神エホバは、人間的な考えでは考えられない方法で、ご自分の契約下のイスラエル国民に懲らしめを与えるために異教徒の「アッシリア人」を「むち棒」として用いられました(イザヤ10:5,6)。
しかし、アッシリア人はご自分の民に教訓をあたえるために、神エホバに用いられていることを認めませんでした。そのため神エホバは、イザヤを通してこう言われました。
「(アッシリア人)はそのようではないかも知れないが、その気になるであろう。その心はそのようではないかもしれないが、彼(アッシリア人)は企むであろう。まぜなら、滅ぼし尽くすこと、少なからぬ国の民(北のイスラエル王国の民)を断ち滅ぼすことがその心の中にあるからである」(イザヤ10:7)。
上の聖句に記されている通り、アッシリア人は神エホバの手にある道具であると、述べられているのです。しかし、アッシリア人は、それ以外のものになろうという気になります。自らの心に促され、もっと壮大な事、つまり当時知られていた世界の制服を「企む」のです。
アッシリア人に征服された、イスラエル人でない民の都市の多くは、以前は王に支配されていました。かっての王たちは、今やアッシリアの属国の君としてアッシリアの王に服従しなければなりません。それで、アッシリアの王は、イザヤが述べた、「わたし(エホバ)の君たちは王であるのではないか」と誇ることができます(イザヤ10:8)。
サマリアの住民が陥ったバアル、モレク、金の子牛の偶像の神々は、その都市の保護とはなりませんでした。神エホバを捨てたサマリアには、神エホバの救出を期待する権利はありません。今日も神エホバのご意志を守り行なわない人は皆、サマリアに臨んだ結末に留意しなければなりません。サマリアはアッシリア人にとってただの分捕り物でした(イザヤ10:9)。
しかし、アッシリア人はごう慢になり誤った誇りによってこう言います。「エルサレムやサマリヤよりも(分捕った都市は)多くの彫像を持つ、無価値な神の王国にわたし(アッシリア人)の手が及んだ時にはいつでも、わたし(アッシリア人)はサマリアとその無価値な神々にするのと同じようにエルサレムとその偶像にもするのではないか」(イザヤ10:10,11)。この聖句は、アッシリア人は、「エルサレムをサマリアと同じ目に遭わせるのに何のさまたげがあろうか」とごう慢に考えていることを述べているのです。