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三方一両損

 中学生の国語のテキストに、次のような古文が載っていた。

 伊賀守殿(板倉勝重)、京都を守護したまへるころ、金三両を拾へるひとあり。落としたる人いかに憂ふらん(どれだけ嘆いているだろう)と、さまざま求むれども出で来たる人なし。せんかたなく官(しかたなく役所に)に訴へければ、落としたる人出で来たりて、我落とせしも、かの者拾へるも皆天なり(運命である)。我取るべきにあらずと辞す。拾へる人はもとより受けず。互ひに譲りければ、今の世にもかかる(こんな)めづらしき訴へを聞くことのうれしさと(伊賀守殿は)大いに感じたまひて、我もその中に交はらんとて、また新たに三両を出だし、六両となし、両人へ二両づつ与へ、残る二両を自ら納めたまひ、この後なんぢらむつましくせよと、ねんごろに(心をこめて)おはせたまふ。   (三熊思考「続近世畸人伝」)

 これを読んで、落語の噺にある「三方一両損」のことじゃないかと思った。落語の中では、この裁きをしたのは大岡忠相であり、拾った三両に大岡が一両を足して四両としたものを、落とし主と拾い主のそれぞれに二両ずつ分け与えて「これ呼んで三方一両損なり」と無事解決させたことなど細部で違いはある。だが、そんな考証はさておき、この「三方一両損」という言葉が、何年か前に医療制度改革の必要を説くのに盛んに使われたことを思い出す。その内容は、「患者と医療機関と健康保険組合などの保険者の三者が痛みを分かち合う」というもので、具体的にいえば、
「患者としての国民はお医者さんに診てもらう時の自己負担が上がって1両の損。 医療機関は診療報酬が下がって1両の損。さらには、まだ病気になっていない健康な国民が保険料の引き上げなどで1両の損、これで三方一両損・・」
というようなことだったが、なんだかすっきりしない。現実の経済において三者ともすべて損をするなどありえない。損をする者がいれば、得をする者がいるのが原則であろう。ならばいったい誰が得をするのか?当時もよく分からなかったが、今でもよく分からない。怪しい・・。もともと「三方一両損」という内容自体も、実際に三者とも損をしているわけではなく、落とし主と奉行が一両ずつ損をしているだけで、拾い主は二両得することになる。深く考えもせずに表層のイメージだけで捉え、「全員一両ずつ損をしているのだから痛み分けだ」などと丸く収めようとするのは、事の本質を見抜けなくしてしまう詭弁というべき論理の展開だ。どうしても納得がいかない。
 この言葉に脚光を浴びせたのは小泉元首相であるが、彼の残した負の遺産とも言うべきものの中には、実体が伴っていないイメージだけが先行するワンフレーズで物事を表現するという軽佻浮薄な政局運営もその一つにあったように思う。その小泉純一郎が退き、後を受けた安倍晋太郎も十分な言葉で説明責任を果たさないまま、政権を投げ出してしまった。こうした国民に対して「語る」ことをしてこなかった二人の首相の後、新たに首相となるであろう福田康夫はどういう姿勢で臨もうとするのだろう。悪しき流れを食い止めて、我々国民に真摯に語りかける首相に果たしてなろうとするだろうか。
 稚拙で拙速の謗りを免れなかった前首相の政治手法に、No! を突きつけた国民の意思をどれだけ政治に反映することができるのか、私は福田康夫という人物をよく知らないだけに注目していきたいと思うが、とりあえず損だけはしたくない。
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