東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

「東京生活99 丸〆猫を探して」再び

2021-08-15 15:31:13 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

 べにや民芸店さんでの作品展が終わり、次の準備で人形の型抜きを再開し始めています。
 べにやさんでお越しいただいたお客様との会話のなかで、教えていただいた話。もう22年も前のことですが、丸〆猫の型を起こして2年くらい後だったでしょうか、「東京生活99 」というケーブル放送の番組で丸〆猫をはじめ、人形を作っているところを取材してくださったことがあり、その動画がYou tubeに流れていました。番組の長さ二十数分を①と②に分けて流れていたのが、いつの頃からか②の部分が再生できないようになっていて、そのまま自分でも忘れたままになっていたのですが、お客様が後半の部分も流れている、というご指摘をいただいて覗いてみると、確かに前半後半ともに再生できるようになっています。ひさしぶりに観る動画。

 番組のはじめで出て来る雷門前の丸〆猫。
 
 はじめに出て来る自分の姿。昔借りていたアトリエ用のアパートの中。

 川の畔で天然の粘土を拾い集めている場面。

 家の前で粘土を水簸(すいひ)にかけている場面。
 当時作っていた人形の数々。(今より大ぶりなのが多かった。)

作った丸〆猫を三社様(当然のことながら、丸〆猫ゆかりのふるさとであり、招き猫の発祥の土地)に奉納するところ。

 当時36歳だった自分の姿。若いし肌がつやつや。まだ元気でよく動いた。
ただ、中身については全然変わっていないというか成長していない。(変なひと。不思議なひと。)

 いろいろお世話になった人々。
 
 
 丸〆猫を取り巻く状況も当時から随分と変わって…。自由とはいえ、昔の姿を意識しないでうちの伝統ですみたいに作るひと、拙作のを勝手にパクってあたかも自家製という口上で商売しているA草NみせのS6の旦那。
ある意味、A草って凄いところ。
 
 何はともあれ、動画の中の自分や当時の景色に、時の流れを感じずにはいられません。
 
 YouTube
「東京生活99 丸〆猫を探して ①」→
     「東京生活99 丸〆猫を探して ②」

月命日に遅れて…

2021-08-13 01:05:29 | 日々
 
 べにや民芸店さんでの作品展。無事終了しました。ありがとうございました。期間中、訪ねてきくくださったお客様の中には、十五夜さんのことをお悔やみくださる方もおいででした。壁面に飾っていた広重の錦絵「浄るり町繁花の図」こそは、十五夜さんが行方不明になったとき我が家に舞い込んできたもので、嘉永5年の丸〆猫大流行の発端となった「武江年表」に記された物語そそのものの地をいくような出来事で十五夜さんの置土産だったのではないか、と思ったものでした。幸い当時、十五夜さんは再び家に戻って来てくれたのでした。
 今はなき、月見草の監督が「まあくん神の子不思議な子」という名言を残されましたが、我が家の十五夜さんもまさしく、「神の猫さん」だったのだとおもいます。
 会期中で8月の月命日にはお参りできませんでしたが、会期が終わったあとの一昨日板橋まで出かけてきました。暑いのと、コロナ対策のためか、お堂の玄関が珍しく開け放されていました。

 不思議なことに作品展の3日目の夜、帰宅して風呂に入った後、暫し休んでいたつかの間、十五夜さんが現れました。「こっちだよ。」といって呼んでいるのです。抱き上げるとすごく重い。いつもより饒舌な十五夜さん。というのも、よくよく考えると、いつもの十五夜さんの言葉ではなくて、日本語でした。声はオウムみたいだったとおもいます。
 月命日より前だったのに何か伝えることがあったのでしょうか。
作品展へ訪ねてきてくださったお客様と十五夜さんの思い出話に及ぶと、つい涙腺にこみ上げてきて、溢れないように必死でした。大人気ないかもしれませんが、今でも、無意識に名前を呼んでいたりします。
 やっとお参りできました。暑かったですが、涼しい風が吹きました。

残り2日と与市兵衛

2021-08-08 03:34:30 | 日々
 
 先週土曜から開催中の、べにや民藝店さんでの拙作の作品展。残すところ明日あさっての2日間となりました。巷での厳しい状況のなか、はるばる足を運んでくださるお客様、何度も足繁くお越しくださった方もおいででありがたく感じております。毎日更新される新規感染者数、猛暑などおもえば、そんななかお越しくださったみなさん、本当にありがとうございます。開催中には目の前のことで頭がいっぱいで開けた展示の様子など、この場でご紹介を、と思っていたのですが、叶いませんでした。申し訳ありません。
 開催前の記事でこういうものを完成させて出してみたいと記したもののうち、「与市兵衛」とか「火の用心」と巷で呼ばれている型の人形については、一番あとまわしになってしまって、先ほどやっと試し塗りしたところです。「与市兵衛」として塗ってみました。本郷、東大の構内あたり「真砂町遺跡」からこの型の色のとれてしまった人形が出土されているので、今戸でも作られていたのであろうという思いが先走りしていました。箱根山の西側にはご縁が薄く、これまで出かけたこと、指で数えるくらいしか機会がなく、郷土玩具、郷土人形についても箱根山の向こうのものには接する機会がないので、知らないことばかりですが、どこかの古民具の催事で大きなサイズのニス塗りされた「与市兵衛」らしき人形が並べられていたのを見た記憶がありましたが、稲畑人形かどこかのものかと思っていました。
 真砂町からみつかった人形にはどんな彩色がなされていたか皆目わかりませんし、相良人形で「火の用心」として作られていたものや伏見人形らしきものも見かけたことがありますが、芝居好きとしては、忠臣蔵5段目に出て来るお軽のお父さんとしてのなじみから、「与市兵衛」として塗ってみました。実際の舞台に登場する与市兵衛は羽織を身に着けておらず、裾をからげています。錦絵に描かれている姿ではまっ茶色(弁柄のような色)の着物に描かれていることが多いですが、実際舞台で観ている姿は絵の具の「代赭色(たいしゃいろ)」みたいな色なのでそのように塗りました。婿の勘平の為にお軽の身売りの代金を受け取りに出かけるので羽織を羽織ったりする礼儀で黒の羽織か?という勝手な推測。手にする小田原提灯は舞台では無地だったような気がしますが、試しに「与」の字を書いたもの、もしかすると大文字屋で借りた提灯なら「大文字屋」か店の紋入りでも…と空想したもの、あとひとつ、知り合いで舞台の小道具関係の人から聞いた話で院本狂言の世話屋台に掛けられている暖簾によくある早蕨みたいな文様が提灯に描かれている例もある、ということなので、そのようにも塗ってみました。
 あくまで空想して塗ったもので、「火の用心」の人形として塗るならば、もう少しカジュアルなお爺さんになるのだろうか?などと空想はつづきます。
 試作として塗った3体だけなのですが、毎度ご贔屓にしてくださるお客様が観てみたいというご要望なので、ご覧いただこうと思っています。
 台風通過の予報もありますが、明日は、店内の木机の上でひねり鳩の彩色をしてみては?というご提案をいただいたのでそうしてみようと思っています。