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東京「昭和な」百物語<その15> 254円? 本当は240円!

2016-10-18 14:47:00 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクが生まれた1949年には、戦後という言葉もリアルで、まだまだ労働の現場も混乱し、大の大人も仕事にありつけなかったらしい。

就職ができたのはエリート、手に職を持った人間の類で、復員してきた一般労働者はその日暮らしを余儀なくされていた。

そこで東京都が打ち出した施策が、職業安定所の支払う日雇い労働者への日給の定額化だった。その額は240円。当時は今のような百円硬貨はなく、百円札2枚と十円札4枚が支給された。

つまり百円が2個に十円が4個。縮めてニコヨンというわけだ。このニコヨンという言葉は結構長く使われていて、ボクが物心つく頃にも、日雇い労働者の別称として言葉としては生きていた。同じころ、タコ部屋という言葉もよく聞いた。

ただ就学年齢に達する頃のボクは、ニコヨン=254と勝手に解釈していて「たったの254円で働くのか!?」と自分の将来に暗澹たる思いを抱いていた。
それが百円2枚と十円4枚と知ったのは、20歳を過ぎてだいぶ大人になってからだ。

当時はニコヨンという言葉はどちらかというと使われ始めた頃より、だいぶ侮蔑的なニュアンスが与えられ、ドヤ街と呼ばれた簡易宿泊所の集まる地域(ドヤは宿をひっくり返した言葉だ)で暮らす日雇労働者に対する蔑称となっていた。

1970年頃はまだ三大ドヤ街と呼ばれた、関西の釜ヶ崎(いまの西成あいりん地区)、横浜の寿町、そして東京南千住の山谷が普通に存在し、当時の学生運動・労働運動で政治犯的扱いを受けた者が逃げ込み紛れる場所でもあった。

高度経済成長の陰で、多くの日雇い労働者がこのドヤ街で生活していた。

それでもいまではドヤ街も、外国のバッグパッカーのための安宿の提供などで、かなりその存在理由も変化している。

いまでもやっているか未確認だが、西成の飲み屋でジャズコンサートが開かれているという、ちょっとにんまりするようなニュースに接したこともある。

それにしても。

なにやらいまの社会の労働の質が、昭和のニコヨンという言葉を使っていた時代相と、妙に似ているような印象をボクは持っている。

ブラック企業やら派遣などという言葉にも、ニコヨンと似たようなニュアンスを感じる。

労働という尊い行為が、一部の金持ち連中を太らせるだけ太らせているという事実にはうんざりするが、ニコヨンなどという言葉が使われる世の中には戻らないようにと願うだけだ。