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坊ちゃん宰相

 「職を賭す」というのは、なるほどこういうことだったのか、と安倍晋三首相の退陣表明を知ったときに初めて合点がいった。確かに、安倍ちゃんは「命を賭ける」とは言わなかったし、「不惜身命」などと四字熟語も使わなかった。彼にとって賭けるべきものは「内閣総理大臣」という職であって、己の命ではなかったのだ。賭けても総理大臣の職まで・・。そこが「坊ちゃん宰相」と揶揄される所以であろうし、彼の限界でもあったのだろう。
 これも、彼の「美しい国へ」という著書を読んだ者なら誰でも感じるであろう彼の思想の曖昧さから言えば、至極当然な身の処し方なのかもしれない。今、丸谷才一の「袖のボタン」(朝日新聞社)という本を読んでいるところだが、たまたま昨夜読んだ箇所に「美しい国へ」を評した文章が載っていた。

 「一体に言ひはぐらかしの多い人で、さうしてゐるうちに話が別のことに移る。これは言質を取られまいとする慎重さよりも、言ふべきことが乏しいせいではないかと心配になつた。すくなくとも、みづから称して言ふ「戦ふ政治家」にはかなり距離がある。当然のことながら読後感は朦朧としてゐるが、後味のやうに残るのは、われわれが普通、自民党と聞いて感じる旧弊なもの、戦前的価値観への郷愁の人といふ印象であつた」(「政治と言葉」)

そう言えば「戦う政治家」と自らを標榜していた。そんな面影など微塵も感じられないほど、まさしく敵前逃亡とも受け取られかねない退陣表明であった。いったい彼は何をやりたかったのだろう。「戦後レジュームからの脱却」と言いつつも、戦後レジュームを強固に形作った祖父の影から脱却しようともしていない彼に何ができたと言うのだろう。そうした彼の矛盾を隠し切れなくなった結果が先の参議院議員選挙の惨敗だったのだろうが、その現実を目の当たりにしても総理大臣の職にしがみついた彼が、なぜまた急に辞める気になったのだろう。不思議だ。
 さらに丸谷は続ける。

「近代民主政治は、血統や金力によらず、言葉でおこなはれる。その模範的な例は、誰でも知つてゐるやうにリンカーンのゲティスバーグ演説(『人民を、人民が、人民のために』)である。易しい言葉しか使はない短い演説で、人心を奮い立たせた。(中略)
 しかし今の日本の政治では、相変らず言葉以外のものが効果があるのではないか。わたしは二世、三世の国会議員を一概に否定する者ではないけれど、その比率が極めて高いことには不満を抱いてゐる。『美しい国へ』でも、父安倍晋太郎(元外相)や祖父岸信介(元首相)や大叔父佐藤栄作(元首相)の名が然るべき所に出て来て、なるほど、血筋や家柄に頼れば言葉は大事でなくなるわけか、などと思つた」(政治と言葉)

 彼の心の中には、祖父や父の姿しかなかったのではないだろうか。ただ、祖父や父が成し遂げられなかったことを自分の手でできたらいいなあ、そんな軽い気持ちで生きてきたのではないだろうか。もちろんこれが、私の馬鹿な妄想であるにこしたことはないが、今回の余りに無責任な退陣表明に接すると、「もう自分の手には負えないことが分かったから諦めよう」くらいの気持ちでいるような気がしてならない。子供のため、家族のために、どんなことがあっても歯を食いしばって働かなければならないと思っている私には、とても考えられない職務放棄であるとしか思えない。「坊ちゃんはいいよなあ、辞めたって楽に暮らして行けるんだから・・」彼の涙目での辞任会見を見たところで、なんの同情も浮かんでこない。
 しかし、考えようによっては、この安倍ちゃんの退陣表明は喜ばしいことである。こんなにいい加減な人間に国の舵取りを一年近くも任してきたのだから、私を含めた日本国民の能天気さには今更ながら驚いてしまうが、これでもっとこの国の行く末を真剣に考えてくれる人に国政を委ねる機会が生まれたのだから、まさに喜ぶべきことだ。ただ、国民不在の総理大臣選びが再びまかり通ってしまえば、同じ愚を繰り返すだけだが・・。
 そんなことにならないよう、注目していこう。
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