夕べは急に寒くなってしまって・・予報の範囲内ではあるけれども・・体が付いてゆかない感じ。
昼間は、あまりの暑さに窓をあけたり、エアコンをいれてもらったりの天候。
くだらない国会劇場が開幕したようだけれども、国外のニュースでは鼻も引っ掛けられないような内容で寂しい限り。
そういえば、今回の旅行の前に大騒ぎしていたBAのストライキ。kおばちゃんもまさに引っかかる予定ではらはらしていたのだけれど、裁判でストライキを停止だったから良かったけれども、今度もまたイースター休暇を狙ってストライキを計画しているとか。
まあ、ストライキの出来るうちはいいですよね。鶴丸さんのようにならないでね。
なんて余裕の発言ができるのは、自分に被害が及ばないとわかっているからですね。なんて身勝手なkおばちゃんでしょうね。
○12月29日(火)
無事Myraというか通常はデレムDemreという名前の町の一部分でその名の方が通常のような町で、ノエル・ババNoel Babaこと聖ニコラウスの遺構を尋ねることができたkおばちゃんです。
つまり、普通にトルコ人に尋ねるときは『デレムのノエル・ババはどこですか?』となるみたいですね。
ところで、ここは聖ニコラウスの何か・・というと、どうもお墓の上に建てられた教会のようです。
教会堂そのものは6世紀に建てられたものだけれども、8世紀以降に建てられた部分が残っているようです。
入り口からしてこんなフレスコ画が
こちらもはっきり残ってますね。
全盛当時はもっと綺麗だったんでしょうね。
ところで聖ニコラウスのお墓というは棺はこれでしょうか??
なんか無防備過ぎる気が・・
どうも聖ニコラウスの遺骸そのものは、イタリアのバーリBariの商人にー1087年に盗まれてしまったということで、現在この地にはないそうです。
まあ、
棺の周りにもフレスコ画が描かれてします。
この辺りは、屋根がもうなくなってしまっていますね。きっと当時のキリスト教のおエライさん達が葬られていたんでしょう。
外に出てみると、ここは石塀で仕切られているようです。
教会の建物物の方はこんな感じですが、
こちら側(見学口から遠いほう)には屋根が残っているみたいですね。
屋根の残っているほうの建物の内部は、このようにお堂になっていました。
そういえば、11世紀の後半にはここに修道院も設立されたようです。
こちらの部分はあまり色彩があるものがのこっておらず、唯一このお堂の脇の天井が保存がよいらしく
人が訪れると、ライトがつくようになっていました。
確かこちらは古いぶぶんじゃなかったでしょうか。フレスコ画がのこっておりますね。で・・
その足元には、さっきお迎えしてくれたニャンコが毛繕いしております。
そして、ふとその反対側をみると・・別の小部屋があって、ガラスで仕切られたものがありました。
kおばちゃんでも、コレはきっと大切なものなんだろうな・・くらいのことは分かります。で、画像に納めたのですが・・どうも肝心の所を逃してしまったようです。
肝心なところはウイキペディアさまによると、このような感じで・・
これこそが、バーリの商人に盗まれた聖ニコラウスの遺骸が入っていた棺のようです。
ニャンコちゃん、ありがとうね。
このあたりだったでしょうか?天井画も綺麗にのこってますね。
そういえば、こんなロシア文字(キリル文字?)の銘版もありました。
この教会堂は近世1863年にロシア皇帝アレクサンドル2世によって、修復されようと下らしいですが・・まあ終わらなかったということらしいです。
で、近年になってトルコ政府は発掘に力をいれ始めている・・ということですかね。
そうそう、ところでタイトルにもある聖ニコラウスはトルコ人かどうかということですが、それは、トルコ人とは何ぞや・・と言う事にも関係するでしょうね。
一般的に『トルコ』という国家はセルジューク朝Selçuklularのころからの概念ではないでしょうか?
セルジューク朝はイスラム王朝の一つ、11世紀に現在のトルコの地であるアナトリア半島に進出してきたのではないでしょうか?
この聖ニコラウスの教会にしてもそのあたりになると、遺骸が商人に盗まれるほどほっておかれる存在になっていたんでしょうね。
聖ニコラウスはこの近くの出身で、この地で没しているということは地理的には現在の『トルコの人』ではありますが、民族的にはそうではない・・リキヤ人ということになるのでしょうね。
初期キリスト教の文化の華やかだった頃には、このあたりにその花が咲いていたんだろうな・・でも、イスラム教圏のトルコという国家になってしまってから・・特にオスマン朝以降は、忘れ去られた文化になってしまったんだろうな・・なんて思いを馳せながら、kおばちゃんの見学は終わりました。
さあ、ゲートを通って外に出ましょう。
昼間は、あまりの暑さに窓をあけたり、エアコンをいれてもらったりの天候。
くだらない国会劇場が開幕したようだけれども、国外のニュースでは鼻も引っ掛けられないような内容で寂しい限り。
そういえば、今回の旅行の前に大騒ぎしていたBAのストライキ。kおばちゃんもまさに引っかかる予定ではらはらしていたのだけれど、裁判でストライキを停止だったから良かったけれども、今度もまたイースター休暇を狙ってストライキを計画しているとか。
まあ、ストライキの出来るうちはいいですよね。鶴丸さんのようにならないでね。
なんて余裕の発言ができるのは、自分に被害が及ばないとわかっているからですね。なんて身勝手なkおばちゃんでしょうね。
○12月29日(火)
無事Myraというか通常はデレムDemreという名前の町の一部分でその名の方が通常のような町で、ノエル・ババNoel Babaこと聖ニコラウスの遺構を尋ねることができたkおばちゃんです。
つまり、普通にトルコ人に尋ねるときは『デレムのノエル・ババはどこですか?』となるみたいですね。
ところで、ここは聖ニコラウスの何か・・というと、どうもお墓の上に建てられた教会のようです。
教会堂そのものは6世紀に建てられたものだけれども、8世紀以降に建てられた部分が残っているようです。
入り口からしてこんなフレスコ画が
こちらもはっきり残ってますね。
全盛当時はもっと綺麗だったんでしょうね。
ところで聖ニコラウスのお墓というは棺はこれでしょうか??
なんか無防備過ぎる気が・・
どうも聖ニコラウスの遺骸そのものは、イタリアのバーリBariの商人にー1087年に盗まれてしまったということで、現在この地にはないそうです。
まあ、
棺の周りにもフレスコ画が描かれてします。
この辺りは、屋根がもうなくなってしまっていますね。きっと当時のキリスト教のおエライさん達が葬られていたんでしょう。
外に出てみると、ここは石塀で仕切られているようです。
教会の建物物の方はこんな感じですが、
こちら側(見学口から遠いほう)には屋根が残っているみたいですね。
屋根の残っているほうの建物の内部は、このようにお堂になっていました。
そういえば、11世紀の後半にはここに修道院も設立されたようです。
こちらの部分はあまり色彩があるものがのこっておらず、唯一このお堂の脇の天井が保存がよいらしく
人が訪れると、ライトがつくようになっていました。
確かこちらは古いぶぶんじゃなかったでしょうか。フレスコ画がのこっておりますね。で・・
その足元には、さっきお迎えしてくれたニャンコが毛繕いしております。
そして、ふとその反対側をみると・・別の小部屋があって、ガラスで仕切られたものがありました。
kおばちゃんでも、コレはきっと大切なものなんだろうな・・くらいのことは分かります。で、画像に納めたのですが・・どうも肝心の所を逃してしまったようです。
肝心なところはウイキペディアさまによると、このような感じで・・
これこそが、バーリの商人に盗まれた聖ニコラウスの遺骸が入っていた棺のようです。
ニャンコちゃん、ありがとうね。
このあたりだったでしょうか?天井画も綺麗にのこってますね。
そういえば、こんなロシア文字(キリル文字?)の銘版もありました。
この教会堂は近世1863年にロシア皇帝アレクサンドル2世によって、修復されようと下らしいですが・・まあ終わらなかったということらしいです。
で、近年になってトルコ政府は発掘に力をいれ始めている・・ということですかね。
そうそう、ところでタイトルにもある聖ニコラウスはトルコ人かどうかということですが、それは、トルコ人とは何ぞや・・と言う事にも関係するでしょうね。
一般的に『トルコ』という国家はセルジューク朝Selçuklularのころからの概念ではないでしょうか?
セルジューク朝はイスラム王朝の一つ、11世紀に現在のトルコの地であるアナトリア半島に進出してきたのではないでしょうか?
この聖ニコラウスの教会にしてもそのあたりになると、遺骸が商人に盗まれるほどほっておかれる存在になっていたんでしょうね。
聖ニコラウスはこの近くの出身で、この地で没しているということは地理的には現在の『トルコの人』ではありますが、民族的にはそうではない・・リキヤ人ということになるのでしょうね。
初期キリスト教の文化の華やかだった頃には、このあたりにその花が咲いていたんだろうな・・でも、イスラム教圏のトルコという国家になってしまってから・・特にオスマン朝以降は、忘れ去られた文化になってしまったんだろうな・・なんて思いを馳せながら、kおばちゃんの見学は終わりました。
さあ、ゲートを通って外に出ましょう。