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哲学者

 一冊本を読み終えると、このブログに感想を書くのが習慣のようになっているが、読み終えてすぐには書かないようにしている。ある程度自分の中でその本の内容を反芻して、十分咀嚼できたと思った時点で感想を書き留めるようにしている。書評などという大それたものではなく、ただ単に感想文に過ぎないのだから、大上段に構える必要もないのだが、それでもやっぱり自分なりにしっかりした感想を書き留めたいと思っているので、読み終えてかなり時間が経ったからでしか書くことができない場合もある。
 土屋賢二の「妻と罰」(文芸春秋)を読んだ。これは週刊文春に毎週連載されている随筆「ツチヤの口車」をまとめたものであり、もうすでに何冊か単行本が発行されているようだが、私は初めて買ってみた。週刊文春は松井秀喜のレポート記事で面白そうなものが載っているときに買う程度なので、週刊文春でこの随筆を読んだことはあまりない。ただ、本巻にも収められていた、お正月を話題にした「正月の間違った過ごし方」という一編は読んだことがあり、しみじみした趣が少しばかり私の郷愁に訴えかけたのは覚えていたので、題名の面白さにも惹かれて、読んでみようと思った。
 しかし、すぐにがっかりした。面白くない。2、3編読んで止めてしまおうと思った。何でこんなに面白くない随筆がかくも長く連載されているんだろうと不思議に思った。事情通の妻にそう言うと、娘も「土屋の本は面白くない」と言っていたと教えてくれた。こうなると世代性別を超えて面白くないってことになるかもしれない。それなのにどうして延々と連載が続いているんだろう?
 そんな気持ちでいたら、なんだか面白くない理由を探ってみたくなった。どうして面白くないのか理解したいと思った。まあ、その頃は特に読みたいと思うような本がなかったせいなのかもしれないが、とにかく気が向いたときだけでいいから、少しずつ我慢して読んでみようと思った。すると、まず過大な表現が多く、興ざめするのが第一の原因だと分かった。話を面白くしようとしてなのだろう、比喩がやたら大袈裟だ。そんなことまで言わなくても、と言いたくなるような表現が随所に見られた。また、各所で自分の書いた本は売れない、授業はつまらないと書いてあるのを読むたびに、ならばどうしてこんな文章をずっと書き続けているのか、何でお茶の水大学の教授を続けているのか、さっさと止めればいいのに、などと突っ込みたくなってきた。自虐的なことを書いても面白がっているのは本人だけで、私にはちっとも面白くない。どうにも私とは波長が合わない、などと読み進めるうちにますます苦痛になってきた。
 それなら打っ棄ってしまえばいいのに、性懲りもなく読み続けて結局読破してしまったのだから、自分でもわけが分からない。忍耐強くなったわけでもないし、嗜好が変わったわけでもない。それなのにどうして最後まで読めたのだろう。
 作者土屋賢二は哲学者だ。私は文学部の文学科の卒業生であり、情緒で物を判断する習慣が身についている。どうしても感情に流されやすい己に対する反発からか、哲学科卒という肩書きを持った人には論理だって物を理解する能力があると思い込む傾向がある。別に感情や思い付きで生きたっていいとは思うが、どうしても理性に基づいた思考力を持った人には一目置いてしまう。そんな、私にとっては畏敬の対象たる哲学者がこんなにも面白くないことを書いている!、と揶揄できたのが読み進めることができた一つの理由かもしれない(イヤな男・・)。が、やはり哲学者という存在は思惟するのが常態なんだなと、途中から感じ始めたのが投げ出さなかった一番大きな理由かもしれない。どんなにくだらないことであっても、一つのことを思考し始めると加速度的に思考が進んでいくのには驚く。目に見える具体的なものに関して論考するのなら、情緒的な私にも可能かもしれないが、抽象的な事象に関してもまるで手に取って吟味するかのように論を進めることできる能力には、正直脱帽した。「『国』は正体不明だ」という一編は哲学者の面目躍如だ。
 そうしたことが改めて分かっただけでもこの本を読んだ意味はあったと思うが、それでも、もう二度と彼の随筆を買うことはないだろうなあ。
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