★ 校内における児童・生徒の暴力行為が増えていると言う。特に小学生でこの傾向が顕著だそうだ。こうした統計は学校の自己申告によるものだから相当恣意的な数字になる。厳密に調査し、こまめに報告すれば数字は膨大なものになるし、表沙汰にしなければ数字は隠れる。だから氷山の一角だともいえる。
★ ただ全体的な漠然とした傾向を読み取ることはできる。
★ かつての校内暴力といえば中学生が中心で、金八先生の「腐ったミカン」の頃、1980年前後に全国で吹き荒れた。それから約30年。彼らの子どもたちが今、学齢期だ。
★ 最近の子どもは言葉より先に手が出る。自分の感情をうまくコントロールできない。キレやすい。目上の人間や見知らぬ人に対する暴言や暴力も見られる。問題を起こす子ども・学校が偏在している。こうした傾向が見られる。
★ 子どもの暴力行為の第一の原因は家庭環境だ。親の養育態度の問題だ。特に幼少期における親の養育のあり方が子どもに大きな影響を与えているように思う。親の粗暴さや自己中心性(身勝手さ)が子どもに負の教育環境となっている。関連して家庭の経済状況も大きな影響を与えているように思う。
★ 友達のような親子関係も一長一短ある。子どもが大人と子どもの垣根を認識できず誰に対しても「タメ」であるように接しがちだ。
★ 自分の感情をうまくコントロールできない、言葉より先に手が出ると言うのは、こうした家庭環境によって表現力が不足することが原因だと思える。相手との距離をうまく保てない。コミュニケーションがうまくとれない。自我の過剰な膨張と何かに怯えている不安感。全能感と挫折感のギャップによるいらだち。
★ こうした傾向は、思春期などの成長期に誰もが経験する通過儀礼のようなものだが、この課題をうまくこなせないでいる。発達障害に陥ってしまっている場合もある。
★ 更に追い討ちをかけるのは社会の風潮だ。バラエティ番組やお笑い芸人の言動の影響力は実に大きい。
★ 「学校」という制度の問題は言われて久しい。校内暴力の増加といえば昨今の学力重視と短絡的に結び付ける議論も起ころう。ここ数十年の社会の変化、妙な個性重視が、例えば授業中は静かに先生の話を聴くといった「お約束」を無意味なものにしている。授業中の私語、立ち歩き、内職、居眠り、飲食・・・挙げればキリがない。時には挑発的に、時にはスリルを味わっているかのように、時には周りに対する自己顕示のために、彼らはさまざまな「はみだし」を行う。
★ 根底には漠然とした反発心と自分への甘えがある。
★ 対教員暴力が増えているのは、教員がそうした子ども達に対して積極的に関与している結果とも言える。一部の子どもの中には大人(あるいは社会)をナメる傾向が顕著に感じられる。それらはほとんどの場合、自己中心性の発露で、論理的な背景はなく、ただ快ー不快でその場その場を生きているように感じられる。
★ さて、長い年月の間に形成された子どもたちの性向をどのように変えていくか、社会的な風潮をどのように変えていくか、家庭をいかに再生していくか、「学校」という装置をどのように変えていくか、それらは大人側の問題である。処方箋は別の機会に考えたい。
★ ただ全体的な漠然とした傾向を読み取ることはできる。
★ かつての校内暴力といえば中学生が中心で、金八先生の「腐ったミカン」の頃、1980年前後に全国で吹き荒れた。それから約30年。彼らの子どもたちが今、学齢期だ。
★ 最近の子どもは言葉より先に手が出る。自分の感情をうまくコントロールできない。キレやすい。目上の人間や見知らぬ人に対する暴言や暴力も見られる。問題を起こす子ども・学校が偏在している。こうした傾向が見られる。
★ 子どもの暴力行為の第一の原因は家庭環境だ。親の養育態度の問題だ。特に幼少期における親の養育のあり方が子どもに大きな影響を与えているように思う。親の粗暴さや自己中心性(身勝手さ)が子どもに負の教育環境となっている。関連して家庭の経済状況も大きな影響を与えているように思う。
★ 友達のような親子関係も一長一短ある。子どもが大人と子どもの垣根を認識できず誰に対しても「タメ」であるように接しがちだ。
★ 自分の感情をうまくコントロールできない、言葉より先に手が出ると言うのは、こうした家庭環境によって表現力が不足することが原因だと思える。相手との距離をうまく保てない。コミュニケーションがうまくとれない。自我の過剰な膨張と何かに怯えている不安感。全能感と挫折感のギャップによるいらだち。
★ こうした傾向は、思春期などの成長期に誰もが経験する通過儀礼のようなものだが、この課題をうまくこなせないでいる。発達障害に陥ってしまっている場合もある。
★ 更に追い討ちをかけるのは社会の風潮だ。バラエティ番組やお笑い芸人の言動の影響力は実に大きい。
★ 「学校」という制度の問題は言われて久しい。校内暴力の増加といえば昨今の学力重視と短絡的に結び付ける議論も起ころう。ここ数十年の社会の変化、妙な個性重視が、例えば授業中は静かに先生の話を聴くといった「お約束」を無意味なものにしている。授業中の私語、立ち歩き、内職、居眠り、飲食・・・挙げればキリがない。時には挑発的に、時にはスリルを味わっているかのように、時には周りに対する自己顕示のために、彼らはさまざまな「はみだし」を行う。
★ 根底には漠然とした反発心と自分への甘えがある。
★ 対教員暴力が増えているのは、教員がそうした子ども達に対して積極的に関与している結果とも言える。一部の子どもの中には大人(あるいは社会)をナメる傾向が顕著に感じられる。それらはほとんどの場合、自己中心性の発露で、論理的な背景はなく、ただ快ー不快でその場その場を生きているように感じられる。
★ さて、長い年月の間に形成された子どもたちの性向をどのように変えていくか、社会的な風潮をどのように変えていくか、家庭をいかに再生していくか、「学校」という装置をどのように変えていくか、それらは大人側の問題である。処方箋は別の機会に考えたい。