前回からの続きです。
「音楽&オーディオ」愛好家のNさん宅のオーディオシステムを、スピーカー、レコードプレイヤー、アンプに続いて他の機器を紹介しよう。
マーク・レヴィンンソンのDAコンバーターとCDトランスポートが2台あって、それぞれ「バークレー」(アメリカ)と「カリスタ」(フランス)というはじめて聞く名前。
ぶしつけを覚悟でお値段をお伺いすると「バークレーは定価300万円のところを200万で手に入れました。いい製品を作るメーカーは採算を度外視するせいでしょうか、すぐに行き詰まりますがバークレーもその例に漏れず今ではもう存在しません。」
これらの超豪華なシステムに毎日かしずかれて「タンノイ・オートグラフ」さんもさぞや幸せなことでしょう(笑)。
オートグラフといえば、日本における普及の先達的な役割を果した「五味康祐」さん(作家、故人)を忘れるわけにはいかない。
「わがタンノイ・オートグラフ論」の冒頭の一節に次のような個所がある。
「レコードで音楽を聴く場合、装置の鳴り方いかんで演奏者の芸術を変えてしまうことがしばしばある。レコードを鳴らすための装置はあくまで物理的・電気的に音を出しているわけだが、その中に物理的な歪よりもっと怖い芸術を変質させる歪を出す例が多いのを私は体験で知ってきた。
とりわけそれがスピーカーに多いことも。芸術を変質させる歪は、現在のところどんな優秀な測定器をもってしても測れない。測れるのは芸術的感性と耳を持つ人間だけだ。真にすぐれたオーディオ機器が理論や測定技術を超える所以がここにある。~中略~
恐ろしいこの歪の存在を知ってから、私はタンノイというスピーカーを離せなくなった。タンノイは聴く人を音楽的環境へ即座に連れていってくれる。」
とまあ、そういうわけでオートグラフの愛好家に対して「芸術的感性と耳」を必ずしも持っているとは言えない自分がオーディオ的に「音が云々」と論評するのは僭越至極というものだろう。
レコードからCDまで、そしてクラシックから美空ひばりまでいろんな曲目を聴かせてもらった。以前、このブログでも紹介したことがあるアルゼンチンの名花「ヒナマリア・イダルゴ」は今回同伴してもらったKさんの大好きな歌手だが、Nさんも同様とのことでCDどころかレコードまで収集しておられ大いに話が弾んだ。
そのうち、やおらKさんが大切そうに持参のCDを取り出された。「リパッティのショパン・ワルツ集を聴いているといつも胸が切なくなります、ぜひこれをかけてくれませんか」。
3人とも無言のまま、ただひたすら音楽に聴き耽った。
周波数レンジ、分解能、奥行き感、セパレーション、力感などオーディオ的な言葉がまったく浮かんでこない世界・・・・。
Nさん宅の音は時間の経過をいつのまにか忘れさせてしまう魔力を秘めているようで、気が付いてみるとあっという間に3時間ほどが経過していた。
夕食時にかかってご迷惑をおかけすると申し訳ないので、非常に名残惜しいが辞去することにした。Kさん宅とはクルマでおよそ20分ぐらいの距離だから、これからもちょくちょく押しかけさせてもらうことにしよう。
とかくオーディオ的な耳に偏りがちなところを音楽的な耳に戻してくれる「振り子」のような役割をきっと果してくれるに違いない。
あたり前のことだが「オーディオは音楽を聴く道具に過ぎないのだから手段と目的をはき違えないように」を再認識させてくれた「Nさん宅の音」だった。
Kさん宅経由で自宅に到着したのは夕方の5時半頃で、早くも秋の夕闇が色濃く漂いはじめていた。別府の温泉街をはるか見渡しながらふと一句浮かんだ。
「心なき 身にも哀れは 知られけり 湯煙昇(のぼ)る 秋の夕暮」
西行法師の歌をちょっともじってみました(笑)。