昨日はオープンキャンパスのため、いつもの駐車場には車が停められず、遠いところに停めて歩いて大学へ行った。
前回のオープンキャンパスの時にはまだ基礎もできていなかったが、学園橋のところの山田方谷の御茶屋(水車)跡は着々と工事が進行していた。
そもそも山田方谷という人はどのような人物なのだろうか。
私も吉備国際大学に勤務するようになってからその名前を知ったくらいなので全国的には全く無名なのではないだろうか。
おそらく吉備国際大学の卒業生でもそんな人知らないと言いそうだ。
山田方谷(やまだ ほうこく)
文化2(1805)年2月21日~明治10(1877)年6月26日
山田方谷は、備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)で生まれた。
方谷が生まれた山田家は、元武家ではあるものの没落して農業と菜種油の製造販売を家業とする農商家として生計をたてていたらしい。
幼い頃からきわめて優秀で、20歳で士分にとりたてられ、藩校の教授をしていた。
天保4(1833)年、29歳の時に江戸に出て佐藤一斎に学び佐久間象山とともに二傑と呼ばれた。
嘉永2(1849)年、44歳の時に藩主が交代し、新藩主の板倉勝清(いたくら かつきよ)から、藩の元締役(もとじめやく)への就任を要請される。
藩主板倉勝静のもと藩政に参加し、10万両(現在価値で約60億円)の借金にあえぐ藩財政を、わずか8年で逆に10万両の蓄財にかえてしまった。
方谷の改革の手法は現代を生きる我々も手本にする価値があると思う。
また詳しく調べてみたい。
長岡藩の河井継之助には師として崇められた。
山田方谷は藩政にあたるため、半月はこの御茶屋に居住した。
河井継之助が暫く寝泊りした場所でもあるそうだ。
財政だけでなく備中松山藩は、方谷によって軍事、教育の改革が行われた。
幕末、世の中が混沌としてくると、方谷は、藩内に農民で組織する「里正隊」を組織した。
装備は英国式で最新式の銃を使用した。
教練も西洋式で完全能力性によって軍隊教練を受けた。
農民兵を用いて、西洋式装備と教練を施し、新たな軍事力とする。
これは高杉晋作の「奇兵隊」にそっくりだと思ったら、真実は高杉晋作の奇兵隊が山田方谷の里正隊の真似であったらしい。
教育については、藩内の塾13、寺子屋62という教育体制がひかれた。
さらにこれらの学校で優秀な成績を修めた者は、身分の区別なく役人に抜擢された。
幕末の混乱期には藩を滅亡の危機から回避させ、明治維新後は岩倉具視や大久保利通から大蔵卿として仕官することを要請されるがこれを固辞して私塾を開き、多くの人材を育てた。
今は全国的には無名だが、そんなすばらしい先人が高梁にいるというのは誇らしい。
もうすぐ、山田方谷の御茶屋(水車)跡が吉備国際大学の玄関として完成する。