ボクの幼い頃、東京にもまだ小川というものが存在した。
一番記憶にあるのは、上板橋の我が家から子どもの足で30分ほども歩く距離にあった城北高校(?)に向かう道すがらに広がる、野原の真ん中を流れていた小川。よく網をもって魚や虫取りに行った。ボクが5~6歳頃の話だからかれこれ60年以上も前の話だ。
川縁をコンクリートで護岸工事などしていない、小川。それがどの川から流れ来るものか、あるいは流れ込んでいくものなのかなどは知る由もなかったが、清流で岸辺の流れの緩やかな辺りには、メダカが群れを成していたし、流れから取り残された水の溜まりにはアメンボが競って走り回っていた。ヤゴの姿だって見ることができたし、ゲンゴロウも泳ぎ回っていた。
一本の木の橋が両岸をつないでいた。それは見た目は同じ野原なのだが、まったく異なる世界をつなぐ一本の生命の橋のようにも感じられた。
両岸の春の野原は一面のレンゲソウだった。そこには少し早い時期のシジミに、モンシロチョウ、モンキチョウが続き、春を謳歌していた。晩夏になれば無数の赤とんぼが夕焼け空を埋め尽くした。
梅雨時の家の壁はナメクジが這いまわり、夜にはその跡が仄かに光っていた。夏には裸電球に鬱陶しいほどの虫たちが群がっていた。その中には驚くほど美しい色彩を持った玉虫がいたし、巨大なスズメガもいた。
明け方の空には郭公の鳴き声が響き、軒下には毎年燕が巣を作った。
一体全体どのタイミングですべてが搔き消えてしまったのだろう。
ボクが少し大きくなり、興味の先がそうした生きものたちではなくなったということもあるだろうが、それにしてもあまりにも急激に生命の数々を見失ってしまった気がする。
昭和という時代は、そうした生き物たちを失っていくことに、なんの痛みも感じない時代の始まりを予感させる幕開けの時だったかもしれない。その原因の多くは農薬であり、環境汚染に違いなかったのだが、そうしたことに、大人でさえ気づかなかった。
もうどれ一つも取り返すことはできない生命。いま、そんな生命の息吹があちこちにあったことなど少しも知らない子どもたち(いや彼らの親世代の大人たちも知らないのだろう)が、この世界のなにかを作っている。
少し、不気味だ。
小川という概念もすでに失われている。水辺は危ない場所で、人がコントロールしているつもりの、コンクリートで固めた川岸が当たり前になっている。そこに昭和の昔ほどには生命など存在しない。
生きていたものたち……多くの生命の生きる舞台となった流れや野原も共に、昭和の頃には確かに生きていた。そして、気づけばそうした舞台もまた幕を下ろし、生命を育むこともできなくなっている。
生あるものは、変化し滅するとわかっているけれど、なお惜しい、昭和の頃の生あるものたちの、生命の営み。
一番記憶にあるのは、上板橋の我が家から子どもの足で30分ほども歩く距離にあった城北高校(?)に向かう道すがらに広がる、野原の真ん中を流れていた小川。よく網をもって魚や虫取りに行った。ボクが5~6歳頃の話だからかれこれ60年以上も前の話だ。
川縁をコンクリートで護岸工事などしていない、小川。それがどの川から流れ来るものか、あるいは流れ込んでいくものなのかなどは知る由もなかったが、清流で岸辺の流れの緩やかな辺りには、メダカが群れを成していたし、流れから取り残された水の溜まりにはアメンボが競って走り回っていた。ヤゴの姿だって見ることができたし、ゲンゴロウも泳ぎ回っていた。
一本の木の橋が両岸をつないでいた。それは見た目は同じ野原なのだが、まったく異なる世界をつなぐ一本の生命の橋のようにも感じられた。
両岸の春の野原は一面のレンゲソウだった。そこには少し早い時期のシジミに、モンシロチョウ、モンキチョウが続き、春を謳歌していた。晩夏になれば無数の赤とんぼが夕焼け空を埋め尽くした。
梅雨時の家の壁はナメクジが這いまわり、夜にはその跡が仄かに光っていた。夏には裸電球に鬱陶しいほどの虫たちが群がっていた。その中には驚くほど美しい色彩を持った玉虫がいたし、巨大なスズメガもいた。
明け方の空には郭公の鳴き声が響き、軒下には毎年燕が巣を作った。
一体全体どのタイミングですべてが搔き消えてしまったのだろう。
ボクが少し大きくなり、興味の先がそうした生きものたちではなくなったということもあるだろうが、それにしてもあまりにも急激に生命の数々を見失ってしまった気がする。
昭和という時代は、そうした生き物たちを失っていくことに、なんの痛みも感じない時代の始まりを予感させる幕開けの時だったかもしれない。その原因の多くは農薬であり、環境汚染に違いなかったのだが、そうしたことに、大人でさえ気づかなかった。
もうどれ一つも取り返すことはできない生命。いま、そんな生命の息吹があちこちにあったことなど少しも知らない子どもたち(いや彼らの親世代の大人たちも知らないのだろう)が、この世界のなにかを作っている。
少し、不気味だ。
小川という概念もすでに失われている。水辺は危ない場所で、人がコントロールしているつもりの、コンクリートで固めた川岸が当たり前になっている。そこに昭和の昔ほどには生命など存在しない。
生きていたものたち……多くの生命の生きる舞台となった流れや野原も共に、昭和の頃には確かに生きていた。そして、気づけばそうした舞台もまた幕を下ろし、生命を育むこともできなくなっている。
生あるものは、変化し滅するとわかっているけれど、なお惜しい、昭和の頃の生あるものたちの、生命の営み。