およそ3年ほど前のこと。
地元の新聞に、とあるオーディオ・マニアの写真がご自宅の高級装置とともに大きく掲載されていて「素晴らしい音です。どうか興味のある方は聴きにいらっしゃい」と、随分自信ありげだったのでいそいそと出かけて行ったことがある。
お年の頃は70歳前後の方だったが、高価な機器をいくつも購入して部屋にポンと置いただけで「いい音が出る」と錯覚しているタイプで、それは、それは「ひどい音」だった。
したがって、オーディオの方はサッパリだったが、音楽への造詣はなかなかのもので「結局、クラシック音楽はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの3人に尽きます。」という言葉が強く印象に残った。
まあ極論になるのだろうが、「当たらずといえども遠からず」。
(以下、音楽論になるが各人の感性に左右される話なので、それぞれ見解の相違があると思う。したがってあくまでも「私見」ということでまずお断り~。)
クラシック音楽を一つの山にたとえるとすると、この3人をマスターすればおよそ7合目までくらいは登攀したことになろう。
個人的にはそのうちバッハについてはイマイチのレベルで、せいぜいグレン・グールド(ピアニスト)を介して、「イギリス組曲」「ゴールドベルク変奏曲」を聴くくらい。
「マタイ受難曲」「ロ短調ミサ」にはとても程遠い。
しかし、モーツァルトとベートーヴェンは結構、イイ線をいってる積もり。
モーツァルトはピアノ・ソナタ、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲などに珠玉の作品があるが、やはり最後はオペラにトドメをさす。
結局「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」で彼の音楽は完結する。
ベートーヴェンでは交響曲の2~3つ、ピアノ・ソナタの最後の3曲(30番~32番)と後期の弦楽四重奏曲群があれば充分。
この二人の試聴期間を振り返ってみると好きになった年代がはっきり区分されていて、20代の頃はベートーヴェン一辺倒だったが、30代後半からモーツァルトが良くなってきてそれがず~っと今日まで続いている。
ベートーヴェンの音楽は今でも好きだが、年代が経るにつれて押し付けがましいものを感じてやや敬遠しているところ。
その点「モーツァルトの音楽は自由度が高く飛翔ともいうべきもので、ある程度人生経験を積まないとその本当の良さが分からない」、まあこれは自分だけの考えだろうと、ずっと胸に秘めてきた。
ところが、最近、丸谷才一氏の「星のあひびき」(2010.12)を読んでいたらふとこのことを思い起こす羽目になってしまった。
該当箇所を要約してみると。
20世紀は「戦争と革命の世紀」だといわれるほど、むごたらしい殺戮の世紀であった。これに関連する死者数は何と1億8千7百万人にものぼる。
こういう血まなぐさい百年間でもほんの少し功績はあった。
ピーター・ゲイという著名な歴史学者はこんなことを言っている。
「暗澹たる20世紀が誇りうるほんの僅かの事柄の一つが、モーツァルトの音楽をそれにふさわしい栄光の位置に押し上げたということである」。
モーツァルトの音楽が脚光を浴びることが20世紀の誇りうる事柄の一つとは、彼のファンの一人として素直にうれしくなるが、ちょっと「大げさだなあ~」という気がしないでもない。
そもそも「戦争」や「革命」と同列に論じられるほどクラシック音楽が重要だとは到底思えない~。
それはさておき、問題はモーツァルトの音楽が20世紀に入って見直されたという事実。
本書によると19世紀は道学的、倫理的な時代であり、モーツァルトのオペラは露骨な好色趣味のせいで軽薄、淫蕩的とされ、ベートーヴェンの方が圧倒的な人気を博していたという。
たしかにモーツァルトの「フィガロの結婚」は召使の結婚に初夜権を行使したがる領主を風刺した内容だし、「ドン・ジョバンニ」は主人公が好色の限りを尽くして次から次に女性に言い寄るストーリー。
モーツァルトも「女性大好き」人間だったので、まるで自分が主人公になったかのような迫真の音楽。
人間の本性を包み隠さずにさらけ出す彼の音楽が露悪趣味のように受け止められてしまい、19世紀という時代に合わなかったというのも何だか頷けるような気がする。
しかし、20世紀に入ると19世紀への反動が出てきて、〔人間性の解放という観点から)文学、絵画、音楽への新たな発見、見直しが行われたという。
モーツァルトは1791年に35歳で亡くなったが、彼の音楽は死後、ずっと現在と同じくらい人気があったものと思ってきたのでこの話はちょっと意外に感じた。
モーツァルトの音楽に何を感じるか、人それぞれだが「露悪趣味」から「人間讃歌」まで、時代の流れや人間的な成長とともに受け止め方が変わっていくのが面白い。
とにかく、軽そうに見えて実はいろんな「顔」が隠されていて、聴けば聴くほどとても一筋縄ではいかない音楽であることはたしかである。