皆様方は、思い上がらず、つまり誇り立つことなく謙遜な人であり、みだりな振る舞いをしない人であれば幸いです。現在の社会では、イエス・キリストが1914年以降に生じる事物の体制の終結の複合的しるしの中で「大半の者の愛が冷える」と預言された通り、愛がないため自己主張が強く、誇り高い人たちが溢れています(マタイ24:12)。他の人の方が自分より上であると謙遜に振る舞う人は少なくなっています(フィリピ2:3)。特に日本の社会では、第一次、第二次オイルショック以降の昭和53年頃から、自己主張が強くなり、それまで日本人の慎み深く他の人に深い敬意を払う特質が薄れ、競争社会の拡大と相伴って、誇り高い人たちが急速に拡大ししたように思います。みだりな振る舞い、つまりみだらな振る舞いとは、厚かましい態度、つまり法や権威に対する不敬や軽蔑を示す態度を反映する行為です。みだらな振る舞いは単に性の不道徳のみならず、集団姦淫(裁き人19:25;20:6)、売春行為(エレミヤ13:27.エゼキエル23:44)、流血行為(詩編26:9,10.エゼキエル22:9.ホセア6:9)などを挙げています。「無節操な者」はみだらな行いを企てると言われており、そのような行いが「戯れ事のように」なっている人たちは愚鈍な者、つまり道徳的に無価値な者として識別されています(イザヤ32:7.箴言10:23)。イエスはみだらな行いをする人は「人を汚します」と述べ、その人の心の内面を反映していることを教えられました(マタイ7:20~23)。私たちは誇りやみだりな振る舞いをしないようにする点で神エホバとイエスの残された模範の手本・愛に見倣うことが出来ます(ペテロ第一2:21)。
聖書の詩編113編に神エホバの模範が次のように記されています。
「エホバはすべての国の民の上に高く上げられた。
その栄光は天の上にある。
だれがわたしたちの神エホバのようであろうか。
神はその住まいを高くしておられる。
神(エホバ)はご自分を低くして
天と地をご覧になり、
立場の低い者をまさしく塵の中から立ち上がらせておられる。
神は貧しい者をまさしく灰溜めから高められる」(詩編113:4~7)。
偉大な創造者であり宇宙の主権者エホバ神は身を低くし、私たち人間を顧みてくださっているのです。私たちはそうした神エホバの謙遜さを見倣うことができます。またみ子イエスは神の子として地上に遣わされている間、み父エホバの教えの通りに身を低くし、謙遜に人々に仕えました(フィリピ2:5~8)。
イエスはみだりな振る舞いをしない点で、次の模範を残されています。
「その時、ゼベダイの息子たちの母がその息子たちと共に近づき、敬意をささげながら何事かを彼(イエス)に求めた。イエスは彼女に言われた、「あなたは何を望むのですか」。彼女は言った、「これらわたしの二人の息子が、あなたの王国で、一人はあなたの右に、一人はあなたの左に座るようにお申しつけください」。イエスは答えて言われた、「あなた方は自分が何を求めているかを知っていません。あなた方は、わたしが飲もうとしている杯(神エホバの目的の比喩表現)を飲むことができますか」。彼らは、「出来ます」と言った。イエスは彼らに言われた、「確かにあなた方はわたしの杯を飲むでしょう。しかし、わたしの右また左に座ることは、わたしの授けることではなく、わたしの父(エホバ)によってそれが備えられている人たちのものです」(マタイ20:20~23)。
み子イエスはみ父エホバからすべての権威を委ねられていましたが、上記の聖句に示されている通り、み父エホバの権威を踏み越えて、みだりな振る舞いをすることは決してありませんでした。常にみ父エホバに栄光と賛美を帰し、謙遜と従順という特質を手本として示されました(マタイ28:18.ヨハネ12:49,50.フィリピ2:5~8)。み言葉・聖書は「愛は・・・、思い上がらず、みだりな振る舞いをせず、・・・」と、記しています(コリント第一13:4,5)。私たちは神エホバとそのみ子の残された模範の手本に見倣い、愛の人として歩みたいものです。
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