愛媛県宇和島市からの良いたより♪

私のブログでは次の内容を紹介致します。
1.「神の王国の良いたより」、聖書教育
2.花々、風景写真
3.俳句、他

「愛は・・、思い上がらず、みだりな振る舞いをせず、・・」(コリント第一13:4,5)

2015-07-28 18:08:04 | 神の言葉・聖書

 皆様方は、思い上がらず、つまり誇り立つことなく謙遜な人であり、みだりな振る舞いをしない人であれば幸いです。現在の社会では、イエス・キリストが1914年以降に生じる事物の体制の終結の複合的しるしの中で「大半の者の愛が冷えると預言された通り、愛がないため自己主張が強く、誇り高い人たちが溢れています(マタイ24:12)。他の人の方が自分より上であると謙遜に振る舞う人は少なくなっています(フィリピ2:3)。特に日本の社会では、第一次、第二次オイルショック以降の昭和53年頃から、自己主張が強くなり、それまで日本人の慎み深く他の人に深い敬意を払う特質が薄れ、競争社会の拡大と相伴って、誇り高い人たちが急速に拡大ししたように思います。みだりな振る舞い、つまりみだらな振る舞いとは、厚かましい態度、つまり法や権威に対する不敬や軽蔑を示す態度を反映する行為です。みだらな振る舞いは単に性の不道徳のみならず、集団姦淫(裁き人19:25;20:6)、売春行為(エレミヤ13:27.エゼキエル23:44)、流血行為(詩編26:9,10.エゼキエル22:9.ホセア6:9)などを挙げています。「無節操な者」はみだらな行いを企てると言われており、そのような行いが「戯れ事のように」なっている人たちは愚鈍な者、つまり道徳的に無価値な者として識別されています(イザヤ32:7.箴言10:23)。イエスはみだらな行いをする人は「人を汚します」と述べ、その人の心の内面を反映していることを教えられました(マタイ7:20~23)。私たちは誇りやみだりな振る舞いをしないようにする点で神エホバとイエスの残された模範の手本・愛に見倣うことが出来ます(ペテロ第一2:21)。

 聖書の詩編113編に神エホバの模範が次のように記されています。

 エホバはすべての国の民の上に高く上げられた。

     その栄光は天の上にある。

  だれがわたしたちの神エホバのようであろうか。

     神はその住まいを高くしておられる。

  神(エホバ)はご自分を低くして

     天と地をご覧になり、

  立場の低い者をまさしく塵の中から立ち上がらせておられる。

     神は貧しい者をまさしく灰溜めから高められる」(詩編113:4~7)。

 偉大な創造者であり宇宙の主権者エホバ神は身を低くし私たち人間を顧みてくださっているのです。私たちはそうした神エホバの謙遜さを見倣うことができます。またみ子イエスは神の子として地上に遣わされている間、み父エホバの教えの通りに身を低くし、謙遜に人々に仕えました(フィリピ2:5~8)。

 イエスはみだりな振る舞いをしない点で、次の模範を残されています。

 その時、ゼベダイの息子たちの母がその息子たちと共に近づき、敬意をささげながら何事かを彼(イエス)に求めた。イエスは彼女に言われた、「あなたは何を望むのですか」。彼女は言った、「これらわたしの二人の息子が、あなたの王国で、一人はあなたの右に、一人はあなたの左に座るようにお申しつけください」。イエスは答えて言われた、「あなた方は自分が何を求めているかを知っていません。あなた方は、わたしが飲もうとしている杯(神エホバの目的の比喩表現)を飲むことができますか」。彼らは、「出来ます」と言った。イエスは彼らに言われた、「確かにあなた方はわたしの杯を飲むでしょう。しかし、わたしの右また左に座ることは、わたしの授けることではなく、わたしの父(エホバ)によってそれが備えられている人たちのものです」(マタイ20:20~23)。

 み子イエスはみ父エホバからすべての権威を委ねられていましたが、上記の聖句に示されている通り、み父エホバの権威を踏み越えて、みだりな振る舞いをすることは決してありませんでした。常にみ父エホバに栄光と賛美を帰し、謙遜と従順という特質を手本として示されました(マタイ28:18.ヨハネ12:49,50.フィリピ2:5~8)。み言葉・聖書はは・・・、思い上がらず、みだりな振る舞いをせず、・・・」と、記しています(コリント第一13:4,5)。私たちは神エホバとそのみ子の残された模範の手本に見倣い、愛の人として歩みたいものです。

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        「暑いです」 配達婦人 笑顔なり 今日の一句 

 

                   庭のランタナで吸蜜の「黒アゲハ蝶」 

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ランタナとアゲハ蝶と百日草

2015-07-28 01:21:37 | 四季折々の花々

 梅雨明けをした庭には、アゲハ蝶、モンキアゲハ蝶、シジミ蝶などが

 ランタナは蜜の多い花なのか、吸蜜に来ます。

 ランタナの花とアゲハ蝶の羽根が調和し

 とても綺麗です。

 今日はランタナとアゲハ蝶と百日草を紹介致します。

                      庭のランタナに「アゲハ蝶」

                          切り花の「百日草」

 

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「・・・。愛はねたまず、自慢せず、・・・」(コリント第一13:4)

2015-07-28 01:08:54 | 神の言葉・聖書

 皆様方は、他の人へのねたみや自慢を避ける人であれば幸いです。大抵の人ならねたみは何の益をもたらさないことを理解しています。そればかりかねたみは殺人罪まで発展します。人類史の最初の殺人事件は、カインが弟のアベルにねたみを抱いたのが原因であることを聖書は記録し、避けなければならい事として教えています(創世記4:1~8)。聖書の箴言には、「穏やかな心は身体の命であり、ねたみは骨の腐れである」と記されています(箴言14:30)。さらに、ねたみは肉の業であり、神の王国を受け継がないことを警告しています(ガラテア5:19~20)。自慢する人は他の人の心を思いやることに欠けた人です。自慢する人は、他の人より自分を高め、謙遜という特質とはかけ離れたものです。自慢する人は、自己主張が強く、容易に合意することがなく、自己中心の特質を表し、利他的な生き方が出来ません。ねたみを抱く人や自慢をする人は愛のない人です。み言葉・聖書は「・・・。愛はねたまず、自慢せず、・・・」と、教えています(コリント第一13:4)。私たちがねたみや自慢を避ける人として成長するためには、イエス・キリストの残された手本の模範に見倣うことが出来ます(ペテロ第一2:21)。どのようにイエスに見倣うことが出来るでしょうか。

 イエスか常に行われた様に他の人の福祉への感心を抱くことです。イエスは当時のパリサイ人たちとは異なり、安息日であっても病気の人を治されました(ルカ12:9~13)。その様子を見たパリサイ人たちは、イエスを殺そうと相談しました(ルカ12:14)。しかし、イエスはどうされたでしょうか。パリサイ人を恐れ、他の人の福祉を優先することをやめられたでしょうか。次のように記されています。「イエスはそれ(パリサイ人の考え)を知って、そこから退かれた。大勢の者も園あとに従ったが、イエスはその人々をみな治された(ルカ12:15)。イエスは人の目に恐れを抱くことなく、また神エホバからすべての権威を委ねられ、病気の人を直ぐに治す力を持っていましたが、そのような事を自慢するのではなく、他の人の福祉に関心を抱き、病気の人をみな治されたことが記されています。愛の人は他の人の福祉に深い関心を抱いていることが分かります。さらに、イエスの行くところには大群衆が付いて行きました。そうした大群衆をご覧になると、イエスは自分のことを優先される事はなく、大群衆の必要を顧みる人でした。次のように記されています。「さて、出て来られた時、イエスは大群衆をご覧になった。そして、彼らに哀れみを感じ、その中の病気の者たちを治された」(マタイ14:14)。イエスは病気の人々を癒しただけではなく、大群衆の人々の霊的な必要を満たすために「多くのことを教え」られたのです(マルコ6:34)。このように、イエスの残された模範の手本に見倣い、他の人々福祉に感心を抱くことによって、ねたみや自慢を避ける人・愛の人として歩むことが出来ます。

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     初物の 茗荷きざみて 冷奴 今日の一句

                      庭に咲いている「ミニトマトの花」

 

 

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淡いピンクのバラとランタナとモンキアゲハ蝶

2015-07-27 00:11:32 | 四季折々の花々

 愛媛県もやっと梅雨明けがしましたが、台風12号の影響で雨模様です。

 梅雨の間もバラの花が次々に咲いて、

 楽しみを与えてくれました。

 バラの花は世界中の人々に愛され、

 愛の花として知られています。

 今日は淡いピンクのバラとランタナとモンキアゲハ蝶を紹介致します。

                       姉妹の鉢植えの「バラ」

              庭のランタナに吸蜜に来ている「モンキアゲハ蝶」

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「愛は辛抱強く、また親切です。・・・」(コリント第一13:4)

2015-07-26 23:36:22 | 神の言葉・聖書

 皆様方は辛抱強く、親切な人として知られている方でしょうか。そのような方であれば幸いです。現在は辛抱強くて親切な特質を表す人が少なくなっているようです。例えば、折角就職しても3ヶ月もしないうちに、離職してしまう若者が多いと報告されています。また、辛抱強く、親切に他の人に導きを与える人も少なくなったようです。皆様方は、どのように感じておられますか。み言葉・聖書は愛は辛抱強く、また親切です。・・・」と説明しています(コリント第一13:4)。私たちは「神の像(かたち)」に創造されていますので、他の人に辛抱強く、また親切に接する必要がありますし、またそのような特質を培い、生活に適用することが出来ます(創世記1:26,27)。さらに、私たちはイエス・キリストの残された手本の模範に見倣って、辛抱強さと親切を表すことができます(ペテロ第一2:21)。

 イエスは弟子たちに次の新しいおきてを与えられました。「わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それはあなた方が互いに愛し合うことです。つまり、わたし(イエス)があなた方を愛したとおりに、あなた方も互いを愛することです。あなた方の間に愛があれば、それによってすべての人は、あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」(ヨハネ13:34,35)。

 私たちは、イエスが弟子たちを「愛したとおり」に、仲間の者を愛さなければならないのです。イエスは、弟子たちを辛抱強く、また親切に訓練し、導きを与え続けました。

 しかし、イエスはご自分の弟子たちだけではなく、一般の群集に対しても、ご自分のことよりもそれらの群集の必要を辛抱強く、また親切に顧みられました。次のように記されています。「それから使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったすべてを彼(イエス)に詳しく話した。次いでイエスは彼ら(弟子たち)を連れ、自分たちだけでベツサイダという都市に退かれた。しかし、群衆はそれを知って彼の後を付いて行った。それでイエスは彼ら(群衆)を親切に迎え、神の王国について話し始めた。また治療を必要とする者たちのいやしになった」(ルカ9:10,11)。イエスは上記の聖句に記録されている通り、ご自分が休養を必要とする時間であっても、群衆が押し寄せると、親切に迎え、辛抱強く神の王国の真理を証しされただけではなく、病人の治療を行い、いやされたのです。私たちは、こうしたイエスに見倣って辛抱強く親切にし、仲間の者を愛する必要があるのです。

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       高速道 下りれば夏の 海の見ゆ 今日の一句

                庭のランタナで吸蜜する「モンキアゲハ蝶」

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