善光寺平周辺の土地を奪われた信濃豪族は越後の上杉政虎を頼ったので「弱きを助け、強きをくじく」がモットーの政虎は
無報酬、見返り不要の正義感だけで引き受けた
これまた戦に負けたことがないという越後軍団を率いて、ついに信州川中島で武田勢と睨み合った
さすがの武田信玄も上杉政虎が醸し出す神的なオーラと、無言無表情、一糸乱れぬ統一された越後神兵の前にうかつに動けなくなった。
戦国最強と自他ともに認める甲斐の武田軍団、だが初めて見る越後の上杉軍団には今までの敵とは全く違う怖さを感じる、不気味なのだ
信玄より10歳くらいは若いのか、信玄は初めて手ごたえがあるライバルを見て嬉しく思った。
あれほどイケイケの武田騎馬軍団が越後軍を前に一歩も前に進まない
そんな戦いが5年の間に三度あった、千曲川を挟んで睨み合っては互いに兵を引いた
ところが4回目の会戦は違った、決着をつけたい上杉政虎はなんと千曲川を渡って武田方の陣の奥深く入り三百数十mの妻女山に陣取ってしまった
今までは千曲川(犀川)を挟んで一か月も睨み合うだけだったが、今回は西の茶臼山に信玄本隊、東に武田の海津城、その真ん中を上杉軍は悠々と通って
自ら袋のネズミになったのだ、武田軍はあっけにとられた、こんな敵を見たことがない、よほど自信がなければできない芸当だ
「なにか政虎は企んでいる」疑心暗鬼になった。またしても武田軍は攻めることができなくなってしまった
信玄は茶臼山を下りて海津城に入った
しかし一か月もそんな状況が続いて逆に武田信玄が我慢できなくなった
政虎は悠々と琵琶などを弾いて詩吟をうなったりで動く気配がないという
これでは本国から遠く離れた甲州勢が不利だ、しびれを切らした信玄自ら千曲川を渡り、八幡原に本陣8000を移した、政虎を川中島におびき出すおとりになったのだ
政虎、信玄たがいに危地に自ら入ったこと自体、今度の会戦で雌雄を決しようという気持ちが表れている。
ついに霧の夜、数に勝る武田軍は(上杉12000、武田20000といわれている)動いた、海津城から12000の別動隊が裏山に入り妻女山の上杉軍を追い落として川中島の本隊8000と挟み撃ちにする作戦
しかし天才上杉政虎はその作戦を見破って先手を打った
武田別動隊が妻女山に着く前に深夜、霧に紛れて山を下り、早朝4時すぎ川中島にいる武田信玄の本隊に襲い掛かった
今度は上杉8000対武田8000の本隊同士の五分の戦いになった、しかし急襲した越後勢が断然有利で信玄本陣の前備えの各部隊は打ち破られ、陣形が破綻していった
武田信玄の弟、典厩(てんきゅう)信繁、軍師山本勘助、歴戦の大将諸角豊後、初鹿野伝右衛門が討ち取られた
信玄の嫡男義信も負傷した。 信玄本陣も危うくなった。
信玄は本陣をじりじりと後退させて海津城を背に戦おうとしたが、上杉軍は先に広瀬の渡しを抑えて海津城との連絡を絶った
そして千曲川を背にして車懸かりの戦術で攻め立てたために、信玄旗本隊は北國街道に沿って雨宮の渡しへと南西に向かうしかなかった
ところが雨宮の渡しも上杉の甘粕近江守が信玄の別動隊に備えて抑えている
ついに茶臼山下の御幣川(篠ノ井)まで追い詰められて万事休すとなった
しかし妻女山に向かった別動隊12000がようやく戻ってきて
広瀬と雨宮の中間の浅瀬を探して渡り、背後から上杉軍に突入したから、
今度は上杉軍が背後からの新手、前には信玄本陣という挟み撃ちになってしまった
形勢は逆転した、上杉軍は混乱して北國街道を犀川の味方陣地まで逃げ帰ったが、途中で多くの兵が討ち死にした、信繁の首級も味方が取り返した
謙信は僅かな旗本を引き連れて正面の信玄の本陣に突っ込んだ、そして信玄らしき大将を認めると、馬上から三太刀振り下ろすと手ごたえがあった
しかし敵の長槍が一斉に繰り出されたので、急いでそこを離れ、再び八幡原の北を抜けて犀川へ逃れた
ここには上杉の予備隊5000が駐屯しているのでここまでくれば安全である
これが有名な第四次川中島の決戦である、双方合わせて1万人の死傷者が出た激しい戦いであった
勝敗は引き分けと言うことになっている、前半は上杉、後半は武田の勝ち
武田は上杉を追い返して川中島の占領を安定させたから勝ち、
上杉は武田信玄の弟はじめ大将を3人も討ち取ったから勝ちとしている。
相撲風に言えば上杉は「戦に勝って、勝負に負けた」といえよう。
互いに大損害を被ったが半年後にはどちらも回復してまた戦を始めているから、この二強こそが薩摩の島津を入れて当時の日本最強だと思える
だから最強の東西横綱同士の武田と上杉が11年間も田舎で戦争を繰り返していたことは織田や松平には幸いしたのである。
もともと上杉政虎は他国侵略の野望はなく、彼の戦争の大部分は頼ってきたものを助ける「聖戦」だったのだ。
一方、武田信玄の領土拡大欲は誰にでもわかるほど露骨である
そんな信玄を謙信は信濃の片田舎に11年も釘づけにしたのだから織田信長や秀吉、家康にとってはまさにありがたやの神様以上である。
もし信玄が政虎との決戦を避けて北信濃をあきらめ、松本平から木曽方面を目指せば10年早く三河に到達したかもしれない
そうすれば信長、秀吉、家康らの未来は、日本の歴史はかわり江戸時代もなかったかもしれない。
素晴らしいです。
小学生以来およそ60年間好きだった戦国史がいつの間にか頭の中にたまったんでしょうね
おかげで引き出し満タンで他のことは全くダメ人間です。
コメントありがとうございます。