5月4日(木)
今日は朝からパチンコに行って大負けしてしまいました。おかげで連休中にこづかいが底をつきそうです。株も今は売れそうな銘柄を持ってないし、明日はヨットで昼寝が一番安上がりかもしれません。午後は近くの温泉の露天風呂でゆっくりしてました。
さて話は昨日の続きで、研究所勤務となった僕の失敗物語になります。勤務先の直属の上司は僕の大学の先輩で学生の頃から優秀なやつとヨット部の先輩から聞いていたT氏でした。T氏は後輩が来たと言うことで結構期待してくれたのですが、学生時代も入社してからも最先端の技術など縁がなかったので、またまたわかりませんの連続でデータ通信方式だソフトウェアだと言われてもさっぱりでした。一応結構勉強はしたのですが実感として理解できていないので自信がないことばかりでした。最近になって僕は自分のことがある程度わかってきましたが、僕は体感的に理解するタイプの人間のようで、理屈の世界はテストをすればできると思うけど自分自身はほとんど納得できていないと言った人間なので、ソフトウェアの説明をいくら聞いても表面的なこととしてしか理解できず、どうしてそれでこの機械が動くようになるのか理解できずにいました。
それでも半年後には新しい方式の商用試験をするので北海道にデータ収集に行くよう言われてしまいました。丁度あの有珠山が噴火した年です。そこでまたまた変な機械に遭遇することになるのです。それは今で言うファクシミリですが、当時は4分機と言うA4、1枚を4分かかって電送する装置でした。静電破壊方式なので、受信時にドラムが回転してスキャンしていくと静電破壊特有のオゾン臭が部屋に立ち込めてくるやつです。東京からの指示が送られてきたり、こちらから試験データを送ったりしているのですが、それでも当時はすげぇ便利なものが世の中にはあるんだなぁと感心してしまいました。ただ扱い方がわからず、もたもたしているといっしょに東京や大阪から来ていた人達がテキパキとやってくれました。だから僕はただみんなのやるのを見ていただけと言ったのが正解です。ただ夜になるとススキのに繰り出してジンギスカン食べ放題とかラーメン横丁のハシゴとか北海道の食を堪能していました。金曜の夜になると夜行に乗って函館まで行って朝市でゆでたての毛蟹を食べたのがいまでもわすれられません。一匹千円で半分に切ってもらいいっしょに行った仲間と半分こにしたので500円ですが、いまでも最高の味だと思っています。それから五稜郭やら函館山など観光してから函館の寿司屋にイカを食べにいったりしてました。またレンタカーを借りて襟裳岬に行ったり、小樽に行ったり休日は遊びまわっていました。ただ有珠山の噴火以降洞爺湖などは通行止めになっており、行けなかった所もありましたが一ヶ月はあっという間にすぎてしまったのです。家では生まれて半年になる娘がいると言うこともころっと忘れていたと思います。東京に帰ると羽田空港で女房と娘が迎えに来ていたのですが、娘を抱こうとすると泣き出してしまわれたのをよく覚えています。一ヶ月も見ないうちに大きくなったけど僕の顔は忘れられててしまったようです。
この商用試験は冬には熊本で行われ、僕も2週間ほど行くことになっていました。だいたい要領はわかっていたので、今度はデータ収集も問題なくできるはずでしたが、現場の人たちがデータは取っておいてあげるから、折角の九州なのだから少し見学して行く様に言ってくれました。そこですぐにお言葉に甘えてとなったのですが、あとで東京の上司にばれて、帰京後大目玉をもらうことになってしまいました。昔は結構大目に見ていたようですがだんだん厳しくなってきた頃だったのでしょう。でも今と比べればずいぶんおおらかだったと思います。それでも指宿やら別府やらずいぶん遊ばせていただきました。もちろん土日も使ってますのであまり誤解しすぎないように。
この頃はコンピュータを中心とした技術は先進国アメリカの後追いの時代だったせいか、アメリカの技術情報誌の翻訳等も分担でよくやりましたが、僕の翻訳は正確じゃないとよく先輩にしかられてました。君の訳は日本語にはなっているけど、正確に訳してないから肝心のところが飛ばされているじゃないかと。僕はよくわからないところを飛ばして前後の辻褄を合わせて訳してしまっているのは自分でもわかっていたのですが、そこまでチェックされていたのには感心してしまいました。そんなに細かくきちっと詰めていく研究者の仕事は適性がなかったのか2年後にはまた違う職場に転勤になってしまいました。
今度は新技術を現場の技術者に教育訓練する部署の主任教官として赴任することになるすが、ここでのビジネスライフは次回報告することにします。ではまた。