昨日、やっと倉敷市旧柚木家住宅 西爽亭の快風丸模型を見に行くことができた。
この模型は同志社大学の創設者・新島襄にゆかりがあることから、同志社玉島新島研究会から寄贈されたとのことであるが、西爽亭を案内して下さった方によると、同じ模型が3つ作られたそうである。
その内一つは同志社大学にあり、もう一つは民間の方が持っているらしい。
同志社玉島新島研究会というのは玉島出身の同志社大学卒業生を中心としたグループで、快風丸模型を同志社大学からもらい受けて西爽亭に寄贈してくれたそうだ。
新型コロナの流行前には新島襄が初めて西爽亭を訪れたのが12月だったことから、毎年12月に西爽亭に集まってミーティングを行っていたそうだ。
西爽亭に新島襄が19歳の時の江戸から玉島までの快風丸での航海について書いた手紙の文面がパネルで飾ってあった。
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その年の冬に私ははじめて玉島という、岡山より少し行ったところにある港まで洋式帆船で行く機会を得た。
そのスクナー船は松山藩主の持船で、その人は私の殿様と親戚の関係にあった。
その関係からして私はただで乗船することを許されたのだった。
江戸に帰ってくるのに3ヶ月と少しかかった。
この航海は私にとっては非常な喜びだった。
私の青春時代のすべてをそこで過ごした方形の江戸藩邸、したがって天は小さな四角形であると思うようになっていたあの場所から遠く離れて生活しえたことは、とてもためになった。
いろんな人々と交わり、様々な場所を見ると言うはじめての経験をした。
この航海によって私の精神的な視野がうんと広がったことは明らかである。
大阪の町を訪れたが、そこで初めて牛肉というものを味わった。
自由に対する新鮮な考え方に満たされた私は、・・・(以下略)
この模型は同志社大学の創設者・新島襄にゆかりがあることから、同志社玉島新島研究会から寄贈されたとのことであるが、西爽亭を案内して下さった方によると、同じ模型が3つ作られたそうである。
その内一つは同志社大学にあり、もう一つは民間の方が持っているらしい。
同志社玉島新島研究会というのは玉島出身の同志社大学卒業生を中心としたグループで、快風丸模型を同志社大学からもらい受けて西爽亭に寄贈してくれたそうだ。
新型コロナの流行前には新島襄が初めて西爽亭を訪れたのが12月だったことから、毎年12月に西爽亭に集まってミーティングを行っていたそうだ。
西爽亭に新島襄が19歳の時の江戸から玉島までの快風丸での航海について書いた手紙の文面がパネルで飾ってあった。
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その年の冬に私ははじめて玉島という、岡山より少し行ったところにある港まで洋式帆船で行く機会を得た。
そのスクナー船は松山藩主の持船で、その人は私の殿様と親戚の関係にあった。
その関係からして私はただで乗船することを許されたのだった。
江戸に帰ってくるのに3ヶ月と少しかかった。
この航海は私にとっては非常な喜びだった。
私の青春時代のすべてをそこで過ごした方形の江戸藩邸、したがって天は小さな四角形であると思うようになっていたあの場所から遠く離れて生活しえたことは、とてもためになった。
いろんな人々と交わり、様々な場所を見ると言うはじめての経験をした。
この航海によって私の精神的な視野がうんと広がったことは明らかである。
大阪の町を訪れたが、そこで初めて牛肉というものを味わった。
自由に対する新鮮な考え方に満たされた私は、・・・(以下略)
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