今回の金沢行きの一番の目的は「加賀本多博物館」見学だった
博物館、美術館は同じ趣味、価値観がある人と行くか、一人で行くに限る
兼六園の賑やかさに比べて、「本多の森」周辺は人もまばらで落ち着いた空間だった。
本多政重(ほんだまさしげ)
加賀本多家祖。 徳川家康の知恵袋、本多正信の二男
徳川秀忠の家臣を殺して徳川家から出奔流浪の身となり、福島、大谷など全国の大名家を渡り歩く
最期にたどり着いたのが加賀前田家120万石、2代藩主、前田利長のもと
1611年(大坂の陣の3年前)その時には、すでに利長は隠居して3代藩主前田利常の代だったが、利長の口利きで前田家の家老となる
大名の家来でありながら、中堅大名並みの5万石をいただく
それは父の本多正信を通じて徳川家康への太いパイプがあり、徳川将軍家への口利きが容易で、何度も前田家の危機を救ったからだ。
だが、政重はかっては二代将軍秀忠の家臣を殺害して徳川家を去り、1604年=関ヶ原戦の4年後には上杉家の宰相であり軍師の直江兼続の娘を娶り養子になって直江勝吉(「勝」は藩主の上杉景勝から諱名)と名乗ったこともあるが兼続に嫡子が出来て上杉家を後にする。
直江兼続と言えば、徳川家康を挑発して激怒させて上杉征伐を決心させた男
また関ケ原の合戦では石田方の宇喜多秀家の家臣として徳川方を攻撃した。
(敗れた主君の宇喜多秀家は前田家の姫を娶っており、前田家からの嘆願もあり八丈島遠島処分で斬首を免れた、そこで80歳以上まで生きたという)
宇喜多家の重臣だった政重は父正信のおかげなのか罪に問われなかった
さらに家康のお気に入り大名、藤堂高虎が馬が合うのか政重に力を入れてくれたおかげで、家康から前田家に仕官することを許すお墨付きを得ることが出来た。
本多政重の家系は不思議と主家から出奔するのである
父の本多正信と、その弟本多正重(甥の政重と読みが同じ)は三河一向一揆で家康に抵抗して出奔、加賀の一揆に走った
10数年後に許されて徳川家に帰参した、本多正重の息子正氏も徳川家を出奔して、豊臣家に走り、関白秀次の重臣として仕えたが、秀次切腹の時、同じく切腹を命じられて果てている。
政重は異母兄の本多正純とは仲が悪く、父、本多正信の死後には黄金1000枚が絡む金銭トラブルも起きるなど最後まで仲直りできなかった。
正純は将軍暗殺の嫌疑(宇都宮城釣り天井事件)で失脚するが、兄弟として同罪にされそうになった政重をまたも藤堂高虎の奔走で救われる。
藤堂高虎は正純に恨みでもあったのか、失脚した正純を罵ったという。
本多の江戸の本家は政重の息子が継いだ。 加賀の本多家は現在も続いている。
大河ドラマにもなりそうな本多政重の波乱万丈の人生だ。
本多博物館は二度目だった、今回は徳川家康、本多正信、本多正純、本多政重直江兼続、伊達政宗らの書状が展示されていたので、それを読んで回ったため、小さな博物館なのに見るのに1時間かかった。
政重の鎧兜、大槍、刀も展示されていて政重の凄さを垣間見た。
手柄あって更に5万石加増を言われたが辞退したので、代りに「村雨の壺」を拝領された、それも展示されていた
別名「5万石の壺」と言われる。
石川県歴史博物館二棟と合わせて三連になっている
国立工芸館
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