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IMジェイエスピー社員が綴る日替わりブログ

日本のインドネシアへの貢献

2012-11-23 14:08:13 | 日記
日本人はかつて世界の人々を驚嘆させる気高い精神を持っていました。長い歴史の中で先人が営々と積み重 ねてきた世界一の精神文明の国が日本でした。 私利私欲、自分たちの利害より何よりも公を優先し、国や社会のために尽くすーこれが日本人の心でした。 先人たちは大和心を燃えたぎらせ、過去の幾多の苦難を凛としてはね返してきました。

大東亜戦争では、欧米の国々に虐げられていたアジアの人々を救うために多くの日本人が戦いました。日本軍が、オランダ領東インドと呼ばれ、オランダの植民地だったインドネシアのジャワ島に上陸したのは、1942年の初めでした。日本軍は現地の人々に自分たちはあなたたちをオランダのひどい統治から救うために来たのだとの意思を伝えるために、独立インドネシアの国旗、「メラ・プチ (インドネシアの紅白)」の旗をいたるところに掲げ、 独立インドネシアの国歌「インドネシア・ラヤ」をラジオで流し、宣言しました。「日本軍は征服者オランダを追い出し、インドネシアの独立を助けるために来た」と。三百五十年もの間、オランダのなすがまま、差別され苦しめられていたジャワの人々は喜び、日本軍に協力しました。その結果、日本軍はたったの九日間でオランダ軍を追い出します。 このとき、日本軍の今村均司令官は現地の人々に向けて、「日本人とインドネシア人は同じ根もとから発生した同族で、日本軍はインドネシアとの共存共栄をはかる。同一家族主義、同胞主義にのっとって軍政を実施する」と発表しました。これは支配するか支配されるかで三世紀もの間虐げられてきた、現地の人々にとっては天地がひっくりかえるほどの驚きでした。日本軍の柳川宗成中尉がオランダ軍の司令部があった バンドンにひとりで潜入し、オランダ軍の指揮をとるテルボールテン中将に降伏をうながすという密命を受けたときのことです。柳川中尉はオランダ軍の目をごまかすために現地人に変装して、ふたりの通訳とともに、見つからないよう夜中に道なき道を進みながらバンドンを目指しました。 柳川中尉がバンドンに着いたのは、日本人が上陸して から七日目の夜。中尉はオランダ司令部に乗り込み、寝ていたテルボールテンを叩き起こして迫りました。 「日本軍は既にバンドンを三方から取り囲んでいる。 あなたの部下や兵を傷つけないためにも、一刻も早く降伏願いたい」 九日目にはオランダ軍は降伏しました。 インドネシアの人々はオランダの植民地下であった三百五十年の間に何度も抵抗して、独立を勝ち取ろうと しました。しかし、そのたびに敗北を喫し、深い無力感を味わっていました。自分たちと同じ有人種の日本 軍があの強い白人のオランダ軍を九日間で敗った。これは現地の人たちの大きな自信になりました。

インドネシアを解放した日本軍は、次に独立をうながすため、青年たちの教育と訓練に取りかかります。 柳川中尉以下、土屋競中尉、六川正美中尉らが教官をつとめました。柳川中尉は教え子たちを常にこう励ましていました。 「独立は自らの力で勝ち取るものであり、与えられるものではない。諸君にその力が備わったとき、自ずと独立は成る。要は諸君の努力次第だ。私たちも教育に全力を尽くす。私らに負けるようでは独立はできないぞ」 五十人の青年たちは「サンパイ・マティ(死ぬまでやろう)」を合い言葉にがんばり、半年後には、彼らがリーダーとなって、祖国防衛義勇軍(PETA)が結成されます。PETAはやがて三万八千人の将兵を養成し、独立軍の主力となり、インドネシア国軍の母体となりました。 戦う力がついただけでは独立はできません。国を運営する人や産業を盛んにできる能力を育てる必要があります。オランダは、インドネシアを植民地にしていた 三百五十年の間、現地の人々にはほとんど教育を行なってきませんでした。 教育を受けたのは、三百五十年でたったの数千人です。インドネシアにはいろいろな民族が地域に住んでいて、言葉も異なります。しかし、共通の言葉もつくろうとしませんでした。 なぜ、教育をしなかったのか。現地の人たちが知恵をつけて、自分たちに刃向かってくることを恐れたからです。共通語をつくらなかったのも、団結して抵抗されることを恐れたからでした。 つまりオランダは、現地の人々を奴隷以下の労働力とみなし、文盲対策をとり、搾り取るだけ搾りとったのでした。 このため、根本からさまざまな人材を育成する必要がありました。日本は小中学校をはじめ、官吏学校、医科大学、農家大学、水産学校など各種専門学校をつくり、十万人の人々を育てました。 そして、日本政府は1945年9月7日をめどに、インドネシアの独立を約束しました。しかしインドネシアの 独立は叶いませんでした。その前に日本が戦争に負けたからです。日本軍が去った後、インドネシアは再びオランダに占拠されてしまいました。 インドネシアの独立を願っていた現地の日本人は嘆き悲しみました。そして多くの人が日本政府の帰国命令を無視して、現地に残り、インドネシアの独立のために現地の人と共に戦おうと決意します。軍人は部隊から脱走してまで・・・ 「われわれはインドネシアの人々に独立を約束し、励ましてきた。敗戦・降伏したからといって、アジアの人々の解放をいまだ成し遂げられないのに、おめおめと祖国・日本に帰られようか。日本軍人として動けば、国家に迷惑をかける。日本国籍から脱してでも戦う」 これが日本兵たちの心情でした。 インドネシア国軍に合流した日本兵士の数、スマトラ 島五百人、ジャワ島三百人。民間人の勇士を加えると、その数二千人近くにのぼるといわれています。うち四百人が独立戦争で戦死しました。 生き残った日本人の中には、インドネシア独立後も、 彼の地にとどまり帰化して、現地の人々と独立国の礎を共に築いた人も少なくありません。こうした日本人は現地では「ジャビンドウ」と呼ばれ、たいそう尊敬を集めています。 インドネシアの独立広場には独立記念塔が建っていま す。この中に収められている独立宣言書の日付は西暦ではなく、「皇紀」といって、戦前、日本が使っていた暦の日付が記されています。本国の命令を破ってまで、自分たちと共に戦った日本の兵士たちへの敬意を込めて、独立したインドネシアのアフマド・スカルノ初代大統領は独立宣言書の日付を皇紀で記したのです。 1957年、来日したインドネシアのブン・トモ情報・ 宣伝相は、日本政府の要人に感謝を込めていいました。 「そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。そして実はわれわれの力でやりたかった。それなのに日本だけに任せ、少ししかお手伝いできず、まことに申し訳なかった」

どんなに相手が強くても、まちがっていることはまちがっている。やめさせようとして、たとえ命がなく なってもアジアを解放するためには戦わなくてはなら ないというのが日本人の心意気でした。このように凛とした精神に貫かれていたのです。

インドネシアは親日国というのは存じていましたが、 その背景に先人たちのインドネシアへの貢献があった からなのですね。この日本の武士道精神をこれからも引き継いでいき、日本人としての誇りを忘れずに持ち続けていきたいと思いました。(横)

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洗濯機

2012-11-22 09:26:35 | 日記
 これまで雨の中でゴルフをした経験は2度。1度目はあまりの大雨でゴルフ場が水深20センチメートルほどまで水没してしまったので、ボートで救出してもらうハメになる前に打ち切ってゴルフ場から脱出した。2度目はつい最近。寒くなって厚着をしていて雨だったので、濡れた洗い物がごっそり出た。わが家の息子も、その日雨の中でお祭り騒ぎをしていたようで、翌日朝には洗い物を入れるカゴはモサッと積まれた洗い物で一杯になっていた。
 
 洗濯をするのは誰か。もちろん洗濯機である。だが日曜日に限って言えば、洗濯機に洗濯をさせ、洗い終わった物を物干し竿に吊るして回る担当者は、ほかならぬこの私である。そのモサッとしたちょうどその日の担当者が、私であった。
 洗い物が多すぎた、のかもしれないし、洗濯機に対する私の愛情が足らなかったのかもしれない。最近乾燥機能が故障して洗濯機能だけを使い続けていた洗濯機が「すすぎ」工程に入ってピタリと止まってしまったのである。確かに古い洗濯機ではある。だがまだ10年使っているわけでもない。あれこれ試したが時間ばかりが過ぎて再開しない。ちょうど営業オンラインシステムがダウンした時のCEOの心境だ。このいい天気がいつまで続くかわからない。え~い、システム(洗濯機)の復旧は後回しにして、続きは手洗いだ、と英断をしてしまったのである。決断は格好がいいが、手作業を強いられる従業員にしてみればいい迷惑でしかない。
 
 わが家の場合、手作業を強いられた従業員は、決断した当の本人である。少し前まではタライが風呂場にかけてあったが、今はそれもない。そこで風呂桶を洗い、洗濯機にごっそり入っている洗濯物を風呂桶に移して人間洗濯機として活躍することにした。すでに最も重要な洗濯自体は機械がやってくれていると信じ、シャワーでジャブジャブ水をかけて「すすぎ」を行い、グリグリ絞って脱水すれば終了である。
 
 わが家の洗濯機の場合、洗濯開始から脱水して洗濯終了するまでの時間は標準コースで42分である。人間洗濯機の場合、「すすぎ」から脱水終了まで、途中でお茶を飲んで休憩した時間は除いて、50分である。しかも脱水は、洗濯機の脱水後と比べるとお話にならない。服を着たままプールから上がった人が寒くなる前に着替えなければと脱ぎ捨てた服の濡れ加減と大差ない。ビショビショである。濡れた洗濯物は重く、絞るのには相当の力がいる。その上、グリグリ絞るのをはばかられる服も多い。遠心力を使って水を絞る洗濯機はものすごい発明品だと改めて感じ入った次第である。
 
 洗濯を終え、秋の好天の元にビショビショの洗濯物を干すと、お天道様の威力は人知をはるかに超えて偉大であることを示すかのごとく湯気を上げてみるみる乾いていく。その後、洗濯機をいじり倒してみたところ、原因ははっきりしないものの何とか動くように復活した。しかし、原因が定かで無いのは気が気でない上に、私は、おそらくその日、風邪をこじらせていた。そのために我慢する、という気持ちがどこか壊れていたのだと思う。電気屋に走って、立っていた説明員にクドクドとわが家の惨状というか私の惨状を語り、いきなり新しい洗濯機を購入してしまった。洗濯機がどれだけ生活の根幹に必要な電気製品であるか、今回身をもって理解したからでもある。
 洗濯機が無く自分で洗濯しなければならないとなったら、ほとんど1日が洗濯しっぱなしで終わってしまう。
 
 ハンス・ロスリングがTEDの中で、産業革命の最も偉大な発明は洗濯機だと言っているが、間違っていない。洗濯機が働いてくれることによって手に入れられる時間は宝物だ。

TED ハンス・ロスリングと魔法の洗濯機

(三)

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良い言葉

2012-11-21 10:45:14 | 日記
 先日ある社員と話をしていてビジネスブログといいながらビジネスに関係ない話題が多いねという話になったので少し仕事にかかわる内容で今回は書いてみようと思います。

 弊社は人材育成に力を入れている会社です。(だと思っています。)
 新入社員の研修はもちろんですが、最近は中長期的な目標を定めての人材育成研修もスタートしました。

 私自身は今年の4月に入社して環境が変わっただけでなく、行っている業務に関しても初めて経験するものもあり日々予習、勉強しながら結果を残せるように業務を行っています。

 そんな私ですが会社の研修だけでなく出勤時間が長いこともあり、本を読んでの自己啓発も行っています。
 色々な自己啓発本があるので参考になる本もあれば、全く持って同意できない、参考にならないと思ってしまう本もあります。

 私自身そういう本の中でも過去の経験について語っている本に関しては実際にその人がやってきたことやその結果どうなったかが書いてあるので批判しようがなく参考になるものが多いと思っています。
 もちろん時代が違うとかということもありますが、時代が変わってもそういう成功者の方の体験談は非常に参考になります。

 話の方向性がいまいちな感じのブログになってきましたが今回のブログで伝えたかったのはある本に載っていた「伸びる人材の共通点」という内容についてを伝えたかったというのが正直なところです。
 高畠導宏さんという打撃コーチの方で落合、イチロー、小久保、田口という一流のバッターに育てたコーチです。
 その高畠さんがあげていた7つの項目が以下になります。

 1.素直であること

 2.好奇心旺盛であること

 3.忍耐力があり、あきらめないこと

 4.準備をおこたらないこと

 5.几帳面であること

 6.気配りができること

 7.夢を持ち、目標を高く設定することができること

 私自身何度か転職をしておりいくつかの職種を経験しているのですがこの打撃コーチの言葉にはとても共感してしまいました。
 もちろん今のうちの会社の技術者、営業かかわらずあてはまると私は思っています。
 自分自身がこの7項目について今後も意識していくのはもちろん、他の社員にもこのような項目を伝えたり過去の成功者の方の体験談や自分自身の体験談など、どんどん良い影響で広げていけるようにしなければなと思う今日この頃です。

 さて展示会頑張ります。(の)

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衝動鑑賞

2012-11-20 10:41:58 | 日記
土曜の朝。
TBSの某情報番組を見ながら朝食をとるのが日課である私は、その日も変わらずそうしていた。
日課と言いながら、最近忙しくてそれができていなかったので、久しぶりな感覚であった。
その久しぶりな感覚は、何かいつもと違う感情をふつふつと沸かせているようだった。

そして私の好きな映画コーナーに入ったところで、それは吹き出したのだ。

「映画を観に行こう。」


一人カラオケ、一人ランチと、一人××をする女子が増えている。
私もその一人であり、ブームになる前からよくしていた。
ただ、一人映画鑑賞をしたことはなかった。
映画は好きだが、借りて家で観る派、またはテレビでやるのを待っている派だった。
しかしそれだと、見逃したり、レンタル開始になったころには観る気が失せてきて結局観ないままになる、といったことがよくあった。
今回どうしても観たい映画があったので、ストレスが溜まると女子のよくやる衝動買いならぬ、衝動鑑賞をすることにした。

向かったのはラゾーナ川崎。
電車で15分ほどで川崎に出れるので、私としては近い方だ。
土曜昼過ぎの映画館といったら、カップルや友人同士が多いと思いきや、一人派も少なくはなかった。カラオケやランチに比べたらハードルは低いのだろう。
一人××に慣れている私は、何の躊躇もなく、チケットを買い、開始時間少し前にシートに座り、それから約2時間、映画を鑑賞した。


一人映画鑑賞は、観終わったあとに感想を言い合えないのが寂しいと言うが、私は一人で余韻に浸るのも好きなので、観終わったあと、カフェで好きなコーヒーを飲みながら、印象に残ったシーンを思い出す。

久しぶりに休日というものを満喫した週末であった。


…と締めたかったが、これでいいのかアラサー女子!!

(い)


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駅前ファストフード店

2012-11-19 08:38:13 | 日記
 土曜の夕方、山奥のゴルフコースで雨に濡れながら小さな白球を追いかけて1日を過ごした私は、くたくたになりながらも、湘南あたりの、ある駅前に降り立った。その夜、高校時代の同窓会があると知らせを受けていた。
 ゴルフ場からその駅前まで、クラブバスと電車を乗り継いで来たのだが、同窓会までは、まだ一時間半もある。雨の中をぶらぶらとしたあげく、結局駅前のファストフード店に入り込んだ。私が高校に入学した頃に開店した、このあたりでは既に老舗の店舗である。
 割とゆったりとした作りの店内に落ち着くと、急に睡魔が襲ってきた。眠い頭で周囲を観察してみると、私が若かった頃とは異なる客層であることにじわりと驚きがやってきた。
 この年になると、そもそもお客様を訪問する際の待ち時間調整以外でファストフード店に入るのは珍しい。そんな時でも近くにオールドスタイルのいわゆる喫茶店があればそちらを選ぶ。そんなわけで土曜のしかも夕方という時間帯に利用することなど、ほとんど皆無に等しい。

 女子が多い。女子と呼べないほどご高齢のご婦人方もいる。彼女たちは、一人、または数人で利用している。一人で来ている中学生のように見える女の子は何か勉強しているようだ。明らかに母娘というペアもいる。男子は見回して確認してみたところ私を入れてわずか4人。まあ私も男子というには程遠い年齢ではあるが。土曜の夕方だと言うのに男女カップルは一組もいない。
 私の記憶の中では、土曜の夜は男女ペアが街を闊歩し、どこに行ってもアベックばかりだったような気がしていた。このアベックという言い方自体最近ではあまり聞かない。avecと書く。英語のwithに相当するフランス語だ。何語でもかまわないが今時のアベックやカップルは、土曜の夜、どこで語らっているのだろうか。自分のことを棚に上げてしまうと、母と娘の二人でここにいる彼女たちの夫や父である存在の男性はどこで何をしているのだろう。ここで一人で勉強している中学生の家族は娘抜きで土曜の夜の食事を始めようとしているのだろうか。
 
 年令に関係なく、ここ日本では女性はもう好きな時に好きな場所にいることができる世の中になって来た、と誇らしげに言えるのかもしれないし、単に家族が人を引きつける引力が弱くなってきているのかもしれないと不安げに語ることも出来る。男女のペアが店内にいない状況を見ても、そのペアがやがて作り始めるかもしれない「家族」が力を失って来ているように思えてならない。
 ただ、婚姻と血縁だけが家族では無いと強く誰かに言われれば、確かにそうだと思わなくもない。特に何かあるわけでは無いけれどただ一緒にいるだけ、いつもそばにいるだけ。家族がそんな集まりだとすれば、土曜の夜にファストフード店に集まって静かに話していた女子の皆さんはこれからの新しい家族のあり方を着実に実現していたと言えなくもない。
 少子高齢化が進み、未婚の男女が増える中で、古い考え方に立てば身寄りのない孤独な一人暮らしの人々が急激に増えて行くという構図は避けがたい。しかし、血は繋がっていないものの、所属する組織団体や住んでいる地域が実は家族と同然であると考えて、その中で献身的に貢献しながら自分を磨いて行くことを生きがいにする人たちも増えて行くのだろう。女性客の目立つファストフード店を見渡してそんなことを考えていた。
 
 同窓会が始まる時間までに雨は止まず、1本の傘を二人で分け合う男女が駆け込んでくる姿を見ることもなく、私は店を後にした。(三)
 
 
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