河村顕治研究室

健康寿命を延伸するリハビリテーション先端科学研究に取り組む研究室

石井十次はなぜ岡山県医学校をやめたのか

2024-01-01 | 大学
昨年末に以下の様な文章を書いて、大学の教職員何名かに読んでもらったらいろいろと疑問が寄せられた。

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【福西志計子と石井十次】
福西志計子が順正女学校の前身となる私立裁縫所を高梁に開設した頃、明治15(1882)年に宮崎県から石井十次(いしいじゅうじ)が岡山県医学校に入学してきました。
十次は金森通倫を通して新島襄の教えを受け、2年後金森から洗礼を受けました。
福西志計子と石井十次には密接な交友があり、十次の妻品子は、明治18(1885)年に新しく設立された順正女学校に入学して第一期生として学んでいます。
石井十次は孤児を救う活動に没頭したため卒業試験に失敗して医師になるのを断念し、キリスト教の精神によって岡山孤児院を創立して社会事業・児童福祉の先覚者となりました。
石井十次は医学部四年で退学していますが、のちに偉業をたたえ鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』に第三高等中学校医学部明治22(1889)年卒業者として掲載されており、このようなことは岡山大学医学部の長い歴史で他に例がありません。
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疑問というのは、本当に退学した石井十次が岡山大学医学部の卒業生名簿に掲載されているのかというものであった。

これについては最新の鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』に掲載されていることを確認した。

しかし、私自身も十次が孤児救済の社会事業をするにしても医師であった方がより活動の幅が広がると思うのに、なぜ退学してしまったのか疑問であった。

年末年始に時間があったので、岡山県医学校について調べてみた。

岡山医学同窓会報を読んでいたら以下の様な記述があった。

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「東の東大、西の岡山」と天皇行幸
明治16年(1883)8月27日甲種学校として岡山県医学校が認可されてから、明治17年(1884)6月に第1 回の卒業式が行われた。
卒業生は首席で卒業した21歳 の津下(守屋)甫一郎(後一等軍医正)以下11名であった。
その中に、日本人として初めてパスツール研究所 に留学し、「グラム染色」 を我が国に紹介し、明治20 年(1887)に初めて「免疫」 という用語を用いた、大正 6年(1917)に海軍軍医総監になった矢部辰三郎(写真)がいる。
当時、他の医学校では卒業生は未だ出ていなかった。
岡山県医学校では教育が厳しい為に、300人を超す生徒中、卒業試験合格者は毎年20人前後と少なく、卒業出来ない者は、医術開業試験を受けて医師となった。
明治17年(1884)に、この厳しい医師の養成をしている岡山県医学校を視察した文部大臣 森 有礼は、関西第一の医学校として、「東の東大、西の岡山」と絶賛したという。
更に、各県の医学校への明治天皇の行幸は、代理を遣わす習わしであったのに、岡山県医学校へは、明治 18年(1885)8月6日に異例の天皇行幸があった。
明治21年(1888)1月の第9回で、岡山県医学校卒業試験は最後となったが、9回迄の卒業生の総数は90名であった。
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このような厳しい岡山県医学校の教育と孤児救済の活動を両立することは石井十次にはできなかったのだろうと納得できた。
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