普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

東京「昭和な」百物語<その38>明治神宮「内苑」

2018-04-15 22:44:10 | 東京「昔むかしの」百物語
明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする大正9年創建の神社。その規模は22万坪を誇る。

鬱蒼とした木々に覆われている明治神宮を、もともとからの森林地域と思っている人も多いのだが、実はほとんどが植樹だ。

元々は肥後藩加藤家の江戸屋敷別邸だった。その後井伊家の下屋敷、御料地と変遷し、明治天皇崩御後、天皇を慕う国民からの自発的な請願で明治神宮が創建された。

全国の青年の労働奉仕で造られた。

約300種ほどの全国から集められた木々を植樹し、現在は15万本強の森林となっている。

周辺には馬場、代々木公園、競技場などがあるが、戦前は練兵場が広がっていた。その名残が馬場だ。

戦争末期の東京空襲で焼失したが、終戦1年後の昭和21年には再建に踏みだし、還座祭は昭和33年に行われた。

実はこの時に再建された本殿の屋根瓦の一枚に、ボクの名前が刻まれていた。父が寄進をしたということだった。

明治神宮には外苑と内苑がある。内苑はとても趣のある一角で、子供の頃から足しげく通った。

初夏の5月には躑躅が咲き乱れ、6月になれば思いがけないほどの起伏に富んだ菖蒲苑が紫に染まる素晴らしい景観を誇っていた。

そしてなにより、清正の井戸と呼ばれる湧水があり、その清涼な佇まいはいつ訪れても胸がスーッとする思いになった。

ほぼ毎年内苑を訪れたが、昭和63年を境にまったく足を向けていない。これといった理由はないのだが、なにか足が向かない。

10年ほど前に、清正の井戸に行きたくなったのだが、パワースポットと呼ばれるようになっていて、長蛇の列をなした女性の姿をみて、やめた。

それでも明治神宮には、なかなかの思い出があり、機会があればまた通ってみたいと思う。

躑躅と菖蒲は、一度見たら忘れられないものなのだ。

東京「昭和な」百物語<その37>百貨店

2018-04-13 00:31:05 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクが東京に家族と移住してきた頃、東京の繁華街のランドマークはほぼ百貨店だった。

銀座には松屋、三越、松坂屋、日本橋には白木屋、有楽町にはできたばかりのそごう。東京には大丸。

白木屋は呉服店として江戸期から続く名門だった。昭和7年、火災で多くの女性が焼死するという痛ましい事件が起こる。なぜ女性が多く焼死したのかといえば、当時の和装の女性たちには下着をつける習慣がなく、高所からの救助にホトが見えてしまうのではないかと二の足を踏み、焼死したらしい。そしてこの火災を契機に、日本女性も下着(ズロース)を着用する習慣が生まれたと言われている。子どもの頃白木屋と聞くと、道を挟んだ反対側に赤木屋というプレイガイドがあり単なる赤白という対比が印象的で、記憶に残っている。いつの間にか名前が変わり、業態自体もなくなってしまった。

そごうは有楽町の再開発で誕生した関西系の百貨店だった。日本で初めて「エアー・ドア(カーテン)」、要は今で言うエアコンを導入したデパートだったと記憶している。物珍しさに誘われてその風に当たるためだけに母親と出かけた思い出がある。それまでは、どこの百貨店でも夏には大きな氷柱を通路の真ん中に設えて涼を提供していた。エスカレーターもそごうが先鞭をつけたのではなかったか? フランク永井が唄って大ヒットした「有楽町で逢いましょう」という昭和歌謡は、このそごうのコマーシャルソングとして作られた曲だった。

銀座周辺以外の繁華街も、百貨店がランドマークだった。

ボクが一番出掛けたのは新宿で、東口では伊勢丹と三越が覇を競っていた。西口には京王、小田急ができたが、伊勢丹、三越の方が格上と思われ、新宿と言えば東口がメインだった。昭和40年頃まで、伊勢丹の一角に「額縁ショー」を売りにしたストリップ劇場があったように記憶しているが、間違いかもしれない。

池袋には東口に西武、西口に東武があった。このねじれがまた面白かった。東口には三越もあった。西武の最上階の大食堂で、よくカレーを食べた。

澁谷には東急と西武があった。東急にはプラネタリウムが併設されていた。

ざっと東京の繁華街を思い出してみると、こんな感じだ。昭和40年前後までは、この図式に変化はなかった。それが昭和45年を境に、音を立てて変化し始めた。そして平成になると、百貨店そのものの凋落が顕著になり、現在でも残ってはいるものの、他のランドマークにとって代わられ始めている。

昭和を知る者にとっては、少し寂しさを感じるが、ま、やむを得ないと言うところだ。

東京「昭和な」百物語<その36>原宿

2018-03-19 23:02:04 | 東京「昔むかしの」百物語
以前にも、原宿に関しては昭和30年代の様子を書いたが、原宿が一番原宿らしかった時代は、1970年代の終わり頃、一番変化が大きな時だったかもしれない。

1970年代の終わり頃には、舘ひろし、横山剣などもメンバーだった「クールス」が246から少し入った地下(だったと記憶しているが間違いかもしれない)のバーだったかカフェだったかの「レオン」を拠点にブイブイ言わせていた。まだバイク仲間の頃には岩城滉一もいた。

1980年になると、休日になれば表参道は歩行者天国になり、竹の子族だのローラー族などが現れ始めた。竹の子族の最盛期は1985年頃だったか。

原宿が音楽と切り離せない町になったのはこの頃だ。

クールスにはロック雑誌の取材で面通しをした。レオンまで足を運んだ。

竹の子族が表立って取り上げられた頃のボクはすでに大人で、竹の子族は横眼で眺めていた。

一世風靡が登場する頃は、まさに昭和の終わりが見え隠れし始めた頃。

原宿は、それまでの明治神宮の参道という、それなりに静謐としたイメージから、真反対の町へと変貌したのだ。それはまさに昭和から平成への移行と丸被りしているとボクは思う。

周辺も「〇〇通り」などというネーミングを施されたおしゃれストリートが何本も誕生していった。

キラー通り、とんちゃん通り、竹下通り、骨董通り、キャットストリート……ちなみにキャットストリートは、元々澁谷川と呼ばれたほぼどぶ川だった。そこに蓋をして道にしたものだ。

ボクが持つ原宿への印象で変わらないものと言えば、キディーランドやオリエンタルバザールはもちろんだが、明治通りの交差点を原宿駅方面に向いて左にあるビルに掲げられていたジーンズ「LEE」の看板だろうか。今はもうないのだろうな。

それでも、一歩裏道に入れば、細い入り組んだ路地でつながる古い町並みが残る原宿。確か銭湯もあったはずだ。

若者の街のようではあるが、実は戦前から続く古い顔を持つ町でもあるのだ。

東京「昭和な」百物語<その34>銀座

2018-02-06 01:18:29 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクらの青春時代に、銀座周辺は欠かせないものだった。数寄屋橋や日比谷、京橋、日本橋、新橋までは、徒歩圏内で歩いて移動したものだ。

銀座の柳、もまだ残っていた。

銀座4丁目の三愛と服部時計店、三越といったランドマークだけでなく、日比谷近辺の映画館(ほとんどなくなってしまった)、文具の伊東屋などなど、別段なにをするわけでもなく歩きまわった。

昭和40年前後には「みゆき族」が出現し、みゆき通りには当時のメンズ・ファッションブランド「VAN」や「JUN」の薄茶色の紙袋を持ったアイビー共が溢れていた。ボクもその中に、少しだけいた。ニキビだらけの中・高生の頃だ。

あれやこれやあったのだが、一番記憶に残っているのは、日劇だ。映画館から劇場からストリップ劇場までそろっていた。

殊にストリップ劇場だった日劇ミュージックホールに出演する女性たちは、本気で尊敬できるダンサーだった。一番覚えているのは、アンジェラ浅丘、岬マコ、小浜ななこなどというスターたちだった。彼女たちは、踊り子と言う言葉がぴったりとはまるスターだった。田中小実昌などが、週刊誌にあれこれと書いていたのを思い出す。

ボクはまだ劇場に足を運べるほど大人ではなかったが、憧れの空間だった、憧れの踊り子たちだった。

大人になって唯一足を向けたストリップ劇場は、日劇ミュージックホールだった。日劇が取り壊される1981年までに、念願かなって2度だけ足を運んだ。

日劇ミュージックホールは、女性の裸が芸術にまで昇華した空間だった。

いまでは銀座もただの東京の一地域に過ぎないが、昭和の頃の銀座は、なにか「銀座」と聞いただけで身が引き締まるような、わくわくするような、ある種「聖地」のような、特別な地域だったのだった。




東京「昭和な」百物語<その33>宇宙

2018-01-17 18:36:23 | 東京「昔むかしの」百物語
「ボクら」がはじめて「宇宙」を意識したのは、1957年に打ち上げられたソ連のスプートニク2号で、はじめて地球の生命体である犬、雌のライカ犬が地球の周回軌道に乗り(二度と地球の土は踏めなかったが)、宇宙空間に進出した時だった。

その後、1961年にボストーク1号で地球を周回し「地球は青かった」の名言を残した人類最初の宇宙飛行士ユーリィ・ガガーリン、1963年ボストーク6号に搭乗し「私はカモメ(ヤー・チャイカ)」と、意味はよくわからないが印象的な言葉を残した初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワが、相次いで宇宙空間に進出し、帰還した。

なぜか黎明期の宇宙進出は、ソビエト連邦の記憶しかない。もちろんアメリカの宇宙飛行士も宇宙に進出していたのだが、あまり強い印象はない。名前も覚えていない。アメリカの印象はアポロ計画で初めて印象付けられた。

この1960年代における米ソの宇宙競争は、まさに夢と希望と本物の未来を見せてくれたような気がする。

両陣営の巨大な国家間のせめぎあいとしての宇宙開発競争が生み出した結果に、ボクらは一喜一憂し、開かれた宇宙へと広がる世界を、希望と夢と言う言葉で表現しさえしていた。実はそこには底知れぬ戦争戦略、戦術の具体化としての宇宙開発が存在したのだが、ボクらはただ夢を抱いて眺めていた。

もちろん日本の宇宙開発にも過大ともいえる期待を抱いていた。

だが当時の日本の宇宙進出の道具は、ペンシルロケット言われた、小さな小さな試射ロケットだった。それでもボクらは、そのロケットに大きな夢を託していたように思う。

少なくとも、大国の戦略的宇宙開発とは異なる、純粋に学術的な宇宙へのアプローチであることを、本能的に理解していたのかもしれない。

文京区茗荷谷にあった窪町小学校、杉並区荻窪にあった西田小学校に通いながら、ボクは確かに宇宙を想起していた。

ただし、宇宙は抱きかかえられるほど近くにあった。そう、週刊少年マガジンと、週刊少年サンデーの中に。


東京「昭和な」百物語<その32>カラクリ

2017-12-04 00:41:59 | 東京「昔むかしの」百物語
戦後。

太平洋戦争が終わり、進駐軍(GHQ)が日々日本人の生活のそこここに影を落としていたような時代。昭和20年代中頃。

それこそ陰謀と呼ばれるような事件が頻発した。例えば、国鉄(今のJR。昔主な鉄軌道は国の経営だった)三大ミステリー事件と呼ばれた無人列車の暴走・脱線事件「三鷹事件」(1949年7月15日)、国鉄総裁謀殺事件「下山事件」(1949年7月6日)、故意の列車脱線転覆事件「松川事件」(1949年8月17日)など。

ここで気づくのだ。例えばこの国鉄三大ミステリー事件が起きた日付は、ボクの誕生日(1949年7月12日)を挟んでいずれも一カ月前後で立て続けに起きている。

ま、それがどうしたという話だが……。

国鉄の三大ミステリー事件だが、当時の国鉄は労働組合天国だった。労組を領導する共産党の天国と言ってもいい。当時の共産党は武闘路線で党勢を拡大し、衆院で35議席を獲得するほどの勢いを持っていた。

要するに左派天国。三大ミステリー事件も左派勢力によるものとされた。

冒頭にも書いたが、当時は連合国軍占領下にあった。やがてGHQによる思想統制とでもいえるレッドパージへとつながっていくのだが、国鉄の人員整理をしやすくするために、GHQが事件を起こし国鉄労組や共産党に罪をなすりつけた事件ともいわれた。

これには、さまざまな意見もあるのだが、左派の仕業と考えるのが最も論理的だろう。GHQの陰謀とする意見もあるのだが、そんな小細工をする必要がないほどGHQの力は強大だった。

わざわざ左派勢力に罪を擦り付ける必要などない。現に、昭和28年にはレッドパージが始まり、左派勢力は壊滅的な打撃を受ける。こんなミステリアスな事件を起こす必然性がない。

逆に左派勢力の仕掛けたカラクリ、トリックだったかもしれない。武力革命を標榜していた当時の左派勢力が、自己顕示を目的に領導した事件と考える方が、素直に受け入れられる。

後々に、連合赤軍や日本赤軍が引き起こした、ハイジャックや数々の暴力事案のルーツになった事件と考える方が分かりやすい。

やがてボクも気づくことになるのだが、日教組などの左派勢力が画策した「左派勢力の主張、行動は歴史的にも社会的必然としても正しい」といったカラクリは、目の前で起きているが、あまりに近すぎて気が付かない。そんな時代だった。

これらの事件以外にも、帝銀事件など不可解な事件も起きている。昭和23年1月26日に帝銀椎名町支店で、男が赤痢の予防と偽って行員16人に青酸化合物を飲ませ殺害し、現金16万円と小切手を奪った大量殺戮事件だ。この事件では、自称テンペラ画家(テンペラは画材の一つ)・平沢貞通が犯人とされたが、当初の自白を翻し無実を主張するも死刑が確定、しかし刑務所で95歳まで死刑の執行を受けることなく生き続け、老衰で死亡した。なぜ死刑の執行が行われなかったのかが、謎とも言われている。

不可解、深い闇、謎……こんな言葉が似あうのが昭和40年代までの日本だった。

もちろんボクにとってオンタイムでの出来事ではなかったが、それらの事件の影は昭和50年代半ばまでは続いた。つまりボクが30歳代になる頃まで。20歳代の半ばにジャーナリズムの世界に入ったボクにとっても、これらの事件はまだまだ色鮮やかな時代を彩るモチーフであり、これらの事件に関わる書籍などもよく読んだ。

昭和という時代はアナログの時代であり、始まりがあれば終わりがあるという時間の流れ、空間の制限があった。事件は解決しなければならないものであり、解決のためには必要な時間をかけたのだ。

結局未解決ではあったのだが、そうした事件を記憶しておくべき事象(当事者の存在、マスコミの継続報道)は、平成になるとなぜか掻き消えた。

そして、そうした事件があったことすら人口に膾炙することもなくなった。

小難しい話は、これくらいにしておこうかな。


東京「昭和な」百物語<その32>唄2

2017-10-16 23:47:47 | 東京「昔むかしの」百物語
思い出すたくさんの、戦後すぐの歌謡曲。

傷痍軍人の姿を横眼に見ながら渋谷の恋文横丁、新宿の小便横丁、ゴールデン街、銀座の柳に並木通り、数寄屋橋、日比谷公園、日劇、上野アメ横、あちこち行きまくった。
ラジオに耳を傾ければ、不安定な音声、音曲の向こうに、「新諸国物語」や「ヤン坊ニン坊トン坊」に、「私は貝になりたい」なんていう日本初のテレビドラマもあった。「光子の窓」などと言う番組もあった。草笛光子が魅力的だった。子どもにはグラマラスで刺激的だった。

「お富さん」  春日八郎
粋な黒塀、見越しの松に、婀娜な姿の洗い髪~
「熊祭(イヨマンテ)の夜」 伊藤久男
イヨマンテ~燃えろ篝火~
「桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン」 渡辺はま子
サンフランシスコのチャイナタウン~
「上海帰りのリル」 津村謙
リ~ル、リ~ル、どこにいるのか、リ~ル~
「高原列車は行く」 岡本敦郎
汽車の窓からハンケチ振れば、牧場の乙女が花束投げる~
「君の名は」  織井茂子
君の名はと尋ねし人に~
「おーい中村君」   若原一郎
おーい中村君、なーんだい三郎君? いかに新婚ほやほやだとて~
「コーヒールンバ」 西田佐知子 
昔アラブの偉いお坊さんが~
「アカシアの雨がやむとき」 西田佐知子
アカシヤの雨が止むとき、このまま死んでしまいたい~
「ガード下の靴磨き」  宮城まり子
赤い夕陽がガードを染めて、ビルの向こうに沈んだら~
「星の流れに」  菊池章子
星の流れに身を占って、どこをねぐらの今日の宿~
「テネシーワルツ」  江利チエミ
想い出懐かし、あのテネシーワルツ~
「ミネソタの卵売り」   暁テル子
ココココこコケッコ~、私はミネソタの卵売り、町中で一番の人気者、つやつや生みたて買わないか~卵に黄身と白身がなけりゃ、お代はいらないココココこコケッコー~

昭和20年代、30年代の歌謡曲。ボクが好きでよく歌った曲Best10+α。本当はもっとある。
どういうわけかほとんど歌詞もうろ覚えだが覚えている。
今聞き直し歌詞を見直すと、なんとも明るく心の弾む曲が多かった。
明るい曲も多かったが、「死」「貧しさ」といった切実な言葉も普通に使われていた。

昭和歌謡は、実に心の奥底に張り付いたまま、60年をボクの心のママ生きている。
凄いものだな。

暁テル子の「ミネソタの卵売り」は、忘れようにも忘れられない、ボクの中ではナンバ―ワンに素晴らしくポップな唄だった。


東京「昭和な」百物語<その31>自衛隊

2017-10-10 23:39:35 | 東京「昔むかしの」百物語
(今日本の置かれている地政学的な立場を見るに、自衛隊が自衛隊のままで良いのかという、国家としての根源的な問題を真剣に考えなければいけない時のような気がします。

というような大仰なことではなく、2014年8月23日に昭和の時代に経験した自衛隊にまつわる思い出を書き留めた原稿があったので、再録します。
以下のものです)

ボクの父は、そこそこに名の知られた人だったのか、ボク自身は幼かったこともあって詳しくは覚えていないが、政治家先生の選挙などにもそれなりに力を貸したりしていたようだ。

父の口から聞かされた記憶のある、関わりのある政治家の名前といえば、島根の竹下登、岩手の志賀健次郎、志賀節・父子、青森の津島雄二などと言った代議士の名前だった。

ボクがよく覚えているのは、志賀健次郎。彼は昭和37年7月~38年7月に防衛大臣を務めた。そしてその任期中の自衛隊観閲式に父と一緒に参加したことがあった。

敗戦後まだ17~8年の頃の軍事装備を、小学生だったか中学生だったかのボクは、きっとキラキラと目を輝かせて見ていたに違いない。

そして問題はその観閲式の場所だ。おそらく今では朝霞などの自衛隊駐屯地で行われているのだろうが、ボクの記憶が間違いでなければ、昭和37年の自衛隊のパレード、観閲式は千駄ヶ谷の絵画館前だった。

今ではデート・スポットとして有名な絵画館前を、軍隊と呼べない軍隊が当時の最新装備を誇らしげに掲げながら、パレードしていたのだ。おそらく、戦後初の陸自最高装備と謳われた国産61式戦車なども、そこで実物を見たかもしれない。

その自衛隊というキーワードで、一つ思い出す苦い思い出。

それは昭和37年の観閲式を遡ることさらに5年、ボクが小学校2年のこと。当時は板橋区上板橋に住んでいた。小学校は文京区立窪町小学校に通っていたから、学校が終わり地下鉄の茗荷谷から池袋経由で東上線の上板橋下車、商店街を抜け、川越街道を渡って家にたどり着く。

だが、その日は学校からの帰り道、お腹が痛くなった。それでも家まではもう5分も歩けば辿り着く、と思った。

トイレに行きたいのを我慢して、もうじき家に着くその前に、川越街道を渡らなければならない。渡れば1分もかからない。

信号などという洒落たものなどまだそれほどなく、交通量もそれほどではない時代。普通に川越街道を渡れれば、なんということもなくトイレに駆け込めるはずだった。

それが!

あろうことか川越街道を大挙して戦車部隊が移動しているではないか! 自走砲やら装甲車の類まで、延々と東京の都心方向に移動していく。ボクのお腹は、残念ながら10分耐えるのが精いっぱいだった。おもらし。悲しくて惨めで、しばらく立ち上がれなかった。

ようやく川越街道を渡れたのは、おそらく20分ほど経ってからだったろう。

泣きながら帰宅したボクの有様を見て、母は「あらま」と言っただけで井戸端できれいに洗ってくれた。何も言われなかったことが、本当に救いだった記憶がある。

思うに、あの戦車の隊列は、間違いなく観閲式に向かうものだったに違いない。

思い出はここまで。

(今、自衛隊は災害救助などで国民との接点を持ち、組織として大きな理解を得るに至っているが、昭和の時代には戦後の日教組教育の中で、歪んだ国軍のイメージを植え付けられていた。教育は必要不可欠だが、誤った教育、バイアスのかかった教育は怖い。日教組教育は軍備は悪しきものというスタンスが顕著だった。戦前戦中の国家神道、軍部主導の悪しき前例を完全否定したといったところだ。だが本当にそういう教育でなければならなかったのか? ボクは実のところ、今の韓国とは真逆の自虐史観を押し付けられたように感じている。そして自分の所属する国家を否定するという歪んだ歴史教育を受けたと思っている。

自衛という軍のあり方は決して間違ってはいなかったとは思うが、世界は刻々と変化している。その変化は思いもかけない形で自衛というスタンスで居続けることを許してくれない状況を作り出す。その時に、自衛にこだわり続けることは果たして正しいのか? そこを真剣に考えなければいけない状況が、目の前にあるような気がしてならない)

東京「昭和な」百物語<その30>隻眼の少年2

2017-09-29 01:04:56 | 東京「昔むかしの」百物語
前回、自分の目の話を書いたが、このくくりの文章としては、なんだかそぐわない感じがして仕方なかった。ただ書いたからには一応締めくくる。当時の隻眼写真は探したが、どこか深くに秘匿されているようで、見つからなかった。

実際ボクは、東京に出て東大病院で手術を受けるまでの2年と少しの間、7歳になる直前まで片目で生きていた。

そして、その時期が実は、人間が両眼視する訓練期間にあたっていた。したがってボクは両眼視ができない目になってしまったのだ。

それがどんなことになるのかをわかりやすく言うと、例えば野球でバッターボックスに立つ。それがどんなへなちょこ球でも、ボクにとってはすべて魔球になる。

どういうことかと言えば、ボクには片目で生きていたせいで広角というものが育たなかった。だから距離感もなければ立体感もない。もっと言うと、両目は見えるけれど、それぞれに見ている像が重ならない。目の幅でそれぞれに見える。だから、球も二個飛んでくる。魔球だ。スポーツマン金太郎だったか何だったか忘れたが、人気野球漫画で主人公が投げる魔球「たまたまボール」そのものだったのだ。

ボクには12打席連続三振という記録がある。小学校の時の記録。そこそこに野球は好きで、それなりにうまかったが、そんなわけで打てない守れない。投げることだけはかろうじてできたから、ピッチャーならできた。だが、それではレギュラーにはなれない。結構寂しい思いもした。

目という部位のある種の欠損は、ボクの大きなコンプレックスにもなった。芝居をしていても、目が気になって、普通に芝居ができない。人と話していても、相手の目を見て話せない。まあいろいろだった。

生活で困ることもあった。車の運転だ。ボクは免許を取ることを頑なに拒んだ。怖いのだ。なにしろ距離感がないし、車は常に倍の数走っている。

それでも実際のところ、ボクは傍から見れば自信満々で生きているように見えたと思う。そんなことはあまり気にもしていないように見えたと思う。だが、芝居をやめた大きな理由の一つではあった。

よく考えれば、障碍者手帳をもらってもおかしくないことだった。そんなこと考えもしなかったけどね。

だがその目が、なぜか劇的に修復される。それは昭和の終わり頃だった。両目それぞれに映る像が、急速に接近しはじめたのだ。少しのずれはあるが、あまり気にならなくなった。

それがなぜなのかはわからない。昭和と一緒にボクの負の部分も終わりにしてくれたのかもしれない。

42歳の時に免許も取った。普通に両眼視できるようになって、運転もできるようになったのだった。

だが、微妙な目のずれは残ったままで、それは今でも続いている。目は疲れやすい。普通の人より、目を使う仕事は向いていない。なのに、今のボクの生業は、校正の仕事だ。

これが何を意味するか、ボクは平成も終わろうとする今日この頃、考えているのです。

今回は、少しイレギュラーな原稿ですが、一応総括的に。

東京「昭和な」百物語<その29>隻眼の少年

2017-07-19 01:00:40 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクが4歳の誕生日を無事にやり過ごして少し経った頃、ボクの身にあまり世間でも例のない、全然無事にはやり過ごせない出来事が起こる。

時は昭和28年。おそらく9月か10月の事だったろう。正直、詳しい日にちなど覚えてはいないのだ。だが、当時住まっていた島根県松江市で、おそらく近所の友達と走り回っていたのだから、それほど寒い時期ではなかったろう。

記憶を辿ると、近所の友達とチャンバラをしようということになった。だが刀になるものがない。その時思い出したのが、近所にあった少年鑑別所(当時は刑務所と記憶していた)だった。いつも(と、勝手に記憶していたのだが)塀沿いに細工用に巾1cm、長さ50cmほどに割られた竹の棒が荒縄で束ねて置いてあった。

後で聞いて知ったことだが、少年鑑別所では、受刑者の少年たちが山陰名物の竹細工を作っていたのだという。その材料の竹が、意外と無造作に鑑別所の入り口近くの塀の外に置かれていたのだ。

そこから1、2本をチャンバラの道具として供出してもらおうと思ったわけだ。4束ほど積んであったろうか、周囲には誰もいない。ボクは、それほどきつく縛られていない束から、一本の竹の棒を引き抜いた。次の瞬間、その竹の棒はボクの左目に突き刺さっていた。

その瞬間は、いったい何が起こったのか、まったくわからなかったが、ボクは火のついたように泣き出した。そして、そこから家まで大声で泣き叫びながら帰った記憶がある。

お袋は、どこか遠くから尋常でないボクの泣き声が聞こえてくるので、慌てて勝手口から飛び出し、松江城の堀端沿いに、文字通り血の涙を流しながら歩いてくるボクを見つけたそうだ。
直ぐに医者に。名うての藪と言われていたが、そこしかない松江の駅に近い眼科医を尋ねると「こりゃ酷いね。だけどなにもできないなぁ、幸い眼底と黒目の損傷は免れているようだから、おいおい時間が経てば治るんじゃないかな」てなご託宣。

お袋はその言葉を信じて、投薬(多分痛み止めだろう)と目に負担をかけない道具としての眼帯をボクの治療道具としてずっと使い続けた。

だが、数カ月経ても、一向に治る気配はなかった。

一体全体ボクの目はどうなっていたのかというと、片目少年になっていたのだ。竹の棒は微妙にカーブがついていて、そのカーブがボクの左黒目の縁にうまい具合に刺さった。だから黒目は無傷で済んだ。ただ眼球をバランスよく吊る役目の毛様体は切れた。外側の毛様体が切れたものだから、当然黒目は鼻側に吊り込まれ、片目になってしまったのだ。

その頃のボクの写真を、次回公開予定。

ここまでは、松江の話。「昭和な」東京の話でも何でもない。この事件をきっかけに我が家は松江を後に、上京する。ひょっとするとボクの引き起こしたこの事件がきっかけと言うよりは、父親の東京での就職がタイミングよく決まったのではなかったか。

親父は戦中、兵役に就かず、大政翼賛会の中枢にいたようで、その頃の知己や、それ以前の岩波文庫や新潮文庫時代からの知己が、親父の就職に奔走してくれたのではないかと今は思う。新生活運動協会の専務理事、東京に出てからの、それが親父の仕事だった。

ボクが4歳の12月に、家族は東京へとたどり着く。その時、東京駅でボクはテレビジョンというものを始めて見た。東京駅構内に街頭テレビジョンが設置されていたのだ。大群衆が身じろぎもせずに、小さなテレビジョンの画面を食い入るように見ていた。確かにプロレス中継だった。

今思えばある意味、ボクは歴史の生き証人だ。昭和のエポックでよく登場する東京駅での街頭テレビジョンの風景写真、ボクは紛れもなくあの群衆の一人だったのだから。

やがて、ボクは小学校に入学、1年の夏休みに東京大学の著名な眼科医の執刀で、目の手術を受ける。おそらく毛様体をつなぐ手術。

ボクはその手術のおかげで、2年越しの両眼視で世界を見ることになった。この時期の2年は大きな影響を視力、視覚に与える。

ボクが見たその世界は、紛れもなく魔法に満ちた世界だった。

長くなりすぎました。この続きは次回。

東京「昭和な」百物語<その28>音楽を聴く2

2017-06-15 22:43:08 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクの稚拙な音楽体験の中でも、エポックメイキング(古!)な出来事はいくつもあった。

小学校の低学年の頃、第一回のレコード大賞曲、水原弘の「黒い花びら」を親戚の宴会で歌い大好評だった。

中学高校時代に、当時日本の若者の心をきっちりと虜にしていたアメリカのキャンパス・フォークの雄、キングストン・トリオのコピーバンドを演っていた。ローファーズ。大学生のバンドは、ニューフロンティアーズ、フロッギーズ、キャッスル&ゲイツ、ザ・リガニーズなどなど、後のグループサウンズなどに連なるバンドが幾つもあったけれど、中坊のバンド、高校生のバンドはボクらぐらいだった。地元では人気があった。

それからしばらくして、ボクは芝居の世界にのめり込んだが、その中で歌が大きなファクターになる芝居があった。日野原幼紀という作曲・アレンジャーが曲を作った。その芝居でボクはほとんどの歌を歌い、芝居を紡いだ。その芝居が縁で、レコードを出さないかという話になった。レコード会社は当時できたばかりのテレビ局傘下の〇〇レコード。その打ち合わせに何度か赤坂に出向いたが、突然プッツリと連絡がなくなった。潰れていた。

S-Ken(当時、ボクは「ただし」と呼んでいた)の結婚式で、アニマルズの「朝日の当たる家」をYAMAHAに連なる音楽関係者を前に熱唱した。好評だった。

編集者になって廣済堂で雑誌を作っていた時、川内康範先生が編集長になってこられた。その時に社員旅行があって、歌合戦のようなものが大宴会場で繰り広げられた。ボクは野坂昭如の「黒の舟歌」を歌った。そして康範先生から「グランプリ」を頂いた。そして「歌ってみるか」と言われたが断った。

すべては昭和という時代だからこその、ゆるさゆえに巻き起こった話の数々。

変な話、ある日突然歌手になるなんてことが、普通にあった時代だったのだよ。

まあボクは、なに一つ成就することはなかったけれどね!

東京「昭和な」百物語<その27>音楽を聴く

2017-06-15 00:30:27 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和を通して、音楽は、自分の意志で聴くものではなかった。

ことにボクが少年の頃は、ラジオから流れてくる音に耳を傾ける……。それが音楽を聴くということだった。

もちろん蓄音機を持っていた裕福な人たちもいたのだろうが、少なくともボクは、音楽はラジオから流れてくるものだと思っていた。

だから、誰がその音楽を選び、ラジオの電波に乗せるのかは、とても大事なことだった。新しい音を聴かせる奴、流行りの音ばかり聴かせる奴、意味を持った音楽を聴かせる奴、楽しきゃいいじゃんと音を聴かせる奴、そして気に入らない音ばかりを聴かせる奴と、さまざまな奴がいた。

彼らはいつの間にか、音楽のスペシャリストとしてDJと呼ばれたり、パーソナリティと呼ばれたり、はたまた音楽評論家などと呼ばれ始める。そしてそれが職業になりさえした。もともとはラジオ放送局の職員だったはずの人間が、プロとしてもてはやされたりもした。

音楽は、誰かにリードされて聴くものだった。だから、流行がありその流行は誰かが作ったモノだった。

それは音楽を伝える媒体がテレビに移ってもしばらくは同じだった。音楽番組も隆盛を極めた。

音楽が、誰のものでもない、ただ聴く個々の人々の営為であると捉えられ始めたのは、昭和も末の末、1980年代後半の事だった。

音源がレコードからCDに代わり、ウォークマンなどのパーソナルな再生機が誕生し、その傾向は一気に加速した。そして、音楽評論家も職業として廃れた。

聴かされる音楽から、主体的に聴く音楽へ。それが昭和から平成への大きな転換のキーワードだった。

そしてそこでは、音楽を聴く喜びの質さへも変化した。

簡単に言えば、選択肢が5つしかない中から自分に最もマッチした音源を、誰かに選んでもらって聴いていたのが、何十何百という中から、自分の好みでチョイスして聴くという姿勢に、大転換した。

だけど本当はね、昭和の頃の方が音楽は面白かった。平成に移行し自分で聴く音楽を選ぶようになって、逆に画一化が始まったといっても良い。その理由は、昭和の頃の評論家ほどには、誰も音楽に対して成熟もしていないし他の誰かに伝えられるほどにはエキスパートでもないということによる。単なる好き嫌いというレベルの音楽の選別は、音楽を育てはしない。

(この続きはまた…)

東京「昭和な」百物語<その26>唄

2017-05-15 00:55:41 | 東京「昔むかしの」百物語
子どもの頃、まだ松江で暮らしていた頃だから、4歳前の話。

その頃はまだ、ラジオを聞くこともままならなかった。戦後10年も経ておらず、米穀通帳などがまだ存在し、お米は配給だった頃だから。父親は島根新聞(いまの山陰中央新報)の編集局長というそこそこの仕事をしていたが、貧乏だった。母はモダンな人だったけれど、普段は着物を着ていたような、まだ西洋文化も日本の隅々には浸透し切っていない、そんな頃。

ボクはどうしたわけか、いまでも童謡や唱歌の類をほとんど覚えている(曲の一部は少なくとも歌える)のだが、どう考えてもこの時代に覚えている。

なぜならば、家族でボクが4歳の時に上京したのだが、上京後はラジオが常設され、耳に入ってくる音楽は少なくとも童謡でもなければ唱歌でもなかったから。

なぜ童謡、唱歌の類がボクの記憶に鮮明に残っているのか? 答えはいとも簡単で、母が歌って聞かせてくれたからだ。それ以外には思い至らない。

数十曲はあるだろう。ただし中には奇妙な言葉として記憶しているものもある。

例えば「赤い靴」。「良い爺さんに連れられて」と記憶していた。本当は「異人さんに連れられて」。こんな勘違いは山ほどある。

それと、戦後すぐの頃の日本は、まだまだ明治を引きずっていたという事実。

「一列ランパン破裂して 日露の戦争始まった さっさと逃げるは露西亜の兵 死んでも尽くすは日本の兵 五万の兵を引き連れて 六人残して皆殺し 七月八日の闘いに 哈爾濱までも攻め入って クロパトキンの首を取り 東郷大将万々歳」

こんな日露戦争を題材にした手毬歌(ちゃんと数え歌になっている)を覚えているから。

もっと遡る歌もあった。

「あんた方どこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 仙波さ 仙波山には 狸がおってさ それを猟師が 鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉で チョッとおっかぶせ」

手毬歌。これは幕末の薩長連合軍の兵隊と付近の子どもたちとのやり取り、と言われているそうだが、詳細はわからない。

同じ頃のじゃんけん数え唄に、こんなものもあった。

「一かけ 二かけ 三かけて 四かけて 五かけて 橋をかけ 橋の欄干手を腰に はるか向こうを眺むれば 十七八の姉さんが 片手に花持ち線香持ち 姉さん姉さんどこ行くの 私は九州・鹿児島の 西郷隆盛娘です 明治十年の戦役に 切腹なされた父上の お墓詣りに参ります お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝みます お墓の前には幽霊が ふうわりふわりと ジャンケンポン」

まだまだ多くの唄が、蘇ってくる。思い出したらその都度原稿にしてみようかな、と。

東京「昭和な」百物語<その25>芸能(続き)

2017-05-07 01:12:41 | 東京「昔むかしの」百物語
というわけで、また嘘つきハンスになった。ボクの「明日」はおよそ普通の人の「2週間後」に相当するわけで……。そんなことは、まぁいいか!

日本の音楽業界が、まだやくざに仕切られていたという典型的なシーンは、美空ひばりと小林旭の結婚記者会見に見て取れる。その時の映像はおそらくどこのテレビ局にも資料として残っているだろうが、二人の脇にまるで後見人然として映っているのは、山口組の三代目・田岡一雄組長だ。それまでの美空ひばりの所属事務所は「神戸芸能社」。早い話が田岡組長が設立した美空ひばりのための芸能プロだった。そしてこの時の田岡組長は、その後に設立した「ひばりプロダクション」副社長の肩書だった。なによりひばりの父親代わりだったのである。

この当時の芸能関係の8割方は、やくざの息がかかっていて、それは可笑しなことでも不思議なことでもなかった。映画界も音楽会も、相撲界も、もっと言えば政財界も、やくざと関わるのは当たり前のことだった。なんとなれば、昭和30~40年代はまだ、社会の表と裏が誰の目にも見える形で存在していたからだ。表を支えるためには裏が必要と、誰もが知っていた時代だったのだ。

歴史を紐解くと、芸能そのものがやくざと密接な関わりがあった。有体に言えば、同じ穴の狢だった。もっと言えば被差別民の生業の一つだった。歌や芝居は「」の生業であり、彼らの受け入れ側で庇護者であり搾取者であったのが、同じように無宿者、社会からのはみ出し者=やくざだったのだ。それは江戸期から続くwinwinの関係だった。

この図式も、昭和40年代後半に入ると変化し始める。やくざへの風当たりが強くなり、芸能にも「普通な人々」が参入し始める。その典型が中津川のフォークジャンボリーだった。おそらく世界で初めての大規模な野外コンサートである。あのウッドストックより1年も前に開催された。このコンサートは、労音(日共系音楽鑑賞団体)の制作メンバーが高石ともやなどと企画し始めたイベントだった。

芸能の興行が、徐々にノーマルな商業行為として成立してくる。その結果、やくざは表舞台から排除されることになった。いやいや、排除されるほどやわではない。表向きの顔、会社形態をきちん設えて、プロダクション経営などを引き続き行っていくようになった。

いまある芸能プロダクションがやくざの表向きの顔だなどと言っているわけではない。昭和という時代にそうしたプロセスを経て、いまの芸能界もあるのだというお話し。






東京「昭和な」百物語<その24>芸能

2017-04-27 23:50:24 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和は、いまある音楽のすべての要素が生まれ、育ち、完成し、打ち壊された時代。

所謂ポピュラー・ミュージックは、そのすべてが昭和に生まれ、完成した。歌謡も同様だ。

いまや日本のポピュラー・ミュージックは、それが面白かったり、なにか影響力を持っているかどうかは別問題としても、さまざまな形で世界へ進出し、世界のミュージックシーンのある重要な部分を占めるまでになった。

昭和40年代から50年代後半の日本は、それまでの進駐軍経由のジャズや、アメリカン・エンターテインメントの王道・スタンダード・ミュージックに代わり、ラジオ(FENな!)やテレビを媒介にした新しい音楽が日本に流れ込んだ。一つは、アメリカのアイビーリーガーを中心に人気となったアメリカン・カントリー&フォークから誕生したキャンパスフォーク、それと並行にベトナム戦争への抵抗を歌に託した反戦フォークがあり、その一方でヨーロッパからは「イングリッシュ・インベンション」と呼ばれた、ビートルズやストーンズを中心にしたアメリカン・オールド・ミュージックともいえるブルースやカントリーをルーツにしたイギリスのグループの、アメリカへの進出を契機とした世界的な音楽潮流が生まれ、日本でも数多く聞かれるようになった。

いやに回りくどい物言いになったが、音楽にとっては爆発的な時代だったから。

それぞれが相互に影響し合い、新しい音楽の萌芽を生み出し続けた時代だった。当然日本の音楽シーンも影響を受けたのだが、まだ日本には興行主(有体に言えばヤクザ)が存在し、音楽の利権を独占していた時代で、彼らが良しとする作られたミュージシャンだけが、表に出ていた時代。

細かな記述は避けるが、音楽がヤクザときっぱり縁を切るのは、昭和50年代後半以降の話になる(いまでも興行主的存在は居続けているけどね)。

(時間切れ。この続きは明日書きます)