”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(73)

2006年05月18日 23時36分36秒 | ビジネス

5月18日(木)雨のち曇
さてずいぶん長くなってしまった外国出張ドジドジ行状記も最終目的であるデンマークの通信会社に着いて何事もなくすませ、コペンハーゲンで3日間の休日を残すだけになるはずでした。ところが訪問先の会社について、前年に来日したもう一人のマネージャーのオフィスでしばらく談笑し、おみやげの新商品である端末のデモをすることとなりました。現地の作業員に手伝ってもらいながら始めたのですが、最初はうまくいって、歓声があがったのもつかの間、変圧器から煙が出始めてしまったのです。作業者達がさわぎだしてしまったため、僕もパニックになってしまい、途中で中断してしまうことになってしまったのです。多分成田で出発前に購入した変圧器がおかしかったとしか考えられないのでした。とにかくデモは途中で中止して、予定されていたディスカッソンをマネージャーのオフィスで始めることになりました。と言っても事前にテーマや質問を聞いていましたので、既に作成してあった英文レポートを提出して、若干の質問を受けた程度でした。その中で特に印象に残っていることは日本のホームテレホンの考え方が彼らには理解できなかったようです。一本の電話回線で何台もの電話機をぶらさげるやり方に対して2回戦引けばいいじゃないのか?となるのです。こうなるともう説明のしようがなくなってしまうのです。根底には料金制度が深くかかわっているのですが、要は制度によって基本となるコンセプト自身がまったく変わってしまうのでしょう。我々が普段常識と思っていることも時代や場所によってまったく異なると言うことです。
ところで無事ディスカッションも終わり、帰りのの飛行機の時間を聞かれチケットをみせると、迎えにきてくれた彼が夜パーティを開くから最終の飛行機に変えてもよいかと聞かれ、ゴチになることにしました。チケットは彼が航空会社に電話して変えたからOKだと言い、自分が飛行場まで送っていくから安心するよう言ってくれました。そしてパーティまで時間があるのでオーフスの町を案内すると言って、彼の車でオールドタウンやビール工場や古い中世風の教会やら見物させてもらいました。夕方パーティ会場のお店に入るとすでに皆さん集まっていて、すぐに地ビールで乾杯となり、楽しい一時になったのですがつまみのチーズを勧められて一口食べたところすごくおいしかったので、”ベリーナイス”などと言ってしまったのです。それからあとが大変で彼はチーズが好きだからと言うことでスイス産の○○チーズとかフランス産の○○チーズとかアオカビが生えたようなチーズとかみなさんが持ってきてくれてこれがうまいから食べろと勧めるのです。僕はもう食べられないくなっていたのですが、うまく断れずに”サンキュー、ベリーナイス”などとやっていたものですから、ウイスキーとチーズで完全に酔っ払ってしまい、気持ち悪くなってしまいました。とにかくあとしばらくだからと自分に言い聞かせて、なんとか持ちこたえました。パーティが終わり、プレゼントにユトランド半島の自然を撮った写真集とデンマークで販売されている端末(デザインがすばらしい)をもらい、皆さんにお礼とお別れを言い、約束どおり彼の車で送っていただきました。空港に着くと彼が荷物を持ってくれて、チェックインカウンターで僕のチケットを見せながら、なにやら手続きをすませてくれて、ゲートを指差して手を振ったので”サンキューグッバイ”と言いながら彼と別れ飛行機に乗り込んだのです。飛行機の座席に座ったとたんに安堵感からか急に気持ち悪くなってきて、最悪にもチーズを吐いてしまったのです。よりによって飛行機の中で吐いてしまうとは情けないですが、もうどうにもならなかったのです。幸い乗客はほとんどいなかったのでまだよかったのですが、スチワーデスが飛んできて、全部ふき取ってもらいました。スチワーデスの彼女は笑顔で僕を心配してくれ、コーラを持ってきてくれたり、毛布を持ってきてくれたりでずっとお世話になってしまいました。北欧の女性はブロンドの髪で妖精のような顔立ちなので絶世の美女にお世話になったのは最高にかっこ悪かったと思います。コペンハーゲンに着いて飛行機からでるまで彼女にきずかってもらい、別れた時の笑顔はいまだに遠い記憶にあるのです。
コペンについてからは3日間あっちこっち歩いてゆっくり見物したのです。特に日本食が食べたくて入ったレストランで日本人に会い、それぞれの旅の話や日本のカラオケをやったりできて、コペンハーゲンはオーフスと違い国際都市だなとつくづく思ったのです。
これで”ドジドジ行状記”は終わりです。帰国後上司からは”××でも行けるのだからお前らみんな大丈夫だぞ”と言われていました。そして僕の後に外国出張となったN君などは”××さんでも大丈夫だと言われたから僕も行くことにしました。”と僕に言ってくる始末でした。まぁみんなを元気付ける意味で僕の出張も会社のためになったのかもしれません。
この職場を最後に僕は技術屋から営業屋に転身することになるのです。
しんさんのビジネスライフ前編はこれで終わりです。後編はまた気が向いた時にでも話すことにしましょう。それではまた。


しんさんのよもやま話…ビジネス編(72)

2006年05月17日 23時49分33秒 | ビジネス

5月17日(水)曇一時雨
どうも毎日はっきりしない天気が続きますね。田舎の茶摘みも,天候不順な中でなんとか終わったようで、今日は飲んで帰ってきたのですが女房殿は静岡から既に帰宅していました。これで今年もうまいお茶が飲めそうです。


さてコペンハーゲンでのドジもことなきを得て、無事SASの国内線に乗り込むのですが待っていた飛行機はプロペラの小さな飛行機で40~50人ぐらいしか乗れないやつで前から3列がファーストクラスであとがエコノミーでした。僕はエコノミーの一番前の席の窓側でしたが、客がほとんどいなくてファーストクラスに4~5人エコノミーに10人程度で、しかも北海の海面が良く見えるような低空でゆっくりと飛ぶものですからかなり心細くなっていました。まだ3月初旬の海には船もなく冷たい感じの海だった記憶があります。何はともあれオーフスの飛行場に着くとタクシーで訪問先との待合せ場所であるオーフス中央駅にいかなければなりません。タクシー乗り場に行き”トゥオーフスセントラルステイションプリーズ”と言っても運転手がわかりません。あげくに後ろのタクシーの運転手を呼んで同じことを言わせるのですがわかってもらえません。その後ろの運転手もその又後ろの運転手もわかってもらえず、訳のわからない言葉で運転手同士が相談し合っていますが要は全然通じないのです。乗り場に居合わせた運転手が次々と来て、もう僕は何回も言っているのだけど、発音が悪いのかなぁといろいろアクセントを変えていたのですが全然ダメで、もう半ベソ状態になってしまいました。その時人垣の後ろの方から女性のドライバーが出てきて”バーンホフ?”とゆっくり聞くではありませんか。駅をドイツ語ではバーンホフと言うのを急に思い出し、僕は”ヤァヤァバーンホフ、オーフスセントラルバーンホフ”と英語とドイツ語のチャンポンで藁にもすがる思いで言ったのでした。その女性ドライバーは理解してくれたようでまわりのドライバーに訳のわからない言葉で説明して運転手達も納得したようでした。ところが僕を乗せるはずの運転手がなにやら言ってその女性ドライバーに連れて行くように言っているようなのです。多分言葉のわかる人が乗せて行けと言うことなのでしょう。僕は言われるままに後ろの方に並んでいる車まで重い荷物を引きずっていったのです。あとは、その女性ドライバーの運転で何とか約束の時間30分前にオーフス中央駅に着いたのです。そうかここはデンマーク語じゃなくてドイツ語なのかとこの時理解したのでした。ドイツにいたときはそれでも英語が通じたのですが、ここまで来るとさすがに外国人があまり来ないのか英語は通じないようです。
彼女はちょっときつい感じだったけどスタイルのかっこいい人で英語も少し話せるようでラッキーだったかもしれませんでした。1時間近いドライブの中でどこから来たのかとかどこに行くのかとかゆっくり話しながらやっと落ち着いたのでした。
オーフス中央駅でタクシーをおり、しばらく待ってやっと日本で会った懐かしい顔が迎えに来てくれて最高にほっとしたのでした。しかしながらこの日はこのあともドジの連発をするのですがこの続きはまた明日にしましょう。とにかく一日に何個もドジの話を書くのは自己嫌悪に陥ってしまいますから。でもバカな話にここまで付き合ってくれてありがとう。感謝感謝です。
それではまた明日会いましょう。


しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(71)

2006年05月16日 21時28分05秒 | ビジネス
5月16日曇一時雨
なかなか五月晴れとはなりませんねぇ。明日から僕の田舎では茶摘をやると言うことで、女房殿は今日から静岡の田舎に行っています。天気があまりよくない日が多かったけどどうなんでしょうか?最近僕自身が茶摘に行くことがほとんどないので様子がよくわかりませんが、この時期になると近所の人の手を借りて1日で摘んでしまい、次の日は近所の家の茶摘と言った具合で短期間に効率的に人の手配ができてしまう田舎のしくみが存在します。個人主義とやらが叫ばれる現代にあって古きよき風習が消えていく傾向に対して寂しい思いがするのは僕だけなのでしょうか?
ところで昨日の続きの”しんさんドジドジ行状記”はいよいよハンブルクからコペンハーゲンに舞台を移します。
ハンブルク空港を朝早く出た僕はデンマークのオーフスと言うところを訪問する予定で、一旦コペンハーゲンに入り国内線に乗り換えてオーフスに行くことになってました。今度は税関でのトラブルもなく順調に国内線の乗り継ぎまで来ました。ところがここで今度はセキュリティチェックの金属探知機をくぐったところで、ブザーがなって身体検査となってしまいました。服の上からボディチェック、腹に巻いた巾着をみつけ、服を脱げと言われる始末です。”ノー、ノー ジスイズジャパニーズイエン”と言いながら服を脱ぎ始めると、搭乗者が何事かとまわりに集まりだしてしまいました。3月上旬の肌寒い中で上半身裸になり、腹に巻いた巾着をとりはずし、巾着の中からへそくりの30万円をつかみ”ジスイズジャパニーズイエン”とやったから、まわりの見物人達から”ドッ”笑いが起こりあげくに拍手まで起こるといった事態になってしまいました。巾着に付いている金具のチャックがどうも反応したようなのですが、最高にかっこ悪い場面を演出してしまったわけです。せめてもの救いは、見物人達に東洋系の人はおらず、見知らぬ西洋人ばかりだったことです。
この日は一番の目的である会社訪問の日なのに朝早くからこんなことで、案の定大変な一日になってしまうのです。がオーフスについてからの話は次回にします。予備知識としてオーフスはデンマークと言ってもドイツと陸続きのユトランド半島にある最大の都市です。昔はビールの生産でも有名だったようです。言葉も当然ながらドイツ語が現地の言葉でした。それを知らなかったこともドジの元になるのですが。それではまた。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(70)

2006年05月15日 19時02分56秒 | ビジネス
5月15日(月)晴のち曇
久しぶりに2日連続で休みにしちゃいましたが、先週の続きの話を再開します。今日は”しんさんのドジドジ行状記”の第2弾になります。
ブレーメンまでたどり着いたところまでが前回でしたが、ここに泊まりながら主にハノーバーのメッセに通いました。なにせ広くて朝から晩まで見て回っても1日では回りきれないスケールです。朝早くハノーバーの駅からドイツ鉄道に乗ってハノーバーまで行く訳ですが、列車がBOXのようになっていて、喫煙BOXと禁煙BOXが列車の外側に大きく書かれているのです。当然ながら僕はヘビースモーカーですから喫煙BOXに入りました。1BOXに6人ぐらい座れるようになっていました。僕の入ったBOXには老婦人が一人乗っていました。”グーテン モルゲン”と挨拶を交わしたあと、いつもの一服をと”メイアイスモーク?”とやったところ不可解な顔をされ、”何でそんなことを聞くのか、このBOXは喫煙できると書いてあるじゃないか”とこちらが怒られてしまいました。僕はその老婦人に気をつかっただけなのに、感性がないと言うか合理的と言うか不思議な気分になってしまいました。彼女はタバコを喫煙されるのは承知で乗っているのだから聞く必要はないと言ってました。あとは1時間半ちかくの間にかなり間の空いた会話をしていたと思います。メッセの会場で売っていたゆでたソーセージ一本と牛乳の昼食はとにかく安いけど最高でした。あのソーセージのうまさは忘れられません。
喫煙BOXも失敗と言えばそうですが、今日の失敗はもっときついものです。ドイツでの訪問予定もなんとかこなし、デンマークへ行く前日にまたハンブルクに戻ってきて、結構高級なホテルに宿泊しました。ドイツ最後の晩餐ですからホテルのレストランで自分の選んだ料理でフルコースを注文しました。メニューのことをドイツ語でスパイゼカルテと言いまして、見てもさっぱりわかりません。ウエイターを呼んで、前菜から、これは何かを英語に訳してもらいながら注文しました。英語に訳してもらいながら、とにかくわかるものをベイクトポテトとか子牛のサーロインとか適当に注文して行き、最後にやっぱりドイツは白ワインがおいしいと言うのでこれも注文し、最高に豪華な食事をしました。ただあとで請求書をみたら、おそろしく高い値段で、はるかに予定オーバーで、このあとマクドナルドとかケンタッキーで食費を浮かす日が出てくるはめになりました。実はへそくりで30万円ほど持っていたのですが、日本に何があっても帰ってくるためのへそくりですから使うわけにもいかなかったのです。やっぱり最初からセットでいくらの料理が僕らには似合っているのかもしれませんね。この日の失敗はまだ自分だけの話ですからいいと言えばいいのですが、翌朝デンマークに旅立った自分にはコペンハーゲンの空港で、さらにはずかしい失敗が待っているのです。
この続きはまた明日にします。ではまた。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(69)

2006年05月12日 23時36分45秒 | ビジネス
5月12日(金)曇
五月晴れが一日もない一週間が過ぎようとしています。田舎では来週茶摘が予定されているのですが、今年のできはどうなのか気になるところです。
さて今日から3回のシリーズで初海外出張失敗談をしていきます。名付けて”しんさんのドジドジ行状記”です。
まだ肌寒い3月上旬の夕方、初めての成田空港なので何があっても大丈夫な出発4時間前には着いてこれから18時間近くの空の旅に、何とも言えない神妙な緊張でいっぱいでした。まず訪問先で新規開発商品のデモをする時に使用する変圧器を空港併設のトラベルショップで変圧器を購入しました。日本とデンマークは電圧が違うので220Vを100Vに変換する必要があったのです。チェックイン後初めて免税店なるものを見てまわり、ブランド品の高さにおどろいていたのですが、それでも免税分だけ安いのだからどんな人が買うのか考えられませんでした。当時の僕はまったくブランドなるものに興味がなかったというか貧乏してましたので。最近でも貧乏は相変わらずですが、ブランドは回りにバブリイな人達が多いので多少わかるようになりました。そんな訳で出張中の喫煙用にタバコを買っただけでした。あとは帰りに買う予定のウィスキーの銘柄と値段を頭に入れて、搭乗口で待つことに。SASのDC8だったと思うけど、エコノミークラスの後部座席はこれからアンカレッジ経由でドイツのハンブルクまで世話になるには狭すぎるような気がしました。でも機内から北極圏の氷の山々が朝日に輝くのが見えるとカメラでいっぱい写真をとっていました。
アンカレッジで給油のためしばらく待ってから北極回りでハンブルクまでになりますが、搭乗員がまったく変わってしまい、言葉も北欧語になり、まったくの異国に入った実感がしてきました。英語も北欧なまりと言うかコフィー オァ ティー?が カフェ オァ チィ?と聞こえるのです。特にチィが最初何だかわからずコーヒーばかり飲んでました。
そしてハンブルグ空港についてからが大失敗の始まりでした。訳のわからない字ばかりの空港で何とか自分の荷物をピックアップし、税関にきたら荷物のトランクを開けろときました。しかたないので空けたところ、中に入れていたデンマークの会社へのプレゼント用に用意した日本で発売したばかりの端末を見て、一方的にまくしたてられました。こちらは何を言われているのかさっぱりで、それはデンマークの友人とディスカッションするための機械だと言ったのですが、全然話が通じず、腕をつかまれて税関の事務所に連れていかれました。そこでまた質問が始まり、僕の会社のことから目的から1時間近く聞かれてしまいました。その時は何かのペーパーがないとこの機械は持ち込みできないと言うことだったのですが僕には何でなのかがさっぱりわからず、この機械の使用目的ばかりを話していたのです。あとでわかったことですが当時電子機器を持ち込むには日本の役所から証明書のようなものを発行してもらう必要があったようなのです。そんなことを知らない僕は苦し紛れに、丁度ドイツのハノーバで開催されていたヨーロッパ最大の電子機器展にうちの会社のメンバーがいるから聞いてくれといったようなことを言いました。そして税関の人も中でなにやら打合せをして、戻ってくると”ナウズ OK”と言いました。僕はやっと解放されると思うと、自然に”サンキューヴェリマッチ”と言って両手で相手の手をつかみ、握手をしてしまったので相手は苦笑したしたような笑顔で”ナイストゥリップ”と送り出してもらったのです。多分あまり言葉のできない日本人が電子機器で密輸ビジネスができるわけないだろうと判断してくれたのでしょう。人種が違っても、言葉は流暢でなくても、きっと表情や動作で人間をわかってもらえることだけが唯一の収穫でした。以後僕はよく税関でトランクを開けさせられます。何か表情にでるんでしょうかね?まぁとにかくこの一件はいまだに忘れることのできない失敗です。ただもうここまで恥をかいたのでやぶれかぶれで、かえって度胸がついたようです。その日は埃だらけのタクシーでハンブルグ駅に行き、ドイツ鉄道に乗ってブレーメンのホテルまで何とかたどり着いたのでした。今回の出張でドイツに寄ったのは”ハノーバメッセ”と言うヨーロッパ最大の電子機器展があったからですが、そのせいか主要都市のホテルはまったくとれなかったためブレーメンのホテルになったのでした。ブレーメンの宿も日本ではとれなくてイギリスの会社を通して取ってもらった宿だったので、宿泊客には東洋人は僕だけでかなり心細いものでした。ただその分異国に来ている実感は十分ありました。ブレーメンの音楽隊像も街角に自然にあるだけなので日本の観光地のように説明用のプラカードがある訳でもなく、すごく自然な田舎町という感じでよかったと思います。ここには4泊したので町中を散歩しました。先日愛ちゃんの世界卓球選手権がブレーメンで開かれ、中継もありましたが愛ちゃんもブレーメンの音楽隊像をみたのかなとあの頃を思い出してしまいました。
今日は長くなってしまいましたが”しんさんのドジドジ行状記”第一回を終わります。この続きはまた来週にします。お付き合いありがとうございました。おやすみなさい。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(68)

2006年05月11日 22時55分28秒 | ビジネス

5月11日(木)曇
今日は曇りですが、今週はこの時期にはめずらしく雨の日が続きます。骨折リハビリ中の僕にとってはあまり調子がよくありません。これから完治しても雨の日とかは古傷がうずくことになるのでしょうか?
僕のビジネスライフ前半戦の最後となる職場の話ですが、36歳になって端末開発のプロジェクトに参加し、しかも過去には何も経験していないと言う不安の中での出発でした。
この開発プロジェクトでの仕事は経験豊富なメンバーが中心となってメーカさん相手に進めていくので僕はサービス・機能の仕様と操作手順の決定のような比較的ソフトウエアで対処できるようなことをやっていました。それでも特許出願だけは結構したように思います。もっとも本体に付属する機器等の特許が主だったので売れない特許ばかりでした。
この頃海外(デンマーク)の同業会社から我々の所に意見交換に来た研究者がいて、僕らが案内したことで、後にデンマークに招待されることになりました。そして上司の計らいでと言うか僕が一番業務に差し障りがなかったせいか、僕が行くことになってしまいました。なにせ海外初体験で英語もろくにしゃべれないのにですから。ただ相手側の人を知っているだけだったのです。当時の海外出張はかなり厳しい基準があったようですが、相手側からの依頼もあったようで、人事育成担当からは、まぁしょうがないけど行って来いと言った感じでした。ここからが大変なのですが、行く前の失敗からドイツ入国時の失敗、コペンハーゲンでの失敗、訪問先での歓迎パーティでの失敗とさんざんな思いで帰ってきたのです。二週間ぶりに日本に帰ってきて、もう二度と行きたくない気持ちでした。従って以後一人で行くことも、商用で行くこともありませんでした。ただ団体で商用と言うより視察に近い出張は何回か行かせていただきました。当時、まだヨーロッパには日本人が行くことは少なかったので旅の恥は掻き捨て的でよかったと思いますが、まぁ日本人の恥と言われてもしょうもない出張でした。今まであまり人前で語ったことないのですが、もう20年前の36歳当時の話なので、少し詳しく話してみます。きっと外国アレルギーの人も僕の失敗を聞けば安心して行けるようになると思いますよ。僕の行状にみなさんは自分よりドジなやつがいるんだと安心するでしょうから。ずいぶん勿体付けてしまいましたが”初めての異国、しんさんのドジドジ行状記”は明日以降の話にさせていただきます。
その前段だけ話すと、実は海外出張直前にTOEICの試験を受けるよう言われたことと受験結果は確か300点ぐらいで、本当は君は基準に達していないので・・・と言われてしまったのです。しかしもう訪問先とTELEXでやりとりしちゃっていることや、招待先への英文レポートもできあがっていたことから許可されたようです。従って帰国後の海外出張報告会も極めてうちはだけの小規模な発表会にしていただきました。まぁ行けたことは僕にとってラッキーだったのかもしれませんが・・・。ではまた明日以降に。


しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(67)

2006年05月10日 21時42分16秒 | ビジネス
5月10日(水)
僕のビジネスライフシリーズも技術屋としての前半が終わりに近づいてまいりました。
始めての名古屋勤務となったこの頃は会社自体の変革期で守旧的な考えと革新的な考えのぶつかり合いの時代でもありました。従来ベースの仕事のあり方を見直して効率的な仕事のしくみにして行くと言うことで、下部機関から上部機関にあげている報告書類の見直しをした時のことでした。不用と思われる報告書をリストアップして本社上部機関に上げたものの中に事故速報の一元化と言った項目いれたのですが、これも本社の怒りを買ってしまいました。我々としては廃止ではなくて社員による工事の事故の速報ルートと請負業者による事故の速報ルートと社員の通勤時等の事故速報のルートと三つの主管窓口があったので統合して一本化すべきだと言う意見だったのですが社員の工事時の事故速報をなくそうと言う意見は何事か?本社の保全部門のトップに部長が説明に来るよう言われ、僕の所から出した意見なので、K部長の同伴で僕が同行しました。故障ばかり出している過去があるため、よけいに上位機関からみれば腹立たしいことだったと思います。K部長からは自分が説明するからあまりよけいなことは言うな。頭を下げればそれで気がすむのだから。それに変革後にはこちらの言ってるようになってしまうのだろうから、あまりつまらない手間をかけるなと釘をさされてました。そして部長はわびを入れながら、一通りの説明をして別の話題に切り替えて終わりにしてしまいました。僕はこの頃単なる正義感のようなものだけで物を見ていたので、(今もあまり変わらないかもしれませんが)K部長にはいつも一杯迷惑をかけていました。ただK部長は肝っ玉のすわった懐の深い方で僕の数少ない尊敬する上司の一人です。僕は技術屋からやがて営業屋に変わるのですがその後もなにかとお世話になった人でした。今も当時迷惑をかけていたメンバーが中心になって年に1回K部長を囲んでGOLFをしていただいています。
2年後事業再編により所属が2ヶ月ばかり変わって、今度は端末機を開発する部署に転勤になります。新入社員時代半年間担当していた端末部門の開発をすることになるのですが、開発自体したことのない人間が一応それなりの立場で実践することになり、またまた不安の中での赴任となったのでした。今から20年前の話です。これからだんだん現在に近づいて来る訳ですがだんだん現在の僕に身近な人の話が出て来るので気を使いながらになると思いますのでよろしくお願いします。この続きはまた。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(66)

2006年05月09日 23時25分46秒 | ビジネス
5月9日(火)
今週はずっと雨が続くようですが、連休中よい天気でみんな遊んだことでしょうから仕事に専念しろと言うことでしょうかね。でも天気商売の仕事の人は大変でしょうね。いざ仕事をと思ったら雨ばかりで仕事ができないとなるのですからね。

ところで昨日の続きですが着任して3ヶ月後の5月・6月の2ヶ月で重大事故・故障がなんと11件も発生してしまったのですから、これも大変なことでした。まず最初にユーザ先の工事でスレートの屋根が抜けて作業者が転落すると言う事故が起こりました。スレートと言うのは工場なんかの屋根によく使われていますが、薄いコンクリートの板のことを言うそうです。古い工場の屋根に登って作業する時はなるべくハリ沿いに歩くのが鉄則なのですがたまたま踏み抜いてしまったようですが、工場の機械類の中に落ちてしまい重症でした。何とか命は助かったのでまだよかったのですが。その直後には名古屋市内の特別仕様の設備の故障が発生し、3日間もストップしてしまいました。初めは東海の技術者で解決できると思っていたのですが、特別仕様の機器のため詳しく知っている人を東京から呼んだり、納入メーカの技術者にも1日目夜から入ってもらい徹夜の解析作業をしているのですが、まったく原因がわからず、僕らは仮眠スペースの確保や食料の差し入れなど行いながら報道発表の原案づくりなどで徹夜してました。2日目の確か夜になって、ほぼ具合の悪いところが判明し、今度は改修作業で1日と3日も徹夜したのは学生時代以来の出来事でした。その後もこんなにひどい故障ではありませんが他の所でいくつかあって最後には新技術の導入工事をしているところで、切替え後に動かなくなってしまうと言う事態が発生し、有無を言わさず切り戻しと言う前代未聞の判断をしたのでした。ずっと続いていたのでこれ以上ユーザに迷惑をかけることは許されず、原因究明などと言った技術屋的発想はこの二ヶ月でまったくなくなっていたかもしれません。

とにかくこの事態を知った社内の人達から、伊勢神宮にお払いに行って来いと言うことになり二見の興玉(おきたま)神社に部長とともに行ったのでした。当時の伊勢の責任者の紹介で、この神社は蛙の神様と言うことで故障が帰るようにとの願いがかなうようにと言うことだったのです。
ついでに伊勢の外宮のそばのうどんやさんで伊勢うどんを生まれて初めて食べました。うまいと評判だと聞いて期待して待っていたところに出て来たうどんには味の濃そうな真っ黒なたまりがちょっとだけあるうどんで食べられそうな感じではありませんでした。しかしK部長のお薦めなので覚悟して食べてみると、意外や意外見た目ほど味は濃くなく結構おいしいではありませんか。僕らはとかく見た目で物事を判断しがちですが、実際に味わってみることの大切さを教えられたようでした。
仕事もしかりで口先だけの言動で判断すると大間違いを犯しやすいものです。普段寡黙な人でも実力を持った人は多いのです。表面だけで人は判断してはいけないですね。

今日の話はここまでです。この職場にいるときに会社の大改革が行われたのですが、働いている人たち全員に落ち着かない雰囲気のあった時でしたからこんな故障等が発生したのではないかと今では思っています。以来職場の組織変更とかで人心不安定な時期ほどリーダーは社員が事業運営に集中できるよう十分配慮すべきだと思ってやってきました。
それではまた明日。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(65)

2006年05月08日 21時35分10秒 | ビジネス

5月8日曇り一時晴
GWもあっという間に終わり今日からまた通勤混雑が始まりました。一週間も悠々気ままな生活をしていたので午後からの眠いこと、資料を読みながら眠ってしまいました。人の気配でハッと気が付くのですが意外と短時間の居眠りなんですね。自分は10分ぐらい寝てしまったかなと思って時計をみても2分もたっていない時間なんですね。意識がなくなっている一瞬でも連続性が切れるので時間の感覚もゼロクリアされてしまうのでしょう。

ところできょうの話は東海管内の設備をメンテナンスする保全部門に配属になったところからです。静岡での災害対策経験とメンバー3人がいっしょだったことから、新しい職場だったけど今までの中で一番気楽に転勤できたように思います。
そんな気持ちの余裕が大抵失敗の元を作るのも人生です。早速歓迎会やらあって飲んだ勢いで、一人でネオン街を歩いて帰る途中で声を掛けられたのが間違いの始まり。一時間3千円、都会はやっぱり競争が激しいから安いんだなあ、それならいいですよ。入ったら女の子に言われるまま飲み物を頼み、オードブルを頼み・・・・一時間後三千円払って帰ろうと請求書をみたら単位が違うのでこれ違うよと言ったら、怖い感じのお兄さんが出てきて、金持ってないんか?家にはあるんか?家に帰ればあるけど何でそんなになるのと言おうにも、女の子の頼んだ飲み物やオードブルはみんな別料金で、しかもめっちゃ高い。もう観念して、今こんなには持っていないからと言うと家まで送ってやるから支払えとなってしまいました。なんと店の横に止めてあった不法駐車のキャデラックに乗せられてしまいました。家に着くと女房にちょっと支払いできなくて取りに来ているからとお金を出してもらいとりあえず怖いお兄さんにかえってもらいました。ただそのあと女房殿にむちゃくちゃ言われてしばらくは口もきいてもらえませんでした。そう言えばこの頃でしたかね、”いつまでたってもダメな私ね”って歌がはやったのは。ほんとにそうでした。
以後僕は街のお姉さんのお誘いには行ってみたい気はあっても、あの時のことを思い出して一人で行ったことがありません。高い授業料を払ったけど、世の中の甘い誘いには裏があると思って対処すること心構えを教えてもらいました。
だから仕事一筋で頑張っていたのですが、なかなかうまくいかないのも人生、このあとこの部門のメンバーには大変なことが待っていたのです。この話はまた明日にしましょう。丁度技術屋稼業も入社以来10年がたったところでした。僕も会社も大きな転換期に来ておりそんなことが背景にはあったような気がしています。
それではまた。


しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(64)

2006年05月07日 19時59分46秒 | ビジネス

5月7日(日)雨
今日は雨だし、丁度運転免許の更新通知が来ていたため更新してきました。混むのがいやなので朝早く家を出て地下鉄とバスで平針の運転免許試験場に行ったのですが、既に受付は長蛇の列で受付を済ませるまでに1時間近く並んでしまいました。それから目の検査、写真撮影と30分ぐらいかけて、あとは一時間の講習を受けて無事更新手続きを終えました。優良運転者だと30分の講習で終わるようですが、僕の場合は時々ヘマをやっているので一般講習でした。前回の講習時には違反運転者講習と一般運転者講習の区別がなかったような気がしましたがどうだったんでしょうか?一昨年の正月に東名高速でスピード違反でつかまってしまったのだけれども、点数が消えていたんですかね。今回の更新で次回は5年後になりました。その時はもう62歳になってしまうんだけど、今の会社もクビになっているだろうし、何やっているんでしょうかね。

さて今日の話は静岡に赴任したあとの話でしたね。このときは会社の機械施設の設計を担当することになっていました。設計の仕事は二度目ですから何をやるのかはわかっていましたが、管理職としての仕事はさっぱりでしたが、労働組合向けの新技術導入資料の作成やら会計監査の説明のようなことが主だったような気がします。丁度東海沖地震が発生する可能性高いと言う発表があった頃でしたので、県内の全機械設備に地震対策工事を実施しろと上位機関から指示があり、2年間通常の新技術導入や更改工事と平行して実施したのとこの頃からデータ伝送装置を企業が導入し始めた時期だったの
で工事命令書の数だけは多分歴代1位だったと思います。一生懸命やった地震対策工事も地震が未だに発生していないので、今はすべて更改されて何もないと思います。それでよかったのですが、当時はもし地震が発生して対策工事がうまくいかなかったらどうなるのかなと心配ばかりしていました。そんな2年目の夏に台風が静岡を直撃し、静岡の山奥の梅が島と言うところが河川の氾濫により孤立してしまい、会社から呼び出しがあり、故障回復に出動するはめになってしまいました。その日は日曜日であったために管理職で復旧作業に現地にヘリコプターで行くと言うことで阿部川の河川敷からヘリコプターに乗って現地に向かいました。最初はヘリコプターに乗れるとよろこんでいたのですが、いざ離陸するとヘリはしりを上げて、前面が地面を這うようにして進みだすではありませんか。一瞬墜落するのかと思いましたが、ヘリではそれが普通のようだと先輩管理者が言ってました。それから雨で視界がほとんどない中をヘリは尾根沿いに進んでいくわけですが、ヘリの下には復旧用資材を積んでいるので、不安定の中で時々急上昇をしながら飛んでいくので、ヘリに中腰で乗っている僕らはその度によろけてみんなとぶつかり合っていました。あとでヘリの操縦士の話では視界が悪いので尾根を見ながらでないと飛べないのだけど、尾根には高圧線が張ってあって下につるした復旧用資材が引っかかりそうになるので急上昇したのだそうです。知らぬが仏で僕らはそんな危険な状態で飛んでいたことなどわからなかったからまだしも、一番怖かったのは操縦士だったかもしれません。現地についてからも普段現場作業をしていない管理者ばかりですからどうなるかと思いましたが、三人寄れば文殊の知恵でなんとかなるものだとつくづく思います。
この年は台風の当たり年で、岐阜県の美濃加茂では施設が水没し、復旧のため更改工事用の物品を被災地に回し、工事を新規に発注した物品が届くまで一時中断したり、納入予定の物品を工場出荷時に被災地に振り向けたりで工事線表はメタメタ、工事業者の調整も復旧優先で災害対策の実践をいやと言うほど積ませていただきました。

そのせいか、2年後には東海管内の施設設備の保全部門に転勤になりました。おもしろいことに当時ヘリコプターに乗った3人が共に保全部門勤務になるのです。この保全部門の6つのポストに移動で3つが災害経験者だったことになります。それが良かったのか悪かったのか着任一年目に、またもや大変な目に会うことになるのです。この三人で伊勢の二見に部長とともにお払いに行かねばならない事態が待っているのですがこの続きはまたにします。
今日は一回目の静岡勤務時代の話でした。一回目は技術者として次は営業として行く事になるのですがそれはまだだいぶあとのことです。次回は初めての名古屋勤務の話です。
それではまた。