普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

東京「昭和な」百物語<その23>生きていたもの

2017-04-02 03:04:26 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクの幼い頃、東京にもまだ小川というものが存在した。

一番記憶にあるのは、上板橋の我が家から子どもの足で30分ほども歩く距離にあった城北高校(?)に向かう道すがらに広がる、野原の真ん中を流れていた小川。よく網をもって魚や虫取りに行った。ボクが5~6歳頃の話だからかれこれ60年以上も前の話だ。
川縁をコンクリートで護岸工事などしていない、小川。それがどの川から流れ来るものか、あるいは流れ込んでいくものなのかなどは知る由もなかったが、清流で岸辺の流れの緩やかな辺りには、メダカが群れを成していたし、流れから取り残された水の溜まりにはアメンボが競って走り回っていた。ヤゴの姿だって見ることができたし、ゲンゴロウも泳ぎ回っていた。

一本の木の橋が両岸をつないでいた。それは見た目は同じ野原なのだが、まったく異なる世界をつなぐ一本の生命の橋のようにも感じられた。

両岸の春の野原は一面のレンゲソウだった。そこには少し早い時期のシジミに、モンシロチョウ、モンキチョウが続き、春を謳歌していた。晩夏になれば無数の赤とんぼが夕焼け空を埋め尽くした。

梅雨時の家の壁はナメクジが這いまわり、夜にはその跡が仄かに光っていた。夏には裸電球に鬱陶しいほどの虫たちが群がっていた。その中には驚くほど美しい色彩を持った玉虫がいたし、巨大なスズメガもいた。

明け方の空には郭公の鳴き声が響き、軒下には毎年燕が巣を作った。

一体全体どのタイミングですべてが搔き消えてしまったのだろう。

ボクが少し大きくなり、興味の先がそうした生きものたちではなくなったということもあるだろうが、それにしてもあまりにも急激に生命の数々を見失ってしまった気がする。

昭和という時代は、そうした生き物たちを失っていくことに、なんの痛みも感じない時代の始まりを予感させる幕開けの時だったかもしれない。その原因の多くは農薬であり、環境汚染に違いなかったのだが、そうしたことに、大人でさえ気づかなかった。

もうどれ一つも取り返すことはできない生命。いま、そんな生命の息吹があちこちにあったことなど少しも知らない子どもたち(いや彼らの親世代の大人たちも知らないのだろう)が、この世界のなにかを作っている。

少し、不気味だ。

小川という概念もすでに失われている。水辺は危ない場所で、人がコントロールしているつもりの、コンクリートで固めた川岸が当たり前になっている。そこに昭和の昔ほどには生命など存在しない。

生きていたものたち……多くの生命の生きる舞台となった流れや野原も共に、昭和の頃には確かに生きていた。そして、気づけばそうした舞台もまた幕を下ろし、生命を育むこともできなくなっている。

生あるものは、変化し滅するとわかっているけれど、なお惜しい、昭和の頃の生あるものたちの、生命の営み。

東京「昭和な」百物語<その22>唄 序

2017-02-23 00:37:24 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和は「歌」の時代だったかもしれない。

「音楽」ではない、「歌」の時代。

あの時ボクは「演歌」を拒否した。ロックやらフォークやら「音楽」を志向したから、演歌は古臭く、情緒不安定な音楽のように感じた。

だが、今考えれば演歌も含め昭和の音楽は紛れもなく「歌」だった。

そして、今のバカバカしいほどのポジティブな音楽の、それこそ「真裏」にあるようなネガティブな「歌」が、限りなく聞かれた。

なぜか? 誰もが「哲学」してたんだよ!

今のように、何かを考えることなど拒否し倒すような感性が充満している時代とは、それこそ180度違う世界があったのだ。

はっきり言って今の「音楽」は、評論できない。なぜなら評論を拒否しているから。

評論を拒否するとはどう言う意味か?

すべてがプライベートの範疇に囲い込まれ、パブリックな視点が持てないということさ。

歌ってるのは「元気」だの「前向き」だのだけれど、広がりはない。

「15、16、17と、私の人生暗かった」と藤圭子が歌った「歌」には、奥深い人々の心の奥をつなぐ通奏低音があった。

昭和の「歌」を、いつかもっとしっかりと、研究しちゃるけんのぅ!

東京「昭和な」百物語〈その21〉文化なんちゃら

2017-02-21 01:02:46 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和の「文化」を、考察。

洒落でもなんでもなく、「文化」と名の着くモノが結構あった。

例えば、住宅。文化住宅って、どんな住宅なのか? ま、有り体に言えば二戸一。
昭和30~40年代にあちこちで建てられた。関西方面に多かったかもしれない。小ぶりな長屋とでも言えそうな建物で、壁一枚で二世帯が隔てられわさわさと暮らしていた。住んでいる間は良いのだが、やがて改築だという話になるとはなはだ厄介な代物になってしまった。おいそれと好きに改築もできず、あちこちで紛争の種にもなった。阪神淡路大震災後の厄介の種にもなっていたようだった。

文化包丁と言うものもあった。日本で包丁と言えば、様々な用途によって使い分けられる道具であり、その用途に沿った形状をしている。それを、一本の包丁で済ましてしまおうという、戦後の西洋合理主義的要請にきっちりと応えた包丁だ。



菜っ葉も切れれば肉だって、魚だって切れるという一見優れもの。使い慣れればそれで済むのだが、こだわり派は首をかしげながら、ぶつぶつ言いながらも結構便利で使っていた。
ひょっとすると、そんな名称は忘れ去られ、どこの家庭でも今まさに使われている形状の包丁こそ、文化包丁だったりするかもしれない。

文化釜というものもあった。厚手のアルマイト製(アルミニウム合金)で鉄製の羽釜にとって代わった。それというのも、かまどからガスコンロに熱源が変わり、この文化釜は便利なことにガスに対応できるように作られたものだったのだ。
実はいまでも売られている。結構なファンもいるようだが、電気釜の普及で一気に過去の道具になってしまった。

なにやら「文化」と名がつけば、物が売れたという時代だったのだ。昭和のハイソの代名詞が「文化」だったかもしれない。

なにしろ、「文化」といって最も良さげなものは、文化勲章だ。これは戦前に誕生した代物だが昭和の産物だ。勲章をもらって喜ぶという精神構造がよく理解できないのだが、日本の文化人にとって最高の栄誉であることは確かなようだ。

東京「昭和な」百物語<その20> グリーンハウス

2017-01-14 02:24:11 | 東京「昔むかしの」百物語
1960年代の終わりに近づくと、世の中は騒然とする。

ある意味、1960年6月15日の東大生樺美智子さんの国会南門での機動隊との衝突による死亡で始まった反安保闘争という「政治の季節」が、ピークに達するのだ。

60年安保闘争から70年安保闘争へ、学生が主体となった政治闘争は刻々と姿かたちを変えながらも連綿と受け継がれ、その間のベトナム反戦、沖縄闘争などのファクターを抱え込みながら、一種のカタストロフとでもいえるような悲劇的な高揚を見せる。まるで負けを覚悟の捨て身の新宿、安田へとなだれ込むのだ。その先に浅間があり三菱もあった。

その一方で、束の間のアバンチュールのように、ヒッピーというそれまで自分たちが知っている世界とは違う世界がアメリカやヨーロッパにはあるみたいだぞ、的な期待や高揚と、ナチュラリズムに名を借りた怠惰で、退廃的な現実があった。

その象徴が、今では信じられないことだが、長髪の兄ちゃんやとっぽい姉ちゃんが、ハイミナールやシンナーでおっぺけぺになりながら、新宿アルタ前に存在した芝生の一角で一日中寝転がっているという事実があった。その一角をグリーンハウスと称した。全然温室じゃないけどね。

しかも彼らは、ヒッピーではなくフウテンと呼ばれた。あ、彼らじゃないか、ある意味ボクもだった……。ボクはおっぺけぺじゃなかったけどね。

その一角に入りきれない連中は、新宿中央通りの「風月堂」「ウィーン」という喫茶店に入り浸った。コーヒー一杯でおよそ半日以上をそこで過ごした。政治的ではない時は、ボクはこのウィーン一派として過ごした。

なんて、その第一人者のように書いているけれど、そうではなくて、十把ひとからげの一人。芝居もやっていて忙しかったし、あまりそこにはいられなかった。ただし、いられるときはそこの住人のようにふるまっていたな。

でもね、ことさらに言うわけじゃないけれど、それはそれで楽しかった。政治も含めて新しいカルチャーとして理解していた。

昭和という時代は、前半は戦争だらけだった。そして中盤は政治的だった。最後の最後は……なんともいわく言い難い不思議な終わり方をした。混乱を避けながら混乱を招き、消耗し、果てたという感じ。

それでも、なにか元気だった。今よりははるかに元気だった。

東京「昭和な」百物語<その19>新宿大ガード付近(再録)

2016-12-17 17:43:07 | 東京「昔むかしの」百物語
(2011年7月20日にこのブログで書いた原稿を少し書き直して再録します)

 昭和33年の冬、それまで住んでいた上板橋のハモニカ長屋から、荻窪の公団住宅に引っ越した。これは画期的な出来事だった。

 当時僕は小学校三年生で、板橋から文京区立窪町小学校に越境入学していた。越境入学の理由は、今は筑波大学となっているが、当時の東京教育大学附属小学校の入学試験に落ち、癪にさわって隣りにあった窪町小学校に通うことにした、ということになっていた。本当のところは不明。
 確か季節は冬。ニ学期の終業式当日だったような……。

 上板橋から窪町小学校に向かい、帰りは荻窪に帰った。
 よく考えれば、10歳の小学校3年生にはかなり無謀な行程だったような気がする。なにしろ荻窪なんぞは、行ったことも聞いたこともなかったから。

 当日の朝、帰りは荻窪まで来るようにと言われ、心細いなんてものではなくて、当時の学友に先生(中村先生!)に促されてサヨナラの挨拶をし帰路についたが、心此処にあらず的な浮き足立った感覚を覚えている。

 営団地下鉄丸の内線の茗荷谷が窪町小学校への下車駅だった。いまの感覚で行けば、それなら茗荷谷から荻窪まで丸の内線で一本じゃないか、と言いたいところだろうが、丸の内線、当時はまだ荻窪まで開通していなかった。池袋から霞が関までしか開業していなかったと思う。荻窪からは方南町あたりまでだったかな?

 どんな行程で茗荷谷から荻窪まで行ったのか定かではないが、その夜にはきちんと荻窪で食事をした記憶があるから、ちゃんと行けているわけだ。いろいろな方法があった思うが、おそらく、茗荷谷から池袋(2駅)へ出て、省線(と昔は言ったのだよ)に乗って新宿へ出て、当時は高尾ではなく浅川行きと言った中央線に乗って行ったのか、あるいは、新宿で降りて淀橋方面に向かって大ガードを抜けて歩き、都電に乗っていったか、いずれかだろうが、そこのところの記憶は曖昧だ。
 どちらかと言えば、都電で行った公算が大きい。というのも、4歳年上の姉が、当時まだあった淀橋浄水場近くの精華女学園中等部に通っていて、記憶にはないのだが、彼女と待ち合わせて帰ったと考えるのが最も妥当だ。そうなれば都電で荻窪に向かうのが最も自然だ。

 当時、都電は東京を縦横に走り回っていた。ボクが最も馴染んでいたのはやはり杉並線で、新宿の大ガードを超えたすぐの所に、熊の胃の宣伝だったかジンギスカン料理屋だったか、大きな熊の絵だったか彫刻だったかがあって(後々、当寺は結構あったという今でいうところのジビエ料理の店だったと、友人に教えてもらった)、その目と鼻の先に都電杉並線の停車場があった。それに乗れば、終点の荻窪駅まで連れていってくれた。
 都電荻窪駅は、新宿から向かえば荻窪陸橋を越えた北口側にあった。
 ただ、営団の丸の内線が荻窪まで乗り入れた昭和37年の翌38年には廃線になった。だからボクが乗ったのも、約4年間程度だったという計算になる。

 都電は、本当なら環境にも優しい素晴らしい交通手段だ。東京でもいまも最後の一路線「荒川線」が早稲田から三ノ輪まで走っていて、たまに何の用もないのに乗る。ゆっくりと風景が流れていく様は、普段感じることもない時間の流れが目に見えるようで楽しい。

 季節になると大塚駅から池袋方面へと向かう線路際が、バラの花で覆われる。結構好きな光景だ。

東京「昭和な」百物語<その18>雑誌②

2016-11-29 20:11:52 | 東京「昔むかしの」百物語
そう言えば、雑誌で思い出すのは「週刊新潮」だ。

我が家がまだ上板橋に住まっていた頃、我が家に「週刊新潮」という新しく創刊された週刊誌が送られてきていた。後に「黒い報告書」などの人気シリーズを生む週刊誌ブームの火付け役だった雑誌。

なんで送られてくるのかと思っていたが、後々父親が戦前に新潮文庫の編集者だったと知ることで、その謎は氷解した。父親にシンパシーを感じてくれる後輩編集者がまだいた時代だったのだ。

ボクはかなりませていたのか小学生時代に親に内緒でコッソリと「週刊新潮」を読んでいた記憶がある。コッソリとと言うのは、ちょっとエッチな内容もあったからだったが、ことにトップ記事は政界の内幕話や事件記事で面白かった。後にトップ屋と呼ばれる一人であった梶山季之などの原稿だったと知る。吉展ちゃん事件(営利誘拐殺人事件)やら、三鷹事件、帝銀事件などといった戦後の不可解な事件の真相を追い求める記事などがあったように記憶しているが、間違いかもしれない。

ボクはお芝居をやっていた関係なのか、なかなかに破天荒な生活を送っていた。そしてどちらかと言えば社会に対して斜に構えていたし、反体制的であろうと努めていた。

1970年代に、そんなボクが嵌った雑誌が幾つかあった。

「エロチカ」という高橋鐵や団鬼六などが関わっていた性風俗(今のような性風俗ではなく、むしろ民俗学的な切り口であり、文化的な印象すらある雑誌だった。澁澤龍彦につながる系譜も内に秘めていたように思う)を扱う雑誌だった。これは我が家の本棚を占領していた時期がしばらくの間あった。

他には「東京25時」などという突き抜けた雑誌もあった。まだまだ一種独特な雰囲気を持った雑誌があったが、正直タイトルが出てこない。

1970年代も終わりに近くなって創刊された「ムー」「トワイライト・ゾーン」なども面白かった。当時「ムー」が一歩リードしていた感があったが、へそ曲がりなボクは「トワイライト・ゾーン」の方が好きだった。

この雑誌タイトル「トワイライト・ゾーン」は、1960年代のアメリカ・テレビシリーズ「Twilight Zone」から取ったもので、テレビシリーズは「Outer Limits」と双璧の不思議系テレビシリーズだった。後のスカリー、モルダーの「Xファイル」の先駆けのような番組だった。日本の誇るウルトラマンを生んだ「ウルトラQ」の生みの親でもあるだろう。

マンガ雑誌にも「ガロ」という金字塔があったなぁ。

東京「昭和な」百物語<その17> 雑誌①

2016-11-29 01:06:18 | 東京「昔むかしの」百物語
子どもの頃を思い出してみた。

上板橋に住んでいた頃、ボクはまだ未就学の幼稚園生で、父も母もまだボクにそれほどの手をかけはしなかった。例えば習い事や、勉強。

畢竟、姉には少女雑誌や少女漫画を買い与えたが、ボクにはまだ何も与えられなかった。

だから姉の手元に届く「少女クラブ」などを読んでいた。その中で最高に面白かったのは『リボンの騎士』だった。時々付録のような小冊子になっていた記憶がある。

やがてボクは両親の許しを得て「少年」を読み始める。横山光輝の『鉄人28号』、堀江卓の『矢車剣之助』、テレビとメディアミックスしていたような九里一平の『海底人8823』とかわくわくしながら読んでいた。もちろん『鉄腕アトム』もだ。

少年誌では「冒険王」「少年クラブ」などあったが、「少年」が最高峰だった。

内容に触れていると膨大になるので、雑誌名だけ取り上げることにする。

小学校4年生の時に画期的にも週刊少年漫画誌「少年マガジン」「少年サンデー」が創刊、第一号から読み始め、結局34歳まで欠かさず読んでいた。

ボクの子どもの頃の少年誌は、実は戦争色の濃いものだった。作品ではなく、巻頭の特集などは野球や相撲といったスポーツヒーローもの以外は、日本の戦艦や武器などの解説、どれほど日本の科学力が優れていたかといった内容のオンパレードだった。中にはドイツとの比較やら、ヒトラーを肯定的に紹介するような記事もあったように記憶している。宇宙ものも多かった。光子ロケットなどと言った宇宙航行のアイデアは、当時「少年マガジン」や「少年サンデー」ですでに取り上げられていたと思う。

やがて第二次性徴期を迎える頃になると、青年誌に移行するわけだが、ちょうどその間を埋める「ボーイズライフ」などという雑誌もあった。この雑誌はオカルト的な記事もあり、ボクらの脳髄を刺激してやまなかった。

青年誌では「平凡パンチ」「週刊プレイボーイ」と並んで「F6セブン」という雑誌があった。ちょうど「パンチ」と「プレイボーイ」の間に創刊された記憶がある。活字の多い雑誌だったがピンナップは結構刺激的だったかな?

(この項続く)

東京「昭和な」百物語<その16> 恋愛事情

2016-11-25 08:07:48 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和の終わり頃になると、それまでの一般的な恋愛観は相当崩れていたような気がするが、実は、昭和の恋愛観を決定的に突き崩したのは、1960年代後半のヒッピームーブメントと学生運動だった。

ボクの子どもの頃は、それこそ女の子と手をつなぐことなど「夢のまた夢」とでも言うような、この世の出来事とは到底思えないことだった。

それが、高校くらいになると、あれよあれよと世相が変化した。それはベトナム戦争、ヒッピームーブメント、反戦という三題噺のような若者の関心事が目の前に突き付けられたことによるとボクは思う。簡単に言えば外国からの輸入モノが呼び水になった。

フリーセックスなどという刺激的な言葉が世の中に登場したのも、この頃だ。ことに北欧の自由奔放な若者の性が雑誌などで取り上げられたりし始めた。

それを後押ししたのは、もちろん映画やお芝居という若者のカルチャーだった。ピンク映画、日活ロマンポルノなどという映像が溢れ、海の向こうのオフオフブロードウェイでは「ヘアー」、「ジーザスクライスト・スーパースター」などといった完全なるサブカルチャーから生れた舞台が好評を博していた。

そうした表現はすべて自由な恋愛、自由な性を標榜していたように思う。

それでは、昭和の元々の恋愛観は、どんなものだったか?

調べて見ればわかる通り、日本は元々フリーセックスの国である。ただし、身分制度に縛られ、なおかつ婚姻は家同士で行うものという前提があった。その前提をわきまえれば、恋愛は自由だった。平安時代の妻問婚の名残りなのか、夜這いなどという風習も全国に偏在していた。

だが、戦争という出来事を前に、性に対する規制や観念的な忌避が生じた。すべては国家によってコントロールされた。

だから昭和の恋愛事情は、そもそもの出発点から国家のコントロール下にあるものという、歪んだものであったわけだ。

女性は何より「貞節が一番」的なコントロール。その割には「産めよ増やせよ」と夫婦の尻は叩いた。

日本人はそのコントロールから戦後もなかなか抜けられなかったが、前述の通り、外国からのフリーセックス等という呼水で、1960年代後半に一気にタガが外れた感がある。元に戻ったといったら言い過ぎか?

その受け皿というか、大義名分というか一つの役割を担ったのが「同棲」という概念だ。

それまではお見合いを通じて家単位での婚姻が一般的だったが、男女の個のつながりでプレ婚姻、お試し婚が広く認知された。上村一夫のマンガ「同棲時代」がその先鞭をつけた。

かくいうボクも1970年に同棲した。3年間だったが充実した日々だった。なにが? と聞かれても答える気はないが……。

とにもかくにも、昭和の後半は婚姻の形もお見合いは一気に廃れ、自由恋愛が当たり前の時代に移行した。手を握ることなどに躊躇している暇もないほど、事は先へ先へと進んだわけだ。

1970年頃には、ディスコなどに行くとトイレでその場しのぎのセックスに興じる男女を見かけることも普通だった。

恋愛を時代でひとくくりにするのは、無理があるなといま感じたが、もう遅いな。

東京「昭和な」百物語<その15> 254円? 本当は240円!

2016-10-18 14:47:00 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクが生まれた1949年には、戦後という言葉もリアルで、まだまだ労働の現場も混乱し、大の大人も仕事にありつけなかったらしい。

就職ができたのはエリート、手に職を持った人間の類で、復員してきた一般労働者はその日暮らしを余儀なくされていた。

そこで東京都が打ち出した施策が、職業安定所の支払う日雇い労働者への日給の定額化だった。その額は240円。当時は今のような百円硬貨はなく、百円札2枚と十円札4枚が支給された。

つまり百円が2個に十円が4個。縮めてニコヨンというわけだ。このニコヨンという言葉は結構長く使われていて、ボクが物心つく頃にも、日雇い労働者の別称として言葉としては生きていた。同じころ、タコ部屋という言葉もよく聞いた。

ただ就学年齢に達する頃のボクは、ニコヨン=254と勝手に解釈していて「たったの254円で働くのか!?」と自分の将来に暗澹たる思いを抱いていた。
それが百円2枚と十円4枚と知ったのは、20歳を過ぎてだいぶ大人になってからだ。

当時はニコヨンという言葉はどちらかというと使われ始めた頃より、だいぶ侮蔑的なニュアンスが与えられ、ドヤ街と呼ばれた簡易宿泊所の集まる地域(ドヤは宿をひっくり返した言葉だ)で暮らす日雇労働者に対する蔑称となっていた。

1970年頃はまだ三大ドヤ街と呼ばれた、関西の釜ヶ崎(いまの西成あいりん地区)、横浜の寿町、そして東京南千住の山谷が普通に存在し、当時の学生運動・労働運動で政治犯的扱いを受けた者が逃げ込み紛れる場所でもあった。

高度経済成長の陰で、多くの日雇い労働者がこのドヤ街で生活していた。

それでもいまではドヤ街も、外国のバッグパッカーのための安宿の提供などで、かなりその存在理由も変化している。

いまでもやっているか未確認だが、西成の飲み屋でジャズコンサートが開かれているという、ちょっとにんまりするようなニュースに接したこともある。

それにしても。

なにやらいまの社会の労働の質が、昭和のニコヨンという言葉を使っていた時代相と、妙に似ているような印象をボクは持っている。

ブラック企業やら派遣などという言葉にも、ニコヨンと似たようなニュアンスを感じる。

労働という尊い行為が、一部の金持ち連中を太らせるだけ太らせているという事実にはうんざりするが、ニコヨンなどという言葉が使われる世の中には戻らないようにと願うだけだ。



東京「昭和な」百物語<その14>閑話休題「2.26事件」

2016-10-16 18:34:10 | 東京「昔むかしの」百物語
いまや2.26事件など、歴史の中の一事件としてすら、覚えていない人の方が多いのだろう。

昭和11年の出来事で、立派な昭和の一事件。もちろんボクは生まれてはいないけれど、よく考えたらボクの生まれる「たった」13年前の出来事だということに、改めて驚くわけだ。

ざっくりいうと、所謂戦前の皇道派と統制派の主導権争い(本当はそれほどの争いをしていたわけではなく、軍主導の皇道派に対するアンチテーゼが統制派の実態のような……)の果てに、北一輝や西田税等の民間煽動家にたきつけられた形で、皇道派青年将校が企てたクーデターが2.26事件だが、(このあたりの理解とニュアンスはそれぞれに異なるだろうが……)映画やドラマで再現されることも、今の世相下では最早ありえないといってもいいかもしれない。

そうした歴史に埋没しかけている一事件だが、僕には結構身近な歴史的案件で、時々ふと思い出すことがある。

何の前触れもなく思い出すのだが、今日もなぜか思い出した。

その理由は、以前にもどこかで書いたかもしれないが、ボクの母が2.26事件の時に間近にいたという事実による。

ボクの母は、旧姓を田中茂子といい、昭和11年当時勧銀でタイピストをしていた。後にタイピストとして海を渡り、ボルネオの陸軍前線基地で過ごすなどしたハイカラなおふくろだった。

その彼女が2.26事件当時のことを時々話してくれたのだ。

当日は雪が降っていたこと。出社するとなにやら勧銀も不穏な空気に包まれたこと。なにが起きたかわからないまま、仕事にならず、当時家族と住んでいた中野まで雪の中を歩いて帰ったことなどを聞かされた。途中多くの将校が行きかう姿を見たらしい。

当時の勧銀がどこにあったかは聞き漏らして定かでないが、大手町とか内幸町とかの辺りだったのではないだろうか。

2.26事件は、総理官邸、蔵相私邸、教育総監私邸、侍従長官邸などを中心とした10数カ所を舞台に1400名に上る皇道派青年将校が一斉に蹶起し要人の暗殺を謀ったもので、多くは午前6時前には決着がついていた。その後、新聞社などの報道機関を抑えにかかり、蹶起は一応の成功を収めたかに見えたが、頼みの天皇陛下は激怒し「賊軍」とみなした。

そして急速に事態は収束に向かい、29日には「討伐命令」が下り、クーデターは終焉した。

こうした歴史は、今や日本という国家においては全く意味のない歴史といっていいのかもしれない。軍部のクーデターなどという言葉を、リアルに受け止めることのできる日本人など、もはやほとんどいないだろう。だが日本は確かにそうした歴史を刻んだ国家ではある。

ここで2.26事件を取り上げる意味は皆無だ。ただ目の前に母の写真があって、急に母の話を思い出したに過ぎない。

東京「昭和な」百物語<その13>昭和33年

2016-08-08 00:34:25 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和33年は、戦後の昭和という時の流れを意味するのみならず、日本総体にとってエポックメイキングな年だった。
この「エポックメイキング」という言葉(とうの昔に死語になっている)も、いかにも昭和だが、昭和33年こそが日本という敗戦国家の「次元」を一つ変えた年なのだ。

西岸良平さんの『三丁目の夕日(夕焼けの詩)』の作品初期の舞台背景になっている年でもあるけれど、昭和33年をいささかでも記憶にとどめている人は、ある意味幸せだ。それはさまざまな変化の中に、とても前向きで希望にあふれ、それでいて忘れることのできない負の要素も含みこみながら、生きている記憶が鮮明な時だったからだ。

wikiで調べてみると早いが、昭和33年にあったことを、記憶の中から取り出せるだけ取り出してみると、以下の通りだ。

まず薬害。サリドマイド配合の「イソミン」が発売された。
宇宙開発。アメリカの人工衛星「エクスプローラー」が打ち上げられた。
音楽。第1回日劇ウエスタンカーニバルが開催された。
放送。地方放送局がTV放送を開始した。*
交通。関門トンネルが開通した。
芸能。ナンシー梅木が、ハリウッド映画「サヨナラ」で日本人として初めてアカデミー賞助演女優賞を受賞した。*
売春防止法施行。
長嶋茂雄がプロ野球デビューを4打席連続三振で飾った。相手は国鉄スワローズの金田正一投手。
返還前の沖縄首里高校が初の甲子園出場を果たした。*
日清食品が即席ラーメン「チキンラーメン」を発売した。
アサヒビールが初の缶入りビールを発売した。
東京タワーが竣工、公開された。
電車特急「こだま」の運転が開始された。
皇太子殿下、正田美智子さんとの婚約を発表された。
国民健康保険法が公布された。*
日本初のプラモデル発売(モノは何だったか記憶にない)。
(*wikiを参考にしたもの。それ以外は僕の記憶)
などなど。

どうだろうか?

いまの日本の原景が、良きにつけ悪しきにつけ収まっている年だと思えないだろうか?

そうなのだ。昭和33年(1958)は、良いも悪いも様々が出そろった、のちに語り継がれる要素が溢れる年なのだ。

中でも特筆すべきは、僕の奥さんが生まれた年だということ。

なんちゃって。

東京「昭和な」百物語<その番外編>クラシックという喫茶店

2016-07-19 21:14:32 | 東京「昔むかしの」百物語
 その昔、中野に「クラシック」という名曲喫茶があった。ブロードウェイに入る手前を左に入った左手にあった。
 1930年創業のその店は、そう、まるで絵に描いたような絵描きスタイルの、モダンな感じのオーナーが切り盛りしていた。当時既に相当のお歳だった。確かお名前は「美作」さんといった。おそらく岡山出身なのだろうと思っていたが、聞き損なった。
 古びた(アンティークと言った方が良いのだろうか?)椅子とテーブルが並んで、いかにも「クラシック」と言ったイメージ通りの内装だった。
 1970年代初頭は、メニューは紅茶とコーヒーと、ミルクだったかジュースだったか忘れたが、いずれにしても3品だけで、一品100円以下、80円くらいだったような覚えがある。なぜか食券と言うか、丸いプラスティックの札を渡されるのだが、それを手元においておくのはほんの数分で、何のための儀式なのか不思議に思い続けていた。
 そして、その100円ほどのコーヒーか紅茶かミルクを後生大事にチビチビとすすりながら、本を読んだり原稿を書いたり、客の大半は、短くともおよそ半日はそこで過ごした。紅茶は独特で、行平の鍋で茶葉を煮立てて出したもの。だから渋いほどに濃い紅茶だった。それでもなぜか紅茶を頼む人が多かった。
 いまにもくずれそうな階段で二階に上がり、一階を見下ろすことのできる端っこの席に座るのが常だった。ただその席は、寄りかかるとグラリと下に落ちそうなほど不安定な手摺で、いつも緊張しながら座っていた。
 名前の通り、クラシックの名曲が一日中かかっていた。その店ではマーラーの「四季」を聴くのが好きだった。
 聞くところによると、「クラシック」は2005年まで続いていたらしい。不覚にも1990年代で終わったに違いないと、勝手に思い込んでいた。80年代90年代は一番仕事の忙しかった時期で、まったく行くことがなかった。だから、通い詰めた70年代前半までの「クラシック」しか知らない。
 だが、クラシックの名曲はほとんどここで聴いた。なぜかワグナーもよくリクエストした。モーツァルトやベートーベン、ショパンなどはほとんど聴かなかった。そういう時代だったのだ。店の雰囲気が、大仰な曲に良く合った。
 思えば、こうして思い出を書ける喫茶店があることなど、今の若い人には理解できるだろうか?
 なぜ、わざわざ喫茶店などに出向いて音楽を聴いたのか?
 昔はただただ貧しかったのだ。オーディオを買うお金などなかった。そんなものは社会的ステイタスを獲得した後に手に入れるものだった。高価だったから。その代わり、喫茶店などがオーディオ機材を揃え、レコードもかなりコレクションして、良い音で客に聴かせてくれた。
 昭和。音楽との接点は、ラジオと、そこにしかなかったのだ。

東京「昭和な」百物語<その12>あれ、とかこれの3 この際、省線のこと

2016-04-11 23:33:53 | 東京「昔むかしの」百物語
JR線のことを、その昔、昭和の20年代半ば頃までは「省線」と言いました。

大正期から、国家機関である鉄道省・運輸通信省・運輸省等の管轄下で営業された鉄路の総称だったようです。調べると昭和24年まで「省線」の名称が使われ、「国鉄(日本国有鉄)」に変更になりました。やがて1987(昭和62)年にはJRになりましたが、その前に一時「E電」などという呼称も存在しました。なんだか今風な感じですが、「良い電車」の後尾呂合わせだったような気がします。

省線という言い方は、ボクの両親や親戚の叔父・叔母などが使っていました。国鉄という言い方はなじめないと言っていたのを覚えています。ボクも省線と言っていた記憶があります。小学校の時、友達と省線、国鉄どちらが良いか論争をした記憶もあります。

省線ですが、ボクは山手線を指してそう言っていました。なぜでしょう? 理由は分かりません。コーヒー色をしたしかつめらしい外観の電車でした。乗り込むとすぐに今で言えばポールダンスに使うようなステンレス製(ひょっとすると真鍮製?)の棒がありました。座ることもできず吊革につかまることもできない人は、そこに掴まるわけですね。床は10㎝幅くらいの板材を貼り合わせてありました。そしていつも頭が痛くなるほど、ワックスの臭いがしていました。

座席は固いけれど、まるでビロードのような素材のカバーだったような気がします。昭和30年頃はまだ、対面式の座席の車両もあったのではなかったかという気がしますが、記憶違いかもしれません。

どんな満員電車でも、煙草の煙が充満していました。混雑時に煙草が禁じられたのは、1960年代に入ってからではないでしょうか。それでも普段は喫煙可でした。新幹線が禁煙車両を設けたのは70年代の半ばだったと思いますね。

子供の頃は、初乗り運賃、というより山手線一周どこまで行っても5円だったと思います。ボクが山手線を使うのは、代々木、のちに原宿に転居した母方の叔母の家に遊びに行くときでした。

中学に入学した頃からは、あちこち行きましたが……。

昭和30年代までは、子供を抱いた若い母親が、電車内で授乳するのも普通の光景でした。

東京「昭和な」百物語<その11>あれ、とかこれの2・遊び道具

2016-03-09 00:13:33 | 東京「昔むかしの」百物語
前回、電話のことを書いた。まったく隔世の感がある。

同じ程度にその変化の大きさに衝撃を受けるのが、遊び道具だ。

昭和30年代。日本中を席巻した遊び道具が、3つあった。

それは、およそすべての日本人が、なんとか手に入れたいと思った類のものだった。それほど大流行した。

まず流行ったのは、ホッピング。昭和32年のことだった。一本足のポゴスティックとも呼ばれる遊び道具に似た、バネを仕込んでより高く飛び上れる、オモチャというより、運動道具だった。今でも、売られていて高度な技を見せてくれる若者もいるようだが、当時はみんな道路でただただピョンピョン飛んでいた。だが、なぜか急激に下火になった。

その理由は「胃下垂になるから」というものだった。首をかしげたくなるような理由だった。

次はフラフープ。直径1メートルほどのプラスティック様の輪っかで、それを腰のあたりや首で回転させて遊ぶ。ただそれだけのものだったのだが、爆発的なブームになった。元々はアメリカからの輸入物だった。昭和33年のことだ。ボクは小学1年生ぐらいだったが、腰をうまく使いながら、いつまででも廻していられた。廻し続けられる少年少女は、モテた。

だが、あるときを境に一気に下火となった。なぜか? これは「腸捻転の原因」と言われ始めたからだ。

なんだか妙な理屈だらけで不思議な感じだ。

腸捻転はどうかわからないが、確かにやりすぎると腹回りが痛くなり、腹筋にも過度の負荷がかかった。そう考えれば、今でもフラフープが、ダイエット用品として頗る人気の理由が分かる。

次に大流行りしたのが、ダッコちゃんだ。これは昭和35年頃の流行だった。
真っ黒なビニール製の人形で、当時の言葉で「黒んぼ(黒人の蔑称のように受け取られている)」を模した、両腕が輪っかを作り、ちょうど二の腕辺りにコアラのように抱きつかせて歩く、これもただそれだけのオモチャだった。その姿かたちは、当時の人気児童書「ちびくろサンボ」(1980年代になってエキセントリックな反差別主義で、発売自粛というか発禁になってしまった)と重なって、なお人気だった。

夏の海岸などは、誰も彼もがダッコちゃんを腕に留めて闊歩していた。街中でも女の子の腕にはダッコちゃんがくっついていた。

一体どれほど売れたものかわからないが、現在のタカラトミーの前身、宝ビニールという会社が制作・販売し、大儲けしたという話は聞いたことがあった。

この3つの遊び道具が、昭和の3大オモチャ。考えてみれば、すべて遊んだ。そしてあっという間の下火にも、世間様と歩調を合わせた。

ただ、その遊び道具は、どれも外で体を使って遊ぶ道具だった。

いま、家の中でオンラインゲームなどで遊んでいる子どもたちの姿を見ていると、まさに隔世の感があり、どちらが良いのかなどと考えてもしまう。

外で遊び辛い時代ではある。実際にわけの分からない、それとわかる危ない人も多い。地域の高齢者が子どもに声をかけるだけで、変質者扱いされるような時代。それでも、やっぱり「外で遊ぶ方がよくね?」などとお節介なことを言いたくもなる。ただ、昭和30年代の遊びも、いま考えればそれ程おすすめでもない。

どちらかといえば、野原で蝶々を追い回し、小川でメダカ取りに興じて遊ぶ子どもが一番だと思うのだが、最近は野原も小川も、蝶々もメダカも何もない。

やんぬるかなという所。

東京「昭和な」百物語<その10> あれ、とかこれの1・電話

2016-01-24 22:16:27 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和な「電話」という道具について。

もとより、今のようなパソコン・スマホなどという通信手段、情報収集手段などなかった。

画期的にも車載電話ができ、大きなお菓子箱をぶら下げるが如き携帯電話もできはしたが、昭和のそれは無骨で見るに堪えない、ましてや使うに忍びない代物だった。

ボクらにとっての通信手段は、手紙であり電報であり、電話だった。もっと言えば直接相手に会いに行くことだった。

ボクは昭和24年生まれだが、東京に引っ越してきて初めて我が家に電話が入ったのは、昭和33年だった。黒電話で、しかもダイヤルもなかった。どんなものかと言えば、一度外部から交換台(我が家は公団住宅だったから、電話番号は公団住宅宛の数回線だけだった。それが交換台に繋がり、交換手が800世帯ほどあった公団住宅の各部屋に繋ぐシステムだった)を通して我が家の端末電話に掛かってくるというもの。今でいえば、ホテルの各部屋にある内線電話のようなものだと思えばいい。

それが時を経ずして、昭和35年には各家庭ごとに黒電話が入った。それぞれに電話番号が割り振られたのだ。一気に電話が普及した時だった。いまでもその電話番号を覚えている。398-4☓☓☓。もちろん今ではかからない。

今の若者は「ダイヤル」と言う言葉も知らない。ヒチコックの名作「ダイヤルMを廻せ!」という映画タイトルの意味も分からないのだ。

公衆電話はあった。この公衆電話は、いまでは想像もつかない道具だった。当時いつ頃までだったか定かではないが、10円で日本全国、時間も無制限に繋がった。とにかくただただ便利さを共有するという意識だけだった。そのことで金儲けしようなどという発想は、電電公社にもほとんどなかったのではないか。

ちょうど昭和30~40年代のテレビ番組で、アメリカのSF物のテレビ・シリーズが人気だった。「スタートレック」「宇宙家族ロビンソン」「空飛ぶ円盤UFO]「アウター・リミッツ(Out of limits)」「世にも不思議な物語」……。

そうした映像の中で、腕にはめた通信機器を使って遠方の仲間と連絡を取るというシーンがよく登場した。

あれから半世紀。あの当時の映像の中の通信機器を遙に凌駕する道具を、ボクたちはいま、使っている。

感慨深いことだ。