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失せ物

 銀行印を失くしたことに気付いたのは9月の初めだった。銀行からの借入金の返済を毎月通帳から引き落とすようにしてあって、その手続きの度に書類に印を押す必要があるため、印鑑を探したのだが、見つからない。普段からだらしないことばかりしている私ではあるが、さすがに大事な印鑑は使ったらすぐに決めた場所に戻すようにしていたはずなのに、そこにない!どうしたんだろう?最後に使ったのは、たしかOCNの料金を銀行振り替えにするため、申し込み用紙に捺印したときだったと思うから、さほど前のことでもない。その時すぐに戻せばよかったのに、愚かにもポケットの中に入れてしばらく持ち歩いていた覚えはある。だが、その後のことはまったく記憶にない。
 銀行員に事情を話すと、「2日後にまた来ますから、それまでに見つけておいてください」と、猶予期間をくれた。私もちゃんと探せばすぐに見つかるものだと軽い気持ちで「了解!」などと約束したのだが、それからが大変だった。

   休むことも許されず
   笑うことは止められて
   這いつくばって 這いつくばって
   いったい何を 探しているのか
   探すのを止めたとき
   見つかることも よくある話で
   踊りましょう 夢の中へ
   行ってみたいと 思いませんか
   
 何度陽水のこの歌が頭に浮かんだことだろう。私の生活圏なんてたかが知れている。自宅と塾とバスと乗用車の中、これくらいをしらみつぶしに探していけば、どこかで必ず見つかるに決まっている。たいした苦労もなしに見つかるだろう、という甘い予想に反して、どこを探しても見つからない。各部屋をあれこれひっくり返してみたが、ない。車の中もシート周辺を探したがどこにもない。あの印鑑は高校を卒業するときに学校から生徒全員に配られたもので、もう30年近くも使っているものだから、愛着がある。もしこのまま見つからなかったら、かなり辛い。なんとしてでも見つけたい。そんな気持ちで必死に探したが、どうしても見つからない・・。もう途方に暮れてしまった。 
 2日後銀行員がやって来ても、結局見つけ出していなかったので、その旨伝えると、「今回は応急処置として手続きを完了しておきますが、次回までには印鑑の変更届をしておいてくださいね」と、言われた。2週間ほどかかるからなるべく早く届けを出すようにとも言われたが、ずっと使ってきた印鑑を見捨てるようなことはなかなかできなかった。次回の引き落とし日から逆算してぎりぎりまで探してみて、それで駄目だったら諦めて印鑑を変更しようと決めた。
 とは言っても、半ば諦めかけていたので、大して探しもしなかった。ただ、時々急に思い出してあちこち探し回ったことはあったが、何の役にも立たなかった。とうとう自分で設定した期日がやって来てしまったので、気乗りはしなかったが、銀行に紛失届けを出しに行った。その後しばらく経って、銀行から確認の葉書が届き、それを持参して新しい印鑑の届けをしたのが金曜の午後だった。何枚かの用紙に住所・氏名を書き込んで、買っておいた新しい印鑑を捺印して、手続きは完了した。やっとこれで印鑑騒動も一段落、ほっとして随分心が軽くなった。
 
 その日の午前中にバスのタイヤがパンクしているのに気付いた。スタンドに持って行ったら、釘が刺さっているのが見つかったので、修理してくれるよう頼んだら、店員が「このタイヤは擦り切れてますから交換した方がいいですよ」と教えてくれた。よく見ればかなり磨耗していて、溝も途切れ途切れになっている。これじゃあ、危ない、すぐに交換しなくちゃいけない、その場で自動車屋に電話した。機敏な対応をしてくれるセールスマンがいていつも助かっているが、今回も夕方までにタイヤの交換と定期点検をしてくれることになった。
 
 生徒の送迎のため、戻ってきたバスに乗り込んだ瞬間に驚いた。印鑑だ、失くした印鑑が座席の上にちょこんと置いてあるではないか・・。「なんだ、これは!!!」と思わず大声を出してしまったので、乗っていた子供たちが一瞬シーンと静まり返ったほどだった。
 推察するに、自動車会社の人がタイヤ交換と点検を終えた後、気を利かせてバスの掃除をしてくれ、その際にどこかの隙間から出てきた印鑑を座席の上に置いてくれたのではないだろうか。なんてサービスがいいんだろう。それに反して、迂闊なのはこの私だ。何度バスの中を探したか分からないほどなのに、見つけることができなかったのだから・・。それにしても、よりによって変更届が受理されたその当日に出てこなくてもいいのに。なんだか運命のアイロニーを感じてしまう。
 だが、嬉しかった。家出していた子供が戻ってきたようで、心底嬉しかった。失くして初めて物の有難さが分かると言われるが、たとえ銀行印ではなくなっても、これからも大切にしなければならないと改めて思った。 
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