苦し紛れに「だが」「ただ」を乱用
2022年5月24日
社説の読者は減っていても、新聞社の考え方を知るのに役立ちます。日米首脳会談を扱った各紙(24日)を読み比べると、「朝日新聞がまたやっている」と改めて感じました。悪文が多いのです。
今回に限らず、朝日の社説には「だが」、「ただ」がしばしば登場します。首脳会談の場合、一応その意義を評価する文章を書いておき、すぐその後に「だが」「ただ」「しかし」などと続け、せっかくの意義を否定してしまうのです。
「日米首脳会談、対中、力に傾斜の危うさ」という見出しの社説も、朝日スタイルの典型的なケースです。下の段の社説「米の拡大抑止、核戦争のリスク直視を」では、「べきだ」「べきだった」がなんと6回も使われ、なんとも息苦しい。教えを垂れている感じです。これも朝日スタイルの典型です。
最初の「力に傾斜の危うさ」の書き出しは「中国の対外政策が地域に緊張をもたらしているのは紛れもない」と、まっとうな指摘です。
その後がいけません。「だが、力による対峙を強め、相互依存関係の切り離しを進めるだけでは、平和と安定は保てない。日本は米国の前のめりの姿勢を抑え、中国との共存の道を探れ」と、首脳会談の意義を否定する。
さらに「米国がアジアの秩序の維持にも積極的に関与しようという姿勢自体は評価できる」と書いて米国を評価しながら、この場合もすぐその後に「ただ、危うさを禁じ得ない」と、「ただ」の登場です。
バイデン大統領が会見で、「中国が台湾に侵攻した場合、軍事的に防衛に関与するのかと問われ、二度にわたって肯定した。この言明は従来の方針(あいまい戦略)を転換したと受け取られて当然だ」と、バイデン発言の意義を否定するのです。
発言は「失言」だったとの解説もあるしても、日経新聞のように「台湾海峡の平和と安定の重要性を確認した」と受け取るのが正解だと思います。「言い過ぎ」の振りをして本音を語り、中国をけん制したのでしょうか。
朝日の社説は「本末転倒」してみると、正しい見方になること多い。「米国のアジア関与には危うさもある」と書き出してから、「ただ、米国のアジアへの関与は評価できる」と、「本末を転倒」すればいい。
朝日の社説で「ただ」「だが」「しかし」という表現が登場したら、前段と後段の順序を変えてみる。つまり「本末転倒」してみる、「本末を入れかえてみる」と、納得がいくことが多いのです。
次は「べきだ」の乱用です。下段の社説では、「欧州の戦争により、核の脅威が高まっている。この危うさを脱する道は核の競争ではなく、廃絶しかないと知るべきだ」と、いきなり「べきだ」で始まります。核廃絶を目指しながら、現時点での危機に対応する戦略が必要なのです。
さらに「核の役割低減と軍縮を実現する決意をもっと強く打ち出すべきだった」と、これも「べきだった」です。外交は言葉のゲームですし、北朝鮮のように核ミサイル実験を繰り返している現状では、相手国がつけあがらないようなレトリックが必要な時もあります。
ほかにも、「日本は廃絶を導くルールづくりに参画すべきだ」、「ロシアの暴走からくみ取るべきは、核抑止に頼る安全保障の脆弱さだろう」と。「べき調」がこの一本の社説(75行)に6回です。恐らく、核問題を専門にしている論説委員が説教調に書いたのでしょう。
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