ここは私の町内にある銭湯「玉の湯」さん。当然一番馴染みのあった銭湯です。
わが家には古い家の時から風呂場があったのですが、小学校にあがる前、建て替えの頃は毎晩通ったものでした。
その後、もの心がついてから、余計に足が遠くなってしまったのですが、腰が痛むようになってからは時々入りに行っていました。
銭湯の風情というものの基本はここで培われたようなものでした。ここ「玉の湯」さんを中心に子供の頃まではこの町内にも小さな商店街がありました。酒屋さんに肉屋さん、食料品屋さん、洋品店、電気屋さんに中華屋さん、日本そば屋さん、電気屋さん、クリーニング屋さん、駄菓子屋さん、お茶屋さんまでありましたが、今ではなくなってしまいました。
夕方、玉の湯さんが開く頃には屋台の焼き豚屋さんのおばさんが入り口につけていました。
通りに活気がありました。
玉の湯さんも2年くらい前だったか閉業されてしまったのですが、建物はそのまま残っていました。しかし先日の地震で屋根の瓦が落ちたとかで取り壊しになりました。
せめて富士山の景色を撮っておこうとカメラを向けました。
よく見ると、この景色、大きなキャンバスのような地に描かれているので、その気になれば、そこだけ切り取って保存することもできたのに勿体ないですね。今では立派なアートとして通用すると思うのですが、、。
最後の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。
この人形の型は春吉翁自ら起されたものである、と何かの本で読んだか聞いたかしたように憶えています。
それで想像しているのですが、この型はもしかすると「だるま乗り童子」の型を応用して作られたのではないか、、、??
似ていませんか?
画像の人形の型自体は春吉翁の創作であったにせよ、正面向きに熊に金太郎が跨っているという構図の今戸人形の型はもともとあったようなのです。都内の近世遺跡からの出土品中にありました。堤や相良の人形にある熊乗り金太郎の型に比較的に似ているように思いました。
他に出土品の中にやはり相良系統の人形に見られるような横方向に臥した熊に正面向きに座っている金太郎もありました。
今戸版のこれらの伝世の人形があったら見てみたいものです。
画像は最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。
裏面に「尾兼」の刻印があり、御父上の金澤兼吉翁(~大正7年)以来の割型で作られたものです。これは、関東大震災後に春吉翁が人形作りを再興されて以降の作です。
同じ型の明治に作られた人形は観たことがありません。おそらく前掲の明治の「虎加藤」のような調子とタッチだったのでしょうか?
この人形は彫が細かい上、配色も複雑でさぞ色塗りも手間がかかっただろうと思います。
馬に乗った今戸人形の人物は春吉翁作の「馬小姓」や「狐馬」など知られている他、都内の近世遺跡から出土しているものにいろいろな種類がみられます。
裏面には「尾兼」の刻印があり、尾張屋・金澤家の作であることには間違いないのですが、最後の生粋の今戸人形であった、尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお若い頃の作なのか、その父上である金澤兼吉翁(~大正7年)の作であるのかわからずにいます。型自体は「尾兼」の文字のとおり兼吉翁がお使いになっていた割型で作られているのですがどうなのでしょうか?
春吉翁の懐古談によれば、明治の終わりになると今戸焼の土人形の売れ行きがよくなくなり、人形作りをやめて箱庭細工の製作に転じられたとか、、。割型は自宅の庭を掘って埋めていたそうです。ところが、関東大震災のあと、町の復興工事の折、埋めておいた型が再び掘り起され、愛好家の勧めで往時の人形作りを再興されたそうです。
再興後にお作りになられた人形の中にもこの「虎加藤」も含まれていましたが、画像の人形の配色とは顔料が異なります。
画像のものは明治のものだから、兼吉翁の作であると断定できないように思います。袴部分の紫は明治も半ば以降のものでしょうし、タッチも再興後の春吉翁の筆のものとちょっと違うような気がします。しかし若い頃のものだとすれば、、、。
顔料こそ違いますが、赤い部分には赤っぽい色、紫の部分には紫っぽい色、と言う風に配色のきまりは明治のものと再興後のものときまりがあったのかと思います。画像の「虎加藤」よりももっと大きなサイズの人形もあったようです。
端午の節句に因んでとりあげてみました。