ブログを綴るようになり、日本語は、実に奥が深い言葉だと、ますます思うようになりました。
とは言っても、私は使用できる語彙は貧弱そのもの。
公開して文を綴っている自分の所作が、無性に恥ずかしくなることもあります。
そういうときは、開き直るしかありません。
ブログは文章の上手下手は、関係ない。
素直に心情を吐露し、自分の気持ちを見つめ励ます日記のようなもの、と思うようにしています。
私が愛読している大切な書物ですのに。
読書中にコーヒーをこぼしてしまい、ブックカバーが染みだらけに。(涙)
含蓄ある文章に私は惹かれ、最近は気が向いたところを読み続けています。
私が今再々読している草柳大蔵氏の著書「花のある人 花になる人」に、日記について、アミエルの言葉を引用した個所があります。
その言葉に、私は心から共感を覚えましたので、その文節を、前記事に続いてご紹介させて頂きすね。
<日記とはペンを手にした瞑想であるといったのはアミエルです。
中略
「生きるということは、日ごとに快癒し、新しくなること、また自分を再び見出し、回復することである。日記は孤独なものの心の友であり、慰めてであり,医者である。毎日のこの独白は祈りの一つの形式であり、魂とその本体との会話であり、神との対話である」
ここまで自分を純化できれば、日記は反省の場になるでしょう。でも自己純化はなかなか難しいでしょう。しかし生きることは日ごとに快癒し、新しくなること。また自分を見出し、回復することはできるのではないでしょうか。いやその様な日々を送っていただきたいと思うのです。>
こんなに堅苦しい気持ちでブログを書いている人なんていませんよね。
ブログを綴る作業は、文章を書く能力もなく話題にも乏しい身には、苦労を伴うものだけれど、
思いを整理し、自分を見つめ直す充実したひと時であることも確かです。
ブログを書くことで、日ごとに快癒し新しくなることができれば、本当に幸せなことですね~
そのくらい価値ある、早朝のひと時にしたいものです。
50代のころ読んだ草柳大蔵氏の他の著書です。
両本とも、傍線がいっぱい引かれ、自分磨きの健気な努力の跡が……。(笑)
最初から、文が思わぬ方向に流れてしまいました。
今日話題にしたかったことは、タイトル通り、日本語の奥の深さについて語りたかったのです。
もっと具体的に述べれば、漢字の奥の深さと言うべきでしょうか。
なぁ~て、大袈裟な表現。
身の程知らずでした。
夫婦の間で交わされた他愛ないエピソードをお話するだけに過ぎません。
私は毎朝、旦那さまの一通りのお世話の一回目を済ませます。
お食事を食べさせてあげ、ストマーのパウチ袋の汚物の処理、ドレーンの挿入口の消毒と滅菌ガーゼによる手当をします。
その後、20分くらい両足にマッサージを施しています。
足をさするようにそっと揉むのですが、その最中、文庫本をそばに置き、旦那さまに読んで聴かせてあげている私です。
Yさんは、肝臓がんの手術を行った後、目の難病が発覚しました。
それが進行し、数年前から読書もテレビの視聴も出来なくなりましたから。
意外にもYさんは、私の読み聞かせに素直に耳を傾けてくれます。
今は、新聞の連載小説になった井上靖著の小説「星と祭り」を読んでいます。
紹介分に惹かれネットで購入した中古本です。
現代の流行作家の著書より、昭和の書物や古典に惹かれる私。
感性に似たものがあり素直にその世界に入っていけ、心が、とても落ち着きます。
夫は、特別好きな作家ではなかったようですけれどね。
或る時は、私の読み違いを指摘され、夫の博識に改めて驚いたり、と。
いえいえ、私が非常識なだけです。
ヒマラヤ山脈の山の一つを読み間違えたところ、旦那さまに、
「マナスルだよ。この山を読み間違えるなんて、恥ずかしいことだ。
日本人が最初に登頂したヒマラヤの山ではないか」
と。
一方、私も、読み方に自信がない漢字は、度々夫に尋ね確認します。
夫婦揃っての、ほんの15分程度の読書タイムに過ぎませんが、私にとっては国語の学習時間にもなっています。
つい先日の事。
私から、最近とても気にかかっていたことを質問をしました。
「あなたは、~がわかる、といった文を書いた時、わかるにどの漢字を当てるの?」
「判断の判かなぁ~、」と、旦那さまが答えました。
「あなたも、やっぱり『判』」
「実は井上靖も、わかるはすべて判を使用しているのよ」と私。
すると旦那さまが言いました。
「その人の好みで変わるよ。恐らく井上靖は、その字が好きなのだろう」と。
「好み」の意外な言葉に、漢字の奥の深さをチョッピリ理解したような気持ちになり、私なりに納得。
更に私は言いました。
「私が読んでいるカテゴリーのブログでは、理解の『解』が使用されていることが多いの。
私自身は、それを見るといつも迷うのだけれど・・・・・・。
分がどんな言葉にも当てはまる無難な使用に思えて、この字を当てること私は多いわ。
解は、ちょっと堅苦しいイメージに感じるの。
私の好みではないということかしら。
これからは、私も『判』を使用しようかしら」
二階の寝室と居間につながる夫の書斎。
壁面がすべて書棚になっています。
漢字には、すべて固有の意味がありますが、例えば「みる」を取り上げると。
これも受け売りの引用です。
<論語に『そのなす所を視、その因る所を観、その案ずる所を察(み)れば、人いずくんぞかくさんや』という言葉があるそうです。
その人が何をするか、どういう方法でするか、どうすれば満足するか、と言うように慎重に観察すれば、人間だれしも自分を隠すことができない、という意味のようです。
この文で使用されている「視」「観」「察」ですが、視よりも観、観よりも察がさらに詳しく「みる」ということになるようです。
察には、「気配を察する」「心中をお察しす」等のように、「察」には目に見えないものを見るという意味もありますが>
「みる」の漢字も、綴る人の好みで、使用頻度が変わってくるのでしょうね~
私は恐らくふさわしくない漢字、あるいは間違えて、当て字を使用している事もよくあるに違いありません。
恥ずかしいことかもしれないけれど、ブログでは、他の方の記事でそれに気が付いても、私は特別気になりません。
私は、他のブロガーさんに間違いを幾度か指摘されたことがありますけれどね。(笑)
私は指摘するほど、自分の言葉の使用に自信もないし、その辺は自他ともに、実におおらかです。
文才を認められている旦那さまが、私のブログ記事の言葉の使用の間違いを見たらどうでしょうか。
ヒマラヤの山の名称をの間違いを指摘された時同様に、「日本人として恥ずかしいことだ」と言われてしまうかも。
幸いにも、私の夫は、ブログに全く興味がない人。
開設後、私のブログを一度も覗いたことがありません。
この幸運を喜びましょう。
徒然なるままに、私の思いを、勝手に書きましたが・・・・・・。
ブログを綴るときは、日本語を大切に扱う心がけを、多少でも常に忘れないようにしたいもの、とも思っています。
ご覧下さいまして有難うございました。
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花のように泉のように