16.3 火、鉄、蒸気機関、内燃機関、タービン、電気(その2)
紀元前1300年頃ヒッタイト文明で発明さてた鉄の熔錬法が、ユーラシア、中国、百済を経由して、1800年の時を経て、6世紀に日本にも到達した。
その鉄が、カマや鋤き、オノや鋸へとその用途を拡大することによって、食料生産と建築物の規模と質を向上させた。人力以外の動力で最初に登場するのは、紀元前2千年には、馬が登場するが権力の象徴であり、農耕などに普及するには多くの時間を必要とした。
次に動力として登場するのは、中世ヨーロッパに於いて、水車が製粉の動力として、利用された。熱エネルギーを動力として利用するには、自然科学に於いて、大気圧、温度、圧力、エネルギーについての知見が深まった、18世紀まで待たなければならなかった。
18世紀の後半まで、工業用機械の主な材料は木材であり、金属の使用は軸受部とか切削刀とかどうしても必要な部分に限られていた。金属はまだ非常に高価であった。
イギリスの鉄の生産の規模は、森林の大きさに制約され、18世紀のはじめには木材価格は、騰貴し、イギリスの製鉄業は滅亡に運命づけられていると考えられた。
そこで石炭が木炭の可能な代替物であることは、早くから考えられており、事実、16世紀にはすでに多くの工業で木材のかわりに石炭を使っていた。しかし、鉄の熔錬に石炭を使うことは、他の工業の場合よりはるかに困難な問題であった。1610年代には多くの特許や試みもなされたが、いずれも失敗に終わった。
1717年アブラハム・ダービーが、石炭をあらかじめコークスとして、使用することによって成功した。これによって鉄の生産量は、飛躍的に増大した。しかし、これらはすべて銑鉄に関したことで、炭素の含有率が高いため、もろく多くの用途に不適当であった。
可鍛鉄の大規模生産は1787年コートの発明によって可能になった。反射炉でパドル法を完成した。石炭の炎だけを鉄と接触させて、炭素含有量を下げ可鍛鉄の大量生産を可能にした。これによって材料である鉄による蒸気エンジンへの道が開けた。
最初は、ニューコメンによって、炭鉱の揚水のために、揚水ポンプのレバーを引き上げる時、水蒸気を満たしたシリンダーに水を入れ、真空になる時、大気圧の力でレバーを引く蒸気を利用した大気圧機関であった。
1763年にワットは、ニューコメン機関の模型の修理を頼まれ、その効率の悪さに気がついた。しかしそれをなくす問題は非常に困難であったので、彼が解決の糸口をつかんだのは、思索に思索をかさね科学者たちとの相談と自分自身の実験を繰り返した後の1765年のことであった。
ニューコメン機関の非能率の主な原因は、蒸気の凝結をシリンダーの中で行うことにあった。つまり、シリンダーが一行程ごとに冷やされるためであった。それゆえに、シリンダーをスチーム・ジャケットで包んで、凝結は、常に冷たいままに保たれる分離凝結器の中で行い、シリンダーを冷やすときは、分離凝結器とのバルブを開く事で行なった。
ワットは次に蒸気圧を利用して、直接ピストンのストロークに利用する高圧複式蒸気エンジンを開発し、往復運動から回転運動に変換する”平行運動機構”、エンジンのインジケーター(指圧計)を発明し、エンジンの出力単位の「馬力」を定義し、遠心ガバナーによる最初の自動制御を考案した。そしてこれらは、炭鉱、銅山、紡績工場で使用されるに至った。
しかしながら、ワットの機関は大気圧をいくらも出ぬ圧力で動き、根本的にはまだ大気圧機関の域を脱してなかった。高圧で動く近代的な機械への移行は19世紀終わりころの鉄鋼技術の改善に依存していた。蒸気機関の進むべき道は、エヴァンスの高圧ボイラーとワットの真空凝縮器を併用し、安全弁により爆発事故を防ぎながら、高圧に耐える鋼鉄の開発であった。(人類と機械の歴史 S.リリー)
石炭を使用した蒸気機関は、紡績工業、スクリューと蒸気機関と結合して、船舶、軍艦に、レールと蒸気機関と結合して、鉄道へと発展し、熱エネルギーを運動エネルギーに変換するエントロピー逆走エンジンの幕開けであった。(第28回)
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