狐はどこにでもあったものですが、瀬戸物製の狐が堅牢で色落ちしないなどの理由から戦前から既に、鉄砲狐は瀬戸物製の狐に駆逐されていたのです。幾分古い鉄砲狐は金杉通りの三島神社に残っていますが、今でもきちんと奉納されていた最後の砦はここだけではなかったでしょうか。

P1010239

しかしいつの間にか、奉納されている鉄砲風狐は今戸焼ではなくなっていました。どういう事情でそうなってしまったのかはわかりませんが、今こうして並んでいるのは京都で作られたものなのです。手を合わせてから狐さんの底を見させてもらいました。おわかりになりますか?底があります。本来の鉄砲狐には底はないのです。見たところ、鋳込み式成形でできているようです。白井さんの鉄砲狐の型はかなり摩耗して丸くなっていたのをお手本にしたようです。

落語「今戸の狐」には手内職で狐に彩色する人達の様子が出てきます。

今戸焼の狐には鉄砲狐以外のさまざまな型がありましたが何といっても一番需要のあったのは鉄砲狐だったので、いわば一番身近で代表的な狐であったはずです。時代の変遷によって今戸焼の生活雑器や道具類は身の回りから消えてしまいました。。

この鉄砲狐こそは、信仰の中で息づいている「生きた今戸焼」だと思っていたのですが今戸焼でなくなってしまい残念のひとことに尽きます。姿は一見似せて作られており、信仰の上では今戸焼であろうがなかろうが要は心であって関係ないだろう、と仰る方もおいでかもしれませんが、東京人のひとりとしてはかなりセンセーショナルなことです。

昔の鉄砲狐の画像についてはP1010240_2

 

落語「今戸の狐から」→

 

山田徳兵衛著「人形百話」より→

 

三島神社の鉄砲狐→

 

擦り込みのある鉄砲狐→

 

鉄砲狐の異種?→

などお時間ありましたらご覧ください。

 


冷たい土

2012-02-15 16:15:28 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010223今日は久しぶりに気温が高く、日中の寒さも和らいでいる感じです。昨年中に素焼きしたものの中でも、全て使ってしまった種類の人形も目立ってきました。丸〆猫や月見兎などはもうないので久しぶりに土いじりをしています。

いくらか寒さが和らいだとはいえ、ここの仕事場には湯沸かし器がないので、水を使うのは冷たくて手が痺れます。土はやはり昨年中に水簸(すいひ)して沈殿させ、吸水鉢で水抜きして練って寝かせておいたものが発砲スチロールの箱にまだ入っているので、外気ほど冷たくはないとはいえ結構冷たいです。この天気で外の粘土をいじるのは結構厳しそうです。


便利さと面倒臭さ

2012-02-11 04:32:27 | 日々

P1010188昨日調べ物のために国会図書館へ行ってきました。昔から思っていたのですが、ここの図書館は閉館日が多くて、勤めを持つ人だと仕事を休まないとまず行けないところ。

できれば近所の図書館で用を済ますことができればそれに越したことはないのですが、ここに来ないと閲覧できない本もあるわけで、そうした場合は辛いです。

かなり久しぶりに行ったのですが、利用者手続きをしてカードを作るといろいろなところで便利になっているんですね。まず昔のように抽斗から図書カードを捜さずともパソコンで検索できるのですが、その際カードをリーダーに乗せないと使えなくなっています。パソコンから検索と請求ができるのは便利です。ただここは閉架式なので本なら一回3冊まで、雑誌は10冊までの請求制限があり、パソコンから請求してから20~30分くらいしないと受け取れません。受け取った3冊の中身が見当違いだった場合、一度返却してからまた請求し直すので、それからまた20~30分待たなければなりません。

館内にはいくつか喫茶があるのですが、ドトールとかサンマルクとかああいった系のテナントが入ってくれると便利なのになあと思いました。

そんな訳で2時間もあれば用が済むと思っていたら知らないうちに日が沈みかけていました。

図書館の雰囲気は嫌いではないんですがやっぱり開架式の図書館のほうが捜しものには便利です。

昔国立劇場の芝居に足繁く通っていた頃からかなり時間が経っているので付近の景色も随分変わりました。東京都内に住んでいながら、とんだお登りさん気分です。


今戸人形 「経木箱入りの向かい招き狐」(明治時代)

2012-02-03 22:08:56 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010156今年は2月3日は節分と初午が重なっているので各地の神社仏閣の豆まきに加え、お稲荷様のお祭りも重なり、見て回るのも大変なことでしょう。

季節にふさわしい昔の今戸焼の人形を、、と思いますが、節分の鬼となると出土品を含め、はてあっただろうか?と頭をひねります。確か最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治~昭和19年)のお作の中に、泥面のひとつとして鬼があったような気がしますが手元にはなく、、。他に鬼があったかどうか、、、?外道の泥面はたくさんあったはずですが鬼とは別のように思えるし、春吉翁作の般若の泥面は残っていますが、これも鬼とは別。出土品には鬼に姿形が割と似ている雷様がありますが鬼ではない。

やはり初午つながりで狐であれば、今までご紹介した以外にもたくさん作られていました。画像の経木箱入りの招き狐は以前ご紹介した「枡入りの恵比寿大黒」と性格的に似ていると思います。当時の生産や販売方法は恵比寿大黒同様、際物屋さんとかおもちゃの問屋さんによッてコーディネートされたものでしょう。今戸焼の窯元で全て一貫生産したものではないと思います。

今戸焼屋さんは型抜きから素焼きまで行い(木地専門)、それを仕入れて、手内職で彩色するおかみさんたち(ちょうど落語の「今戸の狐」(骨の賽)の世界のような)がいて、箱は別のところで調達される。画像のものには残っていませんが、ガラスの蓋が紙で蝶番のように一辺固定されていて、ガラスの裏側から泥絵具でお幕が描かれていたのだと思います。以前ご紹介した「経木箱入りの天神様」と同じだと思います。

奥の山積みにされた小判は片面抜きでぴったりと底板に貼りつけられています。構図は恵比寿大黒のそれとほぼ同じですが、手前に宝珠が3つ積み上げられているのが異なります。

向き合う招き狐ですが、構図としては「太郎稲荷の向かい狐」に似ていますが、太郎稲荷のは手は招いていません。それとこの狐に関しては片面ではなくしっかり二枚型で背面もあります。彩色に関しては昔の今戸人形の公式とおり、手足や腰の境界を薄い桃色でぼかしています。(もっと古いものは鉛丹での擦り込み) 台座の繧繝縁風の彩色は天神様とほぼ同じですね。

今戸焼の招き狐については戦前浅草被官稲荷で授与されていたものや、画像のような狐、更に出土品に見られるような鉄砲狐型で招くものが存在するのですが、招き猫との関係でいうと、招き猫が先でその影響で狐も招くようになったのではないかと考えているのですが、どうなのでしょうか?また、画像のように経木に箱に収まった形のもので2体の招き猫が向かい合わせに招いているという構図のものが存在したのかどうか?あってもよさそうなものなのにまだ見たことがありません。春吉翁の作を含めてそれ以前の古い今戸焼の人形に向かい招き猫があったのかどうか、、、。今戸焼の招き猫の古いものの中には右招きも左招きも単独で存在する作例は確認できますが、2体一対で招くものがあったのかどうか、、、。あったら見てみたいです。

ご参考までに

 

「枡入りの恵比寿大黒」の画像はこちら→

 

「経木箱入りの天神様」の画像はこちら→

 

「太郎稲荷の向かい狐」の画像はこちら→

 

お時間ありましたらご覧ください。


赤羽名所⑥「昭和の遺構」

2012-02-02 21:31:04 | ご近所

P1010152ここは赤羽駅東口と南口との間のパチンコ屋さんの林立する裏通りです。余り用事で通ることが少ないのでつい最近まで見落としていたのですが、こういう店構えがまだ残っていたとは、、。

昭和30年代~40年代の喫茶店の遺構だと思います。表向きだけですが煉瓦積みの重厚な洋館を演出した作り。

小学生の頃まで、確かにこうした古城風な店構えの喫茶店は赤羽に数軒あったことは憶えています。子供ひとりで店に入るということはなかったので、こういう店に入る機会はそれほどなかったように思います。

こうした店の前を通ると必ず煎りたてのコーヒーの香りというより、コーヒー粕の酸っぱいような臭いがしたように思います。一度入ったら帰って出てこられないような怪奇なムードと香り。大人にならないと入れない店というイメージを持っていました。


今戸人形 「虫拳」(三すくみ) (明治時代?)

2012-02-02 20:56:09 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010153今戸焼の人形の中で狐拳つながりのものもっとご紹介したいのですが、整理が悪くてどこにしまってしまったか、また見つかりましたらとりあげさせていただきます。拳つながりということで「虫拳」をとりあげます。

蛇は蛙を食べ、蛙はナメクジを食べるが蛇はナメクジを食べられない(食べると体が溶けてしまうと思われていた)の三すくみの拳というものありました。その打ち方についてはわかりませんが、こうしておもちゃになっているくらいなので子供の間でも流行ったものだったのでしょう。

P1010154経木の箱にガラスの蓋でできたケースに三体納まっています。蛙とナメクジは土製、蛇は反古紙のこよりでできており、それぞれに針金が通してあります。針金には磁力がつけてあり、反発したり寄り合う力でそれぞれの強弱関係を勝負に見立てて遊ぶようです。

P1010155詳しいことは調べていませんが、虫拳もそれなりに古い歴史があるのではないでしょうか?

歌舞伎「三人吉三」の大川端でお嬢吉三とお坊吉三のせりふに「蛇が見込んだ青蛙、腹が裂けても飲まにゃおかねえ、、、、そんならこれをここに掛け虫拳ならぬこの場の勝負」というのがでてきます。この初演は安政年間だったかと思います。

また「自来也」の主人公の自来也は蝦の妖術使いその妻の綱手はナメクジの妖術使い、それに敵するのが大蛇丸という三すくみの設定になっているので、読本として魁となった「自来也説話」(文化3年)の頃には既に虫拳が流行していたのかどうか、鶏が先か卵が先なんでしょうか?しかしこの自来也は後に合巻「自来也豪傑話」(天保10年~明治元年)として刊行され、河竹黙阿弥によって劇化もされ、更に後には映画化されるなどかなりポピュラーになっていたと思われますし、子供のイメージも虫拳=自来也くらいにあったのではないかと考えられないでしょうか?

かねがね思っているのですが、今戸人形は今戸焼から派生したものなので 今戸人形⊂今戸焼ですが、実際には古いものの中には成形までは同じでも素焼きをしていない生土のものなど今戸人形?今戸焼というものも存在するのでこうした画像のような際物も今戸人形またはその仲間と考えています。蛇は紙製ですが、土製のものは土ものの業者が作り、箱は別の下請けで、際物屋さんがコーディネートして販売していたのだろうと考えられます。こうした例は以前ご紹介した「枡入りの恵比寿大黒」「経木箱入りの天神」「相撲の毛人形」などにも共通するものだと思います。