河村顕治研究室

健康寿命を延伸するリハビリテーション先端科学研究に取り組む研究室

吉備国際大学車椅子バスケットボール愛好会BEATのテレビ放映を見て

2010-02-21 | 大学
木曜日の吉備国際大学車椅子バスケットボール愛好会BEATのテレビ放映は、大学で仕事をしていたので見られなかった。
家人に録画を頼んでおいた。
その録画を見て、正直驚いた。
その活動内容がすばらしいのは当然として、私には非常に衝撃的な内容が含まれていた。

私は、形だけとはいえ現在吉備国際大学車椅子バスケットボール愛好会BEATの顧問を務めている。
昨年の4月1日からである。
就任に当たっては、何も知らないのは問題だと思い、一度練習を見に行ったことがある。
理学療法学科2年生のクラブのメンバーから顧問を依頼されたのが直接のきっかけだが、それ以前にもこのクラブとは因縁があった。

2年ほど前に、吉備高原医療リハビリテーションセンターの院長およびリハ部長から、ある依頼があった。
入院患者さんに機能改善を兼ねて車いすバスケットボールを指導しているのだが、マンパワーが足りないので吉備国際大学の学生にボランティアをしてもらえないかという依頼だった。

私は、以前勤務していた病院からの依頼なので、何とかしたいと思い、いろいろな方面に相談したところ、学内に車椅子バスケットボール愛好会があると言うことを知った。
それで、クラブを作りリーダーを務めている田中君という学生に研究室まで来てもらい話を聞いた。
田中君はやる気満々で、ぜひお手伝いしたいという。
いろいろ話を聞いていると、身内に脊髄損傷の方がいて車いすバスケに興味を持ったのだと言うことを知った。

吉備リハからのボランティアの依頼は、活動の実施時間が日中と言うことで、授業を抱えた学生には無理だった。
残念だが、この件はお断りした。

そうしたいきさつが過去にあって、それまで顧問を務めてくれていた先生が都合が悪くなったと言うことで、私に顧問の依頼が来たのである。

クラブのメンバーには申し訳なかったが、私も多忙でなかなかクラブの活動を見に行くことはできなかった。
せめて、テレビの放映くらいは見なければと思い、録画を見始めた。
どんどん内容に引き込まれた。

そのうち、リーダーの田中君がなぜ車いすバスケを始めたのかというところになって、衝撃の事実が明らかとなった。
田中君のお父さんには17歳で頚髄損傷になった妹がいて、田中君は小さい頃から車いすの人の介護をするのが当たり前と思えるような環境だったのだそうだ。
その叔母さんがリハビリとして取り組んでいた車いすバスケに魅了されたのがそもそものきっかけだったのだそうだ。

テレビの映像がその叔母さんの写真と名前を映し出した。

「あ!」

私はテレビを見てこれほど驚いたことはない。

その叔母さんとは、私が研修医の頃、主治医として受け持った患者さんだったのである。

もう20年くらい前のことである。
私は設立されたばかりの吉備高原医療リハビリテーションセンターに赴任を命じられ、何も分からぬままリハビリテーション科医として勤め始めたばかりだった。
開院当初は150床ある中で、一桁しか入院患者がいなかった。
その中の一人が田中君の叔母さんだったのである。
叔母さんと言っても当時は20代前半で、まだまだ若い女の子だった。
彼女は17歳の時にバイク事故で頚髄損傷となり、その後は世をすねてリハビリも何もせず施設生活を送っていたのだが、西日本に本格的なリハビリテーション病院ができるという報道を見て、初めてやる気を出して入院してきたのである。

私は脊髄損傷の患者さんを受け持つのは初めてで、正直何も分からなかった。しかし、時間はたっぷりあった。
毎日いろいろな話をした。
私は何もできなかったが、リハスタッフで作業療法士のIさんが彼女にのめり込んだ。
全身全霊を込めて彼女のリハビリに当たってくれた。
当初、甘えの目立つ患者だったが、Iさんの熱意は彼女に伝わり、めきめきとリハの成果は上がっていった。
彼女の損傷レベルはC6だったと記憶しているが、いくら頑張ってもどうしようもない壁に突き当たった。
それは排泄の問題である。

C6レベルの頚髄損傷の患者が自立するには自己導尿ができなくてはならない。
自分の尿道にカテーテルを挿入して排泄するのである。
しかし、彼女はいつまで経ってもそれができない。

我々はどうしたら彼女が前に進めるか真剣に議論した。
その結果、一番良いのは彼女と同じ怪我の患者さんが実際に自分で何でもできているのを見せることだと結論した。
吉備高原医療リハセンターには当時そのような患者さんはいなかった。

結局、歴史のある兵庫リハセンターに彼女をお願いすることにした。

私は今でも覚えているが、作業療法士のIさんとリハ科部長の徳弘先生と一緒に車を運転して兵庫リハまでお願いに行った。

結局彼女は兵庫リハセンターに転院することになった。
そこで、現在のご主人と車いすバスケに出会ったのである。

数年後、結婚したとの連絡が彼女からあり、車の運転もできるようになったと知った。


そういう経緯が、テレビの画像を見た瞬間に私の頭の中を駆け巡った。

つまり、私が20年も前に田中君の叔母さんを兵庫リハに紹介したことで現在の吉備国際大学車椅子バスケットボール愛好会BEATが存在するのである。
しかも、形だけとはいえ、私は今、吉備国際大学車椅子バスケットボール愛好会BEATの顧問なのである。
こんな偶然があるだろうか。

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週末の徒然

2010-02-21 | 大学
19日(金)は、リハ学会編集委員会のために東京駅地下の会議室まで日帰り出張した。
2ヶ月毎の編集委員会を4年間頑張ってきたが、これでやっと2年2期の任期が終わる。
ところが、最後の最後になってまた新規担当論文が割り当てられたため、4月の編集委員会にも最後の挨拶を兼ねて出席することになった。
それでももう既にゴールは見えているので気持ちは晴れ晴れしている。
思い返すとこの4年間は本当に辛かった。
4年前の編集委員に就任した年には単独で地方会を開催しなければならなかったし、亡父が肺癌を発病したりして、公私ともに多忙だった。
世の中が多くの善意で支えられていることを身をもって体験した4年間であった。

深夜にのぞみで岡山に帰り着き、5時間ほど睡眠を取った後、20日(土)の朝一番に瀬戸大橋を車で渡って四国の実家に帰った。
昼には逆のルートで岡山に帰り、午後は岡山駅近くのホテルで「平成21年度吉備国際大学保健科学部理学療法学科臨床実習委員会」に参加した。
いわゆるスーパーバイザー会議と言われるもので、学外の臨床実習を委託している病院の担当PTの方に年に1度集まって頂き、打ち合わせをするものである。
昨年はORSの学会出張のため欠席したが、2年ぶりに参加して感じたのはずいぶん会議が落ち着いてきたと言うことである。
年数を経てきた分だけ、だんだん大学と実習指導施設のコミュニケーションがよくなってきているということを感じた。

医学部で医学教育を受けた身にすれば理学療法士や作業療法士の臨床実習はずいぶん変わったものに映る。
一言で言うと医師ならば卒後に行う臨床研修を、大学卒業前に行っているように見えるのである。
歴史的に、PTの絶対数が少なかった時代には卒業して就職したら即一人前として一人で働かなくてはならなかったから卒前の実習で経験を積む必要があった。
しかし、これだけ絶対数が増えてきた今日では臨床実習のあり方も医学部式にした方が良いのではないかと個人的には感じる。
要するに卒前の実習は見学を中心としたものにして、卒後研修を充実させるという方向である。

来週は研究所補助金予算の最終調整を済まさなければならない。
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