今日が一番素敵

丁寧な暮らしを心がけながら、日々、折々のの心模様を素直に語ります。
今が一番素敵との思いを込めて。

その後、楽しい事もいいろいろ

2016-04-10 08:40:05 | 日記

夫が亡くなり、四か月以上が経過しました。

厳しい寒さも和らぎ、本格的な春の到来です。

ほの暖かな優しい日差しに当たると、私の心は癒され、幾分でも元気が湧いてきます。

冬の寒さは、心を、時に一層重くしていましたから。

今年は、春の訪れが、殊更嬉しくて・・・・・・。

 

とはいえ、真冬の間も、家に籠って一人寂しく暮らしていたわけではありません。

週末は、ほとんど次女宅に招かれ、一緒に夕食を共にしてきました。

 

かれんちゃんのお部屋が、元K君のお部屋だった広い場所に移りました。

 

今春から小5になる孫息子K君のバイオリン発表会に、小さなブーケを手にして、出かけもした私です。

けれど撮影禁止で、孫の晴れ舞台を写すことができなくて残念。

多くの先生方の教え子たちによる、合同発表会だったからでしょうか。

何だか難しそうな曲を、一か所つかえただけで、見事に弾きこなし、胸をなでおろしたばあばです。

 

次女宅で、長女家も一緒に、ひな祭りの会もしました。

初節句の時、私から贈ったお祝いののひな人形です。選んだのは娘です。

 

妹と、エルメス劇場に出かけ、久々の映画鑑賞も。

今もいろいろなシーンが心に刻まれている私です。

印象的な美しい映像の映画でした。

題名は、「青いパパイヤの香り」。

すみません。詳しい説明は省略させて頂きます。。

 

 

 エルメス本店 総ガラス張りのモダンな建物。

 

先月の26日には、さっちゃんと私のお誕生会が、長女宅で開かれました。

さっちゃんの中学合格祝いも。

久々の長女宅でした。

インテリアは変わり映えしないけいれど、いつ訪ねても、開放的な空間が本当に素敵!

 

  

さっちゃんは、クラスでいつも先頭のおちびさんでしたのに
お兄ちゃん同様、急に背が伸び始めています。
お顔が小さくて八頭身のよう。

私からのささやかなお誕生祝の贈り物

 

29日には、ご近所の仲良しさんと三名で、目黒川沿いの桜のお花見にも出かけました。

ご近所に心から信頼できる友人達がいることを、とても心強く嬉しく思っている私です。

お花見の最中に、私が手付まで払ったのに、長女夫婦に譲ってしまったマンションの前に、いつの間にかたどり着きました。

なんだか懐かしさ一杯で、感激。

譲らなければ、高額のお家賃が入って、今、悠々自適の暮らしだったのですけれど・・・・・・。

管理が行き届いているのでしょう。

新築当時と変わらない美しいマンションを見て、一瞬、残念な思いが、また心をよぎりました。

友人達は、そのあと見た億ションよりもこのマンションの方が素敵、と褒めてくれました。

でも、それで終わり。

もう過去の事です。

チョッとした面白いハプニングが、そこでありました。

またいつか詳しくお話しさせて頂きますね。

 

目黒川沿いの桜。
まだ七分咲きのところが多かったです。

 

そして4月2日は、ママ友さん達とのお食事会で、麻布十番の和食処へ。

次女が中学入学以来のお付き合いですから、星霜の歳月を思うと感慨無量です。

もうメンバーのうち、三名の方が亡くなられました。

未亡人は、私とIさん。

脱会した方、全く見えなくなった方、色々ですが、メンバー数が減りながらも細く長く、三十数年来お付き合いが続いています。

目にも明らかに体の不調がわかる方も、その体を押してまで参加して下さっていました。

パーキンソー病を長期にわたり患っていらしたUさんもそうでした。

年初に亡くなられ、その寂しさはひとしおです。

厚い信頼関係がある私達ゆえ、外観の変わりようにもひるまず、参加してくださるのでしょう。

私も同様の状況になった時には、そうありたいもの、と願いました。

辛い時こそ支え合うのが、本当の友情ですものね。

私も一杯元気をもらって、帰ることができました。

 

 

更に、先週末は、今春小5になった孫息子のK君と、上野国立科学博物館で催されている恐竜展へ。

初孫のR君とも何度も通ったところです。

涙が出そうになるほど心優しいK君と、気もぴったり合って、童心に帰っての本当に楽しい一日でした。

この時の写真を収めたメモリーカードは、次女宅に預けたままなので、画像のアップができません。

次回の一連の投稿時に、詳しくお話したいと思います。

今後も、楽しみにしている親友とのイベントがまだあります。

 

 宮島の厳島の鳥居

 

語るのが最後になりましたが、一大イベントが、もう一つ。

お彼岸中に、郷里の広島にお墓参りに出かけ、二泊三日の一人旅をしたことです。

久しぶりの一人旅で、思いがけないハプニングにも見舞われ、かなり慌てましたが、何とか無事に戻ることができました。

脱いだ衣類と貴重品を収めたロッカーのキーが、温泉浴場で無くなって大慌て・・・・・・

カメラの充電が切れかけていたのに、旅行に充電器を持ち合わせなかったり、と。

楽しいながら、少々疲れた珍道中でしたが・・・・・・。

お墓参りはその間二度し、心満たされて帰途に就いた私です。

 

ハイライト的に述べてきた話題を、次回の一連の投稿時では、もう少し詳しく綴りたい、と思っています。

けれど、記憶が持つかどうかが怪しくて心配。

勝手ですが、またしばらくお休みを取らせていただきます。

 

次回の投稿までの間隔をできるだけ縮められるように頑張りますね。

そのためには、もっと文章を短くし、アップする画像も少なくしなければ。

文章を書くことへの苦手意識が強いのに、どうして苦労してまで、こんな長い文章を、私は書くのでしょう。

変な私です。

 

拙い長文にもかかわらず、最後までお付き合いくださいまして、本当に有難うございました。

たくさんの応援もいただき、心よりお礼を申し上げます。

春爛漫の良い季節。

ご自愛の上、心ゆくまでお楽しみ下さいませ。

 

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春の庭~私を元気にしてくれるガーデニング

2016-04-09 07:41:14 | ガーデニング

病院への愚痴を書いてしまい、少々恥ずかしく思っています。

記事をすべて削除しようかどうか迷うほどに悩み、落ち込んでしまいました。

過去の辛い経緯が、生々しく蘇りもして・・・・・・。

昨日の記事は、一部削除したうえに、追記にて同様の思いを簡単に書いています。

次女夫婦に相談すると、「そのままでいいんじゃないの」と。

その一言で、削除しないことにしました。

ご閲覧下さった方達は、お読み苦しかったことでしょう。

申し訳ありません。

 

ツルニチニチソウ

 

さて、重たい事を語ってしまいましたので、今日は一転、心に潤いを与えて止まないガーデニングのお話をさせて頂きますね。

その前に、また少々愚痴っぽくなりますが、私のガーデニングにおける、後悔しきりの反省の件について。

 

蘭、その中でも胡蝶蘭ほど、高貴で華やかな花姿の植物は、他には見当たらないのかもしれません。

バラと、甲乙つけがたいといったところでしょうか。

そのうえ蘭は、手入れが余り要らず(?)、日持ちも良く、長い期間その美しさを鑑賞できる。

そうではありませんでしたかしら?

 

蘭のお花は既に幾度もアップしてきました。

ですから、今日は我が家の春の庭の光景を、記事の内容に関係なくご紹介していきます。

 

ところが、私はこの両方の花とも、世話を焼くのが苦手中の苦手。

よく枯らしてしまいます。

枯らさずとも、花が付くことはまずありません。

最近も、同様の失敗を重ねてしまい、いまだに残念な気持ちが拭い切れません。

供花として送り届けて下さった友人お二方さまに、申し訳なくてしかたない私です。

 

 

Kさんから頂いた大きな胡蝶蘭は、根腐れで、葉が溶けるかのように柔らかくなり、枯れてしまいました。

やはり友人からいただいた、もう一つの胡蝶蘭も、似た病状が出ています。

何と胡蝶蘭展での入賞作品のようです。

但し、こちらはかろうじて、まだ葉が緑を帯びているので、何とか生き返らせたいと、適切な手入れをするべく、こまめに観察しているところです。

高価なお花でしょうに、なんとした私の不誠実さ。

恥ずかしくてなりません。

罪悪感さえ、覚えます。

夫が勤務時に在籍したある部署のOB会から、三か月ほど前に頂いた胡蝶蘭のみ、まだ元気です。

これは枯らしてなるものか、と自分に言い聞かせてはいるものの、自信は全くない私です。

 

 

スカピオサ・イベリス・フォックスリータイム・ヒデンス等

寄せ植えにしました。地味だけれどそれなりに気に入っています。
お花がもっとたくさん咲けば華やかになってくれるでしょう

 

枯れた原因は、仏間の和室は北向きで、冬の間、特に寒い部屋だったからだと思います。

それにもかかわらず、その供花を夫の傍から別の温かい部屋に移すのが忍びなくて、ずっとそこに置いたままでした。

寒さにさらされ、そのうえ冷たい水をやり過ぎたせいによるのではないか、と思っています。

 

胡蝶蘭は、供花にはとてもふさわしいお花ですね。

仏前が清々しく麗しい場となり、その優雅な優しい花姿が私の心を灯すように、慰め癒してくれます。

 一層の事、自費で買い直し、もう一鉢、旦那さまのためにお供えしようかしら、と真剣に今、考えています。

次女の私へのお誕生日プレゼントが、夫の月命日ごとにお花を届けてくれるものでした。

それを楽しみにもしています。

 

アイスバーク・イングリッシュラベンダー・アサギリソウ

 

一方、やはり手入れが苦手なバラは、今のところ、割と元気。

めちゃくちゃの自己流でも、強剪定をしたのがよかったのでしょうか。

去年は、アイスバークが一輪も花をつけてくれませんでしたが・・・・・・。

今年は、純白の美しい花に出合えそうな予感がし、期待で胸が膨らんでいます。

 

 

植えて15年以上になる、モッコウバラのみは、手入れ知らずでも、いつまでも丈夫。

春先には毎年、可憐な小花をいっぱいつけて、我が家の庭を、清楚な華やぎで満たしてくれます。

この時期の庭の光景が、一年を通して一番、私は好きかもしれません。

けれど、同じころ咲くアジュガと共に、花期が短くて、たちまち終わってしまうはかなさは、なんとも残念です。

 

 

昨年末から、深い悲しみに明け暮れて、ガーデニングどころではなかった私でした。

けれど、夫が入院中の初秋に、病院近くの小さな花屋さんで求めた草花が、いずれも、いまとても元気。

リーフものを多く買い求めていたのですが、そのせいで、しっとりとした落ち着いた庭の風情となりました。

買った時期と購入場所から、その草花たちには特別の想いがあり、愛しさもひとしおの私。

夫の命が、そこで息づいているようにさえ、感じられてきます。

 

 フレンチラベンダー・マーガレット・

 

最近も、そのお花屋さんに電話をかけ、私の大好きなマーガレットをはじめ、数種の草花をお願いしました。

不愛想な中年の男性の店主さんですが、前の記事でも語ったように、店頭に置かれた草花のセンスは抜群。

そのうえ、花期の長い宿根草が多いのも、うれしい限りです。

普通宿根草は、花期が短いものが多いですけれどね。

 

この度、お電話でお願いしたときには、私の家まで届けてもいいですよ、とおっしゃってくださり、恐縮してしまいました。

もちろん、そんなご足労をかけるのは申し訳なくて、お断りしましたが。

実は、その後本当にお越し下さったのですよ。

園芸用の作業手袋まで頂戴してしまいました。

 

ハーデンベルギア

 

私が、再々、足を運びたいところですが、1時間半ほどかかるので、それも大変です。

我が町の界隈には、素敵なお花屋さんがなくて困ります。

ガーデニングの夢は限りなく膨らむ一方だけれど、経費も掛かるため、遺族年金の身には、今後は結構大変。

作業中の体力の消耗も大きいですものね~

でもガーデニングは老化防止と認知症予防にはとても良いとのこと。

ブログ綴りと共に、この二つを私の趣味にしている限り、まだ当分は、元気でいられるでしょうか。

 

実は、タニタの体重測定器によると、私の体年齢は、何と57歳。

この機器を年初に購入し、最初に測定したときは、61歳でした。

その時も、意外感一杯でびっくり!大喜びしたのですが・・・・・・。

その後、次第に益々若返り、56歳をしばらくキープ。

昨日、久しぶりに計ると57歳。

体年齢だけでなく、体脂肪、内臓脂肪、筋肉量、他、いろいろ数値になって出てきます。

この数値が、本当に信頼できるものか、半信半疑ですが、72歳になったばかりの私にしては、我が目を疑いたくなるような喜ばしい表示。

 

一昨日の一人ごはんの夕食です。
友人との食事会で、上品で美しい献立のお料理を目にし、少々反省し、奮起しました。

 

実は、悲しみに明け暮れていて、食生活もいい加減でした。

急激に老婆へなっていくような不安がありましたもの。

この意外な数値には、随分気分をよくした私です。

 

 疲れやすい体質は、今も私の泣き所ではあるけれど、ほんの少し自信も付きました。。

すっかりいい加減になってしまった食生活にはもっと気配りし、私の心の内では今も生き続けている旦那さまと共に、よき日々を過ごしたく願っています。

 

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納得のいかない疑問だらけの医療 

2016-04-08 07:34:01 | 家族

今日これから述べることは、もしかすると、私の独断と偏見かもしれません。

他の言葉で言い換えるなら、単なる、大変お世話になった医師への愚痴。

少々恥ずかしいですが、夫が入院中の時から、納得のいかないまま、私の心の内でくすぶり続けていたことを、正直に書かせていただきますね。

読み流してくださいませ。

 

私は、いつも娘たちに言っていました。

「食べることでしか、パパは命を繋げないの。

だから、いろいろ工夫をして、少しでも食べ物を口にいれて上げるようにしてね」

と。

病院食だけでなく、消化の良いもの、夫の好物を、せっせと私は運びました。

嚥下肺炎を起こさないように、それも、いろいろ工夫を凝らしました。

それ以来、数週間、せき込むことは一切ありませんでした。

 

今日もまた桜の画像をアップします。天まで届けの思いで

三十数年来のお付き合いが続くママ友さん達と、食事会後、お花見をした六本木のミッドタウンの光景です。

 

夫の死因は、入院保険の診断書に書かれた説明によると、衰弱死のようです。

肺炎でも、敗血症でも、心不全でもありませんでした。

まだ生き続けたいとの強い夫の思いが、私には伝わってきましたから、その願いを叶えるべく、

あらゆる手当をしてほしい、と願っていたのに・・・・・。

私たち家族も、そのために、一生懸命心を尽くしました。

 

ところが、病院では栄養補給の点滴すらしてもらえなかったのです。

私がその理由を尋ねると、「栄養補給をすると癌が大きくなるから」と言われました。

それは覚悟で、抗がん剤の投与も中止しているのにです。

 

肝臓がんを五年半前に患って以降、服用し続けていた十種類くらいのお薬とサプリメントも、亡くなる半月ほど前から、急に中止となりました。

それも、家族への断りは一切ありませんでした。

ある日病室を訪ねると、薬の袋がひとまとめにしてホッチキスで止められていました。

その理由を、また尋ねると、

「飲んでもあまり意味がありません」

との事。

本当にそうでしょうか。

私にはその様には思えませんでした。

五年間に亘って、夫の体調を整えてくれていた薬です。

すべてを突然中止すれば、体が変調をきたし、弱っていくのは当然ではないでしょうか。

 

 

亡くなる一月程前の腫瘍マーカーは幾分上がって、確か8くらいでした。

直腸がんは、現状維持のままでした。

1年半ほど前は、数値が28前後の時もありました。

夫の病状は、最悪だったわけでは全くありません。

 

抗がん剤と併用して投与する薬の種類も、突然変えられてしまったことが幾度も。

家族の承諾もなく、夫の一時的な症状のみを見てです。

自宅療養中、食欲もあり、体調も万全で特別問題がありませんでしたのに・・・・・・。

入院した当日の夜から、急に服用薬が変わり、先生に疑問を投げかけたこともありました。

その理由は、「ご主人が、昨夜とても痛がったから」の一言。

薬を変える時は、事前に家族に相談してください、と度々お願いしても、その対応はその後も改めてもらえませんでした。

 

モルヒネの投与を始めたときもそうです。

モルヒネは、夫の体には、とてもよく合っていたのでしょう。

気分が良さそうで、食欲も出ました。

次女が、「こんなに元気なパパを見るのは久しぶり」と言って、喜んだほどです。

ところがその翌日、突然、また投与薬が変わりました。

そして、今度は夫の体調がかってないほど、最悪になっているように見えました。

 

何故また急に、薬が変わったのか、私には全く理解できませんでした。

ですから、事情を話し、元の薬剤に戻してほしい、とお願いしました。

 

私が付き添っていた午後の昼下がり、若い医師が病室に訪れました。

「ご家族の要望に従い、モルヒネに戻します」

と言われ、それが点滴で投与されました。

するとやはり、夫が少しずつ元気を取り戻し、夕食も割とよく口にしてくれるようになりました。

 

 

ところがです。

その翌日からの週末の二日間、夫はほとんど眠った状態となり、食べ物も飲み物も口にできなくなってしまったのです。

週末に付きそう次女と長女に、

「何とか食事を口に入れてあげてほしいの。

工夫をして、根気よく少しづつでも長い時間かければ、パパは食べてくれるから」

と娘たちにお願いしました。

娘たちの答えは、

「そうはいっても眠ってばかりだから、食べさせて上げられないの」と。

 

土曜付き添っていた次女から、その理由を聞き、その状況が納得できました。

私は、腹立たしさを通り越し、憤りを感じました。

先生のお話だと、夜、夫が痛がったので、眠らせるのが一番良いと思い、モルヒネの量を増やしたとの事。

またまた家族への説明は一切なく、勝手に治療方針を変えてしまわれた先生に対する不信感は頂点に。

週末の二日間、私はいらいらして、気持ちの整理がつかなくなりました。

 

日曜日も、相変わらず眠ったまま。

食べものも飲み物も、口にほとんどできない状態で時間が経過していったようです。

栄養補給の点滴もしてもらえないままです。

そしてお昼過ぎくらいでしたでしょうか。

長女から、時々無呼吸の症状が現れている、との先生のお話の内容の報告を受けました。。

 

 

モルヒネの量を、家族の承諾もなく増やし、夫を眠らせる処置を勝手に採られた先生へのいら立ち。

それが一向に収まらないでいる時に受けた、無呼吸の症状の報告。

私の心は張り裂けそうになりました。

 

 私は、医師にかかているときは、医学情報をネットに頼ることはあまりしません。

医師を全面的に信頼し、その先生の指示通りに動くことが、一番精神的にも楽で迷いもなくていいからです。

T大病院から転院を言い渡され、助教授の医師から紹介を受けた病院の担当医は、若夫婦よりも数歳若い人でした。

そのため、私は転院した当初から不安がありました。

夫の命を、こんな若い先生に預けて大丈夫かしら、と。

その不安は、入院中、増幅する一方でしたが・・・・・・。

また転院するエネルギーもなく、医師への気兼ねもあって、私は抱く疑問や不信感をストレートに語る勇気はありませんでした。。

 

けれど、できる限り信頼して、素直についていこうとの思いも、そこまで。

あまりに心配で、夫が亡くなる前日は、検索を続け、ネット情報にすがるようにして、日を過ごしました。

すると、ある記事に、モルヒネを打つ対処法に頼りすぎるのは、良くない。

それが理由で、無呼吸となり命を落とすこともある、といったような事が書かれていました。

 

私は、心が張り裂けんばかりのいたたまれない心境から、娘に電話をし、言いました。

「モルヒネの治療に戻してほしいとはお願いはしたけれど、量を増やすように頼んだ覚えは全くない、と先生に伝えてほしい」

と。

娘が、その通りにしてくれたかどうかは判りません。

その日、長女は、夫が眠ったままなので、食事をを食べさせるのは諦めて、いつもより早めに病室を出たとのことでした。

 

 

その翌朝の、早朝の事でした。

「ご主人の血圧が異常に下がってきたので、至急病院にきて下さい」との看護師さんからの電話。

私は、思わず、強い口調で言いました。

「投与するモルヒネの量を減らしてください」と。

 

すぐに病院へ早朝、タクシーで駆けつけた私です。

その朝の、十時十四分に、夫は亡くなりました。

奥さんの要望通りに、モルヒネの量を減らします、と言われ、投与を始めた途端、みるみる夫の血圧が下がっていき、数分後には。

 

半年くらい経過し、私の暮らしがすっかり落ち着いたころ、担当医にお会いして、私が治療中に抱いた疑問点をすべてお話しようと思っています。

今伺っても、私は冷静に話す自信がありませんから。

むろん今更、先生を責めるつもりはありません。

まだお若い先生なので、私の意見が、今後の治療における参考となり、役立てば、との思いでいるからです。

 

家族の承諾もなく、勝手に治療方針を変えていいものかどうか。

栄養補給の点滴を何故してもらえなかったのか?

この点が、一番伺いたいことでしょうか。

 

書き忘れましたが、放射線治療を開始した時も同様でした。

その治療を検討しているとのお話が前日あった時、そのタイミングは慎重に図らないといけないことくらいは、私でさえ判ることでした。

ところが翌日、夫の病室に入ると、夫のベッドがなくなっていました。

放射線治療の承諾書に、後で事後承諾の形でサインをさせられました。

まだ痛む箇所がはっきりしていない状況の時のことです。

その性急さに私は呆れ、少々憮然となりました。

お会いしたときには、このことも指摘したい、と思います。

 

 

肝臓がんの治療の時と同様に、もっと良い医師を探す努力をすべきであった。

紹介、紹介の連続で、そのレールから降りることができませんでした。

その点の不運を思わないではいられません。

(この部分の数行は、削除しました。記述の内容に偽りはありませんでしたが、書き過ぎの感がしてしまいました)

 

皆さまは、良き医師に治療をしてもらう努力を怠らないようにしてください、と声を大にして申し上げたい気持ちで一杯です。。

不信感が甚だしくなった時は、転院の勇気も持ってください。

掛け替えのない大切な大切な命の灯が、納得のいかない治療で消されてしまうのは堪えられません。

転院してでも、夫の命を守ろうとする努力が足りなかった自分の不甲斐なさが悔やまれ、辛い気持ちがまだ拭い切れていない私です。

 

追記

すみません。少々書き過ぎの感がしてしまい、気持ちが落ち込んでしまいました。

記事を削除するべきかどうか、今、大変迷っています。

 

 

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悲しすぎる不運な出来事 

2016-04-07 07:35:09 | 日記

今日もまた、携帯電話のお話です。

病室の夫と私を結びつけてくれた、この電話の恩恵は、計り知れないものがありました。

まだ夫が割と元気な頃も、入院中、私は頻繁に夫に電話をかけました。

一方、Yさんから私にかけてくる頻度が異常なほど増したのは、亡くなる一月ほど前あたりからだったでしょうか。

ところが、夫が亡くなる一週間くらい前の事。

その見守り携帯が、突然故障してしまったのです。

コードを差し込む箇所が具合が悪くなり、充電ができなくなってしまいました。

 

私は、とてつもなく慌てました。

今の二人にとり、携帯が使用できない暮らしは考えられませんでしたから。

私の声を聞くことが、旦那さまの心の安らぎ、気力を奮い立たせる原動力になっているように感じられたからです。

 

 

 

故障の箇所を販売店で即日修理してもらえるのなら、その手立てを取るべきだったのかもしれません。

しかしその時は、大変なことになってしまった、と思いが強い余り、性急な対処をしてしまいました。

その後の不都合を知るすべもなく・・・・・・。

翌日病院に出かける前に量販店によって、すぐ新しい見守り携帯を購入しました。

 

お店の方が、

「古い携帯は処分してもいいですか?」

と問われたので、そのようにお願いしてしまった私です。

想い出品として、取っておくべきでした。

処分しなければよかった、と後悔しきり。

今も悔やまれます。。

 

 

眼の悪い旦那さまの視界に入りやすいように、と派手な色の物を選びました。

ところがです。

時々頭が繊毛状態になり、的確な判断が難しくなっていった旦那さまにとっては、新しい携帯の操作は、不可能でした。

今までの携帯のように一回のワンタッチでは、すぐつながりませんでしたから。

私も扱い方を戸惑うほどでしたので、無理もありません。

 

悲しい事に、それ以来、Yさんから電話が一度もかからなくなりました。

今でもその不運を思うと、悔し涙が溢れそうになります。

それは、亡くなる一週間ほど前からの事でしたから。

おそらく携帯の故障が、夫の死期を早める原因の一つになったのではないか、と思えてなりません。

 

 

 

亡くなる前日の日曜日の事です。

私は週末は休養日にしていましたから、その日は長女が夫に付き添っていました。

長女に、お願いしました。

「新しい携帯は、パパが操作するのは無理のようなの。

だから、看護師さんに、病室に来たときは必ず携帯をかけて、夫に手渡すようにお願いしてね」

と。

けれど結局、新しい携帯に替えて以後、夫からの電話で、私の携帯のメロディーが鳴る事は一度もありませんでした。

 

長女のMちゃんは頼んでくれたのかもしれませんが・・・・・・。

土曜日から、モルヒネの投与量が増やされ、ほとんど眠った状態で、食事も水分も受け付けなくなってしまっていたのです。

次女の話によると、

「痛みを楽にするために、そのような対応を採った」

との担当医のお話だったようです。

 

画像は、すべて我が家の周辺にある、二つの公園の桜です。

 

家族への説明はいつもほとんどなく、治療法を勝手に変える先生。

私の抱く疑問と不信感は、常日頃相当なものがありました。

モルヒネの量が増えたことを娘から聞かされた時は、憤りを感じました。

相変わらず、家族の承諾も取らないままだったからです。

その週末は、私の先生への苛立ちは、頂点に達しました。

この翌々日、最悪の事態を迎えてしまった夫です。

私のこの苛立ちが、虫の知らせだったのかもしれません。

明日に続きます。

 

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続 携帯電話の悲しく辛い想い出

2016-04-06 07:31:37 | 家族

今日も、見守り携帯のお話です。

既に以前の記事で、夫が幾度も私にこの小さな携帯を使用して、電話をかけてきたお話しをしました。

私は、それをラブコールと表現したようにも。

その電話は、昼夜を問わずかかってきたものです。

亡くなる二か月ほど前あたりからでしたでしょうか。

骨転移の激痛に、いくら忍耐強い旦那さまでも耐えられなかったのでしょう。

 

ここまで書いただけで、反省の気持ちで心が疼き、涙が溢れそうです。

夫の痛みをもっともっと理解して上げ、もっともっと長い時間、寄り添って上げるべきではなかったか、と。

緩和ケアー病棟に移る手続きをもっと早くすべきではなかったか、と。

緩和ケアー病棟がある病院への転院は、昨夏の夏ごろから真剣に検討していたのですが、担当医の「最後まで私が診ます」の言葉を信じたばかりに・・・・・・。

夫を一層苦しめることになってしまいました。

この言葉が、偽りであることに気づかされたのは、亡くなる数日前の事でした。

「小康状態」と言われ、転院を勧められたのでした。

 

「君の声を聞きたかっただけだ」と言って。

真夜中に電話がかかってくる事も、よくありました。

時にはその真夜中に、「お願いだ。すぐ病院に来てくれ」とも言われました

 

我が家からほど近いところにある公園の桜です。

 

私は、無理をし過ぎると、自分の体が持たなくなり、共倒れになっては最悪との思いが常にありました。

それだけではなく、これ以上は頑張れない、との私の勝手な気持ちによるところもありました。

ですから、夫にその様に懇願されても、お昼過ぎに家を出て、消灯時間の八時まで病室で付き添い、九時半過ぎに帰宅する、を厳守しました。

 

けれど一方では、そんな自分の態度を申し訳なく思う気持ちもありました。

ですから、携帯に電話がかかってきたときには、昼夜を問わず、精いっぱい、真心を込めて優しく応えるようにしました。

「電話をかけたくなったら、早朝でも真夜中でも構わないから、いつでも電話してね」と言いました。

私の声を聞くだけで、多少でも痛みと闘う気力が湧き、元気を回復してくれるのであれば、こんなに嬉しい事はありませんでしたから。

 

電話がかかってくる頻度は、病院へ着くまでの時間帯が一番多かったです。

私の到着が待ち切れないように、十数分間隔で、携帯のメロディーが鳴ったものでした。

或る時は、病室に到着すると、ドアーを開けるなり、私の名前で声をかけてきました。

「よくわかったわね~」と言うと、

「足音で君だと思ったよ」

という旦那さま。

 

  

 

弱音を吐かず、妻とはいえ、決して頼ったりしない、独立自尊の人だった旦那さまです。

足音にも耳をそばだてて、私が来るのを待ちわびるYさんの変わりように、驚くとともに、愛おしさで胸がいっぱいになりました。

他にも、似た感情が押し寄せる意外な言葉を、そのころの夫から度々受けました。

 

例えば或る時は、ベッドのそばに腰かけていた私に向かって、

「君、立ってくれ。一周くるっと回ってくれ」

「どうして?」

と、つい尋ねはしたものの、私は素直にその通りにし、咄嗟に、

「素敵な奥さんでしょ?」

と冗談ぽく返しました。

私の全身を、目に焼き付けたかったのでしょうか?

 

 

亡くなる数か月前から、私の存在意義が、みるみる大きくなっていくのを感じ、切ないながらも、私は夫への尽くし甲斐の喜びに浸っているところがありました。

そして、私たち夫婦の絆を、離れていても固く結んで付けてくれるものが、夫の見守り携帯と私の携帯だったのです。

しかしその携帯に、不運な出来事が襲いました。

この続きは明日に回します。

 

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携帯電話の辛く悲しい想い出

2016-04-05 07:24:11 | 家族

今は、スマホ使用が当たり前の世の中ですのに、私はその機器には見向きもせず、ガラケーを長年使用してきました。

そのうえ、ヤフー画面の誘惑に負けないように、キッズ用に設定して、ネット使用は禁止はしています。

スマホに変える気は全くありませんが、ガラケーが製造中止になれば(そんな噂も、ちらほら耳にする昨今)、そうはいかなくなるでしょう。

その頃には、スマホの通信料も今よりずっと安くなり、操作方法も簡単になっているに違いありません。

 

シンプルで操作方法が一番簡単な携帯と言えば、子供たちがよく使用する「見守り携帯」でしょうか。

通信できる相手も、親など数人に限られますから、その特殊性から携帯とはいえ、異種機種と言うべきかもしれません。

実は私の夫は、この見守り携帯を長年使用していました。

Yさんは、携帯に全く興味がない人でしたが、ある時、ソフトバンクの販売店の店員が私に勧めたのがこの機種。

「通信料も一月500円の定額制で、とても安いですから」と。

一瞬迷いましたが、夫に無断で購入し、持つようにしてもらいました。

 

 せめて桜の咲く季節までは夫を生かしてあげたかった、との思いが強い私です。
旦那さまに、その桜を観てもらいたくて、しばらくその画像ばかり載せていきます。
花曇りの白い空の上、私の腕も未熟で、拙い写真ばかりですが。
お花見の記事は、次回の一連の記事の時までお預けになりそうです。

 

その後、言うまでもなく、その見守り携帯は大変重宝しました。

目を難病で患ってからは、特にそうでした。

視野が狭まってしまって、人の顔の識別も困難になった夫には、普通の携帯の操作は無理。

その点、私が購入した見守り携帯は、ワンタッチで対応できる電話機です。

目が不自由な夫でも、操作できました。

 

夫が入院中は、むろん役立ったことは言うまでもありません。

けれど、旦那さまから私に電話をかけてくることはめったにありませんでした。

夫は独立自尊の人でしたから。

 

「独立自尊」 この言葉が思い浮かび使用したものの、本当に夫の人柄を表す表現として適切か、少々自信がなくて・・・・・・。

すぐ、検索して調べました。

福沢諭吉の言葉なのですね~

独立自尊とは、人に頼らずに自分の力だけで事を行い、自己の人格・尊厳 を保つこと。

これを目にし、私の言葉の選択は間違っていなかった、と思いました。

 

 

夫は病気になってから、最後の厳しい状況に追いやられるまでは、愚痴弱音を一切吐かず、病気と一人で静かに対峙し闘い続けているようなところがありました。

心配し、気を遣いすぎると、かえって嫌がるような人でした。

ですから、病院から私に電話をかけてくるのは、用事がある時のみ。

一方、私はうるさがれても、やはり気になります。

病院に出かけない日は、1日に2~3回は電話をかけました。

 

しかし、今になって思うことは、本当はもっと寂しがり屋の人だったのかもしれない、と。

亡くなる一月前あたりから、旦那さまの私への態度が急激に変わったからです。

でも、私には、とても嬉しい事でした。

独立自尊の精神の時の旦那さまは、ちょっと近寄り難いような尊厳が漂っていましたから。

秀才の夫に対し、鈍才の妻、との意識もずっと潜在的にありました。

だからと言って、私は自分を卑下はしてはいませんでしたけれどね

 

目黒川沿いの桜並木。
先週、近所の仲良しさんたちとお花見したときの写真です。

長女夫婦は新婚時代、この桜並木沿いのマンションに住んでいました。

初孫の誕生で、私も夫も孫会いたさに心を弾ませて通った懐かしい道です 

黒い帯が突然でき、いろいろ試みたのですが、消せなくなってしまいました。
どうしましょう、困った!

 

あら、話がまた、今日綴りたいテーマから脱線してしまいました。

元に戻します。

見守り携帯のお話でしたね。

 

私は見守りの機能を利用したことは一切ありませんでしたし、その機能の使用方法は、最後まで知らないままでした。

夫を見守って位置確認をする必要性は感じていませんでしたから。

この携帯が思いがけず、非常に役立つ日が訪れるのですが・・・・・・。

その時は、悲しい状況が極限に達していて、今思い出すのも辛く、切ない気持ち一杯になります。

更に、悲劇的な不運が、この携帯で起きました。

このお話の続きは、明日に回させて頂きます。

 

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友の有難さ 

2016-04-04 07:35:22 | 

もう随分前の事になります。

その時、私がお届けしたことがある手作りのささやかな五目ずしを、いつまでもいつまでも心に留め、感謝して下さる方がいらっしゃいます。

お一人は、前回のブログ記事でも綴らせていただいた、まだご逝去されて日が浅い、Uさんでした。

もうお一方は、ロス在住時も大変お世話になった友、Kさん。

共に、私が心から尊敬して止まない人達です。

 

他にも、同じ思いを抱く大切な友が、両手の指では数え切れないほどに、私は恵まれています。

実は、これも、その出逢いの機会を与えてくれた旦那さまのお蔭に因る所が大きいのですが。

外国も含め、転勤が多い職業でしたから。

転居するたびに、その場で良き友との巡り会いが、私にはありました。

Uさんは、ママ友さんでしたから、娘たちにも感謝です。

 


カレンジュラ
去年の秋に植えましたが、今もとても元気。
本当に愛くるしい花です。説明によると、花期は周年との事。本当かしら。
皆様にぜひお薦めしたいお花です。

 

 

夫の突然の死去で悲しみに暮れているとき、その友人たちから、いかに温かなお気遣いをいただいてきたことでしょう。

言葉では言い尽くせないほどに、感謝の気持ち一杯の私です。

いただき物など、一つ一つ写真に収めるべきでしたのに。

その頃の私は、気持ちがまだ平静からは程遠く、カメラを、度々手にする心境ではありませんでした。

ですから残念ながら、1枚もありません。

 

またお寿司の話に戻りますが、そのことを、折々で思い出し感謝の言葉を述べてくださることに、私はいつも恐縮の至りでいました。

何故って、私は、その十数倍の優しさを友から受けてきたからです。

つい先日も、友人がまたお寿司の事に触れられたので、恥ずかしく感じて、私の思いをメールで語りました。

 

時間が十分あったため、たまたま丁寧に五目ずしを作り、多少上等なお重箱に詰め、風呂敷にお包みしてお持ちしただけでした。

もちろん、心を精いっぱい込めたので、そのような形になったのですが。

その印象が、よほど良かったのでしょうか。

そういえば、Kさんのお嬢様が、主婦の鑑と言ってこの届け物に感動された、と後から伺いました。

 

 お重箱もアップする予定でしたが、次女宅に置いたままのようで、探しても見当たりません。
そのため、風呂敷のみとなりました。
明日は孫とお出かけの予定で次女宅に行きますので、後日、アップしますね。

 

けれど、私は行動的な人間ではなく、自分から友人に声をかけ、積極的に動く方ではありません。

要領も悪く、何事もゆったりしているため、家事など家における課題ををこなすのが精いっぱい。

専念した育児を卒業すると、親の介護、孫のお守り、夫が退職後は、三度の食事の世話、そして介護。

いつも何か重点的に集中しなければならない事がありました。

ですからお稽古ごとも、何を始めても、そこまで手が回らず、三日坊主のことが多い暮らしでした。

 

いま思い起こすと、後悔や反省が多々ある我が人生ですが。

けれど、取り組まないといけないことには、不器用ながら、おそらく一生懸命だったのでしょう。

私のキャパシティーでは、それが精一杯だったのかもしれません。

友人には、何事にも一生懸命な人、との印象を与えてきたようです。

 

でも友人や他の方への心配りの点で、一生懸命であったかと言われると、穴があれば入りたいほど。

かなり自己中心的な暮らしを送ってきた私です。

そんな私にもかかわらず、周りの方々は、本当に良くしてくださいます。

 

 ゼラニウム

 

Kさんは、最近、手作りの豚汁とおこわをお届けくださいました。

色々なお茶菓子まで添えて。

お気持ちの温かさが身に沁みました。

余りに度々の事で、すべて思い出せないほどです。

 

年初、帰らぬ人になってしまわれた友人のUさんも、ご不自由なお体にもかかわらず、お手紙だけでなく、小包で、老舗のとても美味しいつくだ煮、銘菓、その他をお届けくださり、感謝と恐縮の至りでした。。

 

ご近所で大変親しくしているFさんのやさしさにも、私は幾度感極まったかしれません。

やはり、すべては思い出せないほど。

夫が亡くなり、暮らしがたいへん取り込んでいる時には、私が普段目にしたことがない珍しいビタミン剤を下さいました。

家族全員で服用しているとても信頼の於けるものですから、とおっしゃって。

そのおかげでしょうか。

一番大変な時を、体調を崩さず乗り切ることができました

体にいい、高級なナッツもお持ちくださったり、と、他にもいろいろありました。

私の健康を慮ってくださるお気持ちが、本当にうれしくて、感謝溢れる思いでいます。

 

先日は瑞々しい、とても立派な有機大根をお届けくださいました。

最近も、また頂戴しました。

それは、しっかり写真に収めました。

私より一回りお若く、大震災の時も、度々お声をかけていただき、どんなに心強く感じたかわかりません。

 

焼きいもは食べかけで、形が変!(笑)
まるで練りの和菓子のように美味しくて感動ものでした。

 

十数年会っていない名古屋在住の大学時代の親友からも、最近お電話をもらい、1時間余り話したでしょうか。

やっこちゃんとは、四年間寝食を共にした、といってもいいような間柄。

ですから、今でも時空を超えて、姉妹のような関係にすぐ戻れます。

 

先週は、隣町にお住いの友人が、美味しいフルーツゼリーのお菓子と寒ふのりを届けて下さいました。

多少落ち着いた暮らしになっていましたので、

「上がって下さい」

と言ったのですが、

「まだまだいろいろ大変でお疲れでしょう。

今日はこのまま帰ります。

落ち着かれた頃、日を改めて、お会いしてゆっくり話しましょうね。」と。

 

そんなお気遣いも、私には嬉しくて。

確かに、今の私は、まだ心が不安定に揺れているので、夫の思い出に浸って一人でそっと暮らしたい。

そんな心境です。

やり遂げなければならない、諸事もまだいろいろありますから。

 

他にも、ロス在住時親しくなったAさん、社宅時代親しかったHさん、Kさん、長女の家庭教師をした生徒さんのお母様のIさんなど。

同様の気を遣い、わたしの暮らしが落ち着くのを待ってくださっています。

 

 コピア(ステラ スコピア)

花が大き目のバコバだそうです。
花期が、これも長そうで嬉しい。
可憐な姿が、愛くるしいです。

 

私の友人とのお付き合いは、日常、頻繁に会って、お茶友達としておしゃべりを愉しむ、といった感じともちょっと違います。

会ってお話するのは、年に数回でしょうか。

でも、私がその人たちに寄せる信頼度はとても高くて、心情を素直に吐露できる間柄、

私は、親友と呼ぶにふさわしい人だと思っています。

境遇も価値観も似た人たちですから、心の通い合いに、全く支障がなくて。

特別、そのような人を意識して、友として選んだ覚えはない私です。

このご縁は、幸運としか言いようがありません。

多くの場合、その縁の機会の場は、夫が与えてくれたのですが。 

 

私の友に共通していることは、皆さん、とても前向き思考で明るく、行動的。

心がきれいで、人のうわさはしない心優しい人達ばかりです。

私は心から敬愛し、尊敬して止みません。

 

私は、この友たちのお蔭で成長できた、といっても過言ではないほどです。

そのような友の中で、私は一番頼りなげ・・・・・。

Kさんが言うに、それが私の魅力とか。(笑)

 

お墓参りに郷里に旅立つ前日にも、Kさんからお電話をいただき、

「ご一緒したくてお昼をお届けしようと思ったのよ。そろそろ落ち着かれたころではないかと思って」

と。

実はそれどころではなかった私です。

お彼岸のお墓参りで、二泊三日の久しぶりの慣れない一人旅に出かける前日でした。

準備に大わらわ。

落ち着かない時を過ごしていました。

 

今後は、毎日が自由の身で、私のお仕事と言えば、孫の世話くらいになる日が訪れるでしょう。

自己中心的な暮らしはそろそろ卒業して、もっと人のために役立つ生き方を目指したいものですが。

ボランティア活動は、余生の暮らし方としては理想ではあるけれど、私の器は、そんなに立派ではありません。

せめて友のために、何か尽くせることがあれば、積極的に動き、これまでの御恩返しをしたいものです。

 

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