普通な生活 普通な人々

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音楽って、なに?

2011-04-20 23:44:04 | 音楽にまつわる話<的>な
 以前、J-CAST「音盤見聞録」で「閑話休題 ―大人音(OTO NA OTO)―」と題して掲載した原稿を再録します(少しだけ手直しをしています)。

音楽をどう読むか? 「音を楽しむ」か「楽しい音」か
音楽ってなに? こう大上段にいう場合は、まず「音楽」を文字としてどう読み取るか? 「音を楽しむ」のか? それとも「楽しい音」か? というあたりから入るといいかもしれない。
「音を楽しむ」ということであれば、楽しむ主体者は誰なのかが語られなければならない。それは聴き手でもあり、演奏者でもありうるけれど、いずれにしても「主体的」に音と関わる中心となる存在が前提にある言葉だと思う。
反対に、「楽しい音」ということになると、けっこう、放置プレー気味な言葉の印象。「誰にとって」という、むしろ客体者(こんな言葉あったっけ?)が問われる言葉だ。

いま音楽を生業にし、音楽と向き合っている人たちは、音楽との間にどんなスタンスを取っているのだろう?

「音楽」は、誰が書いたのかは不明だが“Wikipedia”によれば「人間が組織づけた音である」とある。うまい! 座布団でもあげたいくらいだが、これはどちらかといえば「音を楽しむ」という主体的な音との関わりが元になっているようだ。

「音楽」という言葉に込められた意味
ところで、「音楽」という言葉そのものは、中国で紀元前3世紀に成立した『呂氏春秋』に出てくる。そこには「音楽之所由来者遠矣、生於度量、本於太一」と表現されている。
「度量」とは音の規則つまり音律を指すらしく、「太一」は本源的な宇宙の根本法則を意味する。してみると、「音楽」とは宇宙根源の法則から生まれた音律ということになる。ならば、初出の文字としての「音楽」は、放置プレーである「楽しい音」に近かったのか。

基本的にはどちらでも良いことなのだろうが、音楽家であればその拠って立つ立ち位置で、できあがる音楽は根本的に違うものになるだろう。また、聴き手のスタンスの差は、音楽によって自分の中で沸き起こる"化学変化"の差になってでてくるだろう。

 雑駁な応援ソングばかりが耳につく今日この頃だが、東日本大震災の被災地域に多くのミュージシャンが入り始めている。おそらくは誰もが真剣に心の底から被災者支援を叫んでいることだろう。被災地に入ったミュージシャンにとって新しい音楽との向き合い方も生まれてくるに違いないと、期待している。

世の中には、一過性の音楽もあれば永続的な音楽というものもある。どちらが良いというものでもないが、いまこの日本で必要な音楽は、どちらなのかと考えることもまた、必要なことかもしれない。

<加藤 普>