普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

さや様へ

2016-11-26 01:38:11 | こんなことを考えた
10月15日に、6月20日に書いたボクの原稿に「返答」と題して原稿を書きましたが、その原稿に対して「さや」さんから「不完全燃焼である」との意味合いのコメントを頂いたので、再度パラレルワールドについて書くことにしました。

「さや」さんの言葉は、本当は「不完全燃焼である」などというものではなく、ボクと奥さん二人のパラレルワールドに対する説明を聞きたいとのことでしたので、あらあら書かせていただきます。

ボクと奥さんのパラレルワールド「論」は、実は基本的にそれほどの差異があるわけではありません。

仏教の「一念三千」という法門がベースにあります。

「さや」さんが、この「一念三千」という法門の意味をご存じないという前提で書きます。もしご存じなら失礼ぶっこきます。
 
仏の示した「一念三千」の意味(本当は仏の真意を天台大師が解き明かした)については、2012年の3月28日と30日の二度に分けて、このブログで少しだけ書いているので、参考にしてください。

さて、「一念三千」とは、文字通り「一瞬に想起する一念に、三千の認識、言葉を換えれば選択肢が生じる」ということです。言ってみればボクたちは一瞬一瞬毎に、必要な選択をし続けて生きているということになります。

考えてみればストレスの多いことこの上ないわけですが、仕方ありません。そうしなければボクの思考も意識も停止してしまう、言い換えれば生命としての「死」を迎えるからです。「一念三千」は、生きる意味を表わした法門でもあるのです。

さてその「一念三千」ですが、三千というのはもちろん仏法的にきちんと裏付けのある数字なのですが、それは置いておいて、数多のという意味合いで捉えていただけばいいと思います。人は一瞬に常に移ろう三千の世界を抱え、瞬間瞬間にその一つを選び取って生きている存在というわけです。

これはどういうことかといえば、いつでもシフトできる三千の世界、つまりパラレルな三千の世界を人は誰でも抱えているということです。別の世界に移ろうと思えば、いつでも移れるのです。

それは、人間は自分が選べば自分にとって最良の世界を選び取ることができるということです。

その方法は、例えば仏教的には修行などといいますが、そんなことではない。要は「深い思い」です。

自分にとって最良の世界を選ぶというのは、決して最高にハッピーな世界、というわけではないということに注意してください。

自分にとって最良、というのは自分が気持ちのいい世界であり、幸せとは限りません。ぐずぐずと他人に対して文句を言うことが大好きな人もいます。自分の生活に不満ばかりあることが好きな人もいます。人と別れることが実は楽しくて仕方ない人もいます。そうしようと思って人は自分の人生を選んでいるのです。

いまの自分の境遇、境涯は、ほとんどすべて自分が望んだ結果としての世界なのです。

傍から見るともの凄く不幸に見えても、平気な顔で生きている人もいます。それは自分が選んだ世界に納得しているからです。

最高の誰から見ても幸せな世界から、最低の誰が見ても不幸な世界まで、人は三千の世界を選びながら生きているのです。だから強い思いで「最高に幸せな世界、自分だけでなく人も幸せにしていける世界」を望めば、一瞬にしてそうなるのが、ボクたちの世界なのです。

それがパラレルワールドの本質だと、ボクは考えています。実は奥さんもそうです。ただ、異なるのは実践です。

奥さんは見事に実践の人で、パラレルワールドの中から最高に幸せな世界を選び取れる人です。ところがボクは理論的な理解はできていても実践が伴わない、と奥さんは感じているのです。実はボク自身もそう思ってしまっている節がある。

そこが異なります。最高に幸せな人生とはどんな人生なのだろうか? そう自問自答し続けようとボクは思っているわけです。そしてある日ふとそのことの意味が分かり、行動に移すことに何の抵抗もなくなり、ボクは別の世界にシフトする、そう思っています。

さやさん、こんな感じです。

もう少し補足すると、量子力学ではパラレルワールドの存在が証明されたそうです。簡単に言うと同一の量子が二カ所に存在できることを確認したということのようです。つまり一つの存在に少なくとも二つの世界があるということです。

こんな感じです。

最初にさやさんが「不完全燃焼」と言ったと書きましたが、それはパラレルな別の世界のボクの認識・受け取り方だったということです。ほんの少しのずれ。それこそがパラレルワールドなんだと思います。