2015/07/05 申命記十章(12~22節)「もう、心を柔らかくして生きよう」
16節に「うなじのこわい者」という言葉がありますが、どういう意味でしょうか。知らない方にとっては、「うなじがこわい? 首の後ろが恐ろしい? どんな後ろ姿なんだろうか?」と不思議がっても当然でしょう。これは、馬や家畜が轡(くつわ)をはめられて誘導されている時に、そっちには行きたくない、と頑固に首を曲げない様子を表しています。馬が首の後ろを固くして、素直に従わない様子です。そこから、頑なさ、頑固さ、不従順を指すのに「うなじのこわい者」という表現をしているのです。ここでは、
16あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。
と言われています。心を覆いを剥いで、首の力も抜いて、主に従いなさい、と言うことです[1]。
申命記の十章12節から、次の十一章の最後までは、一章から続いてきた内容と、次の十二章からの戒めとをつなぎ合わせる、蝶番(ちょうつがい)のような役割を果たしています。今までは、イスラエルの民に、過去の出来事を思い出させてきました。エジプトを脱出してから四十年間に渡る歩みで、どのような主の御業に与ってきたのかを思い起こさせてきたのです。その最後、前回の九章からこの十章の11節のところでは、イスラエルの不信仰、背信の歴史を語っていました。神を怒らせるようなことを何度もしてきたのです。決して「自分たちが特別に善良だったから神に選ばれたのだ」などと勘違いして思い上がってはいけない。自分たちが神に逆らい、主を怒らせ続けて来た「うなじのこわい民」であったことを忘れてはいけない。そして、主がその自分たちをも厳しく罰しつつも、繰り返して赦し、考えられないほどの憐れみをかけて、今日まで導いてきて、今、新しい地に入らせようとしていてくださるのだ。そのことを詳しく思い出させた上で、今日の箇所に入っているのです。
12イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、
13あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。
と言われているのです。
「主の命令と主のおきて」
は、十二章から二六章までに詳しく記されます。今から三千五百年も昔の事ですので、文化も時代も隔たった生活だったことを念頭に置く必要があります。神の言葉は不変ですが、それが、それぞれの文化にあった、多様な適用があるわけです。時代や民族の違いを飛び越えて、そのままを全部行えという事ではないのです。
主が求めておられるのは、事細かな規定や難しい道徳を守る、という行動ではありません。それを守らないと神が怒られるとか、完璧を要求されるスパルタ教師のような神、という想像は、ここから掛け離れたイメージです。主は、私たちを愛されるお方、恵み深く、私たちを何度も赦し、憐れんでくださった方です。天地を造られた、偉大で、力あり、恐るべき神が、私たちを愛されて、歩むべき道を示してくださるのです。私たちの幸せのために、命令や掟を下さるのです[2]。この神への信頼と心からの服従こそが、大事なのです[3]。
17…かたよって愛することなく、わいろを取らず、
とありますね。偏って愛さない。「私よりも他の人の方が立派だからあっちの方が可愛いだろう」とか、「私が大変なのは神が愛してくださっていないからだ」。いいえ、神は偏って愛する方ではなく、私たち一人一人を愛されているのです。
賄賂を取らない、とはどういうことでしょうか。神は、私たちを愛されていますから、私たちにも愛をもって従うことだけを求められます。もし、愛なしに恐れや冷たい頑固さを持ったまま、「神を怒らせないため、一応の正しい生き方をして、奉仕や献金、礼拝出席も適当にしておいて、神のご機嫌を損ねないようにしよう」と思っていたら、それは神に賄賂を送るようなことです。主は、そんな行為や犠牲を贈り物として贈れば宥められる方ではありません。私たちが、心を覆い隠さず、柔らかな心をもって、主に全面的に信頼し、主の御心に従うことを、ただそれだけを求めておられるのです。
でもそれは、神との関係ということだけではありません。直後にこう続きます。
18みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。
19あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。
ここに端的に言い表されているように、主が民に命じられるのは、神を心から愛することと表裏一体の、弱者を愛し、異質な人を大切にする、という生き方です。神を愛して、礼拝や宗教に没頭して、世間や社会には一切目を向けない、というのではないのです。むしろ、私たちの毎日の生活で、人を大切にし、特に弱い人や居心地の悪い思いをしている人を大切にしていくことを主はお命じになります。それが、主が十二章以下で与えられる命令の本質です。[4]
イエス・キリストはまさしく、そのような神の御心を現してくださいました。ご自身が、貧しくお生まれになり、遊女や嫌われ者、外国人と偏りなく接し、彼らを喜ばれ、慰め、励まし、尊んでくださったお方です。そして、私たちのために十字架の苦しみの死をさえ遂げられて、その後によみがえられました。私たちは、この主を、私たちが心から賛美するに相応しい方、信頼し、恐れ、愛するお方として信じて礼拝しています。その神とのタテの関係は、私たちの毎日のヨコの関係にもいのちを吹き込むのです。
私たちの毎日の生活や人間関係は、この神の聖なる愛を必要としています。孤児や寡婦が象徴するように、思いがけない事故によって傷ついたり、伴侶や親からさえ、深く苦しめられたりする現実があります。心を頑なにせざるを得ないような現実があります。そのことを、主は深い痛みをもって見ておられ、届いて下さいます。頑なな心を主の愛によって、解きほぐし、柔らかくしてくださいます。そのような愛を私たちが頂いて、私たちもまた心を柔らかくして、愛し合い、手を差し伸べることを、神は命じておられるのです[5]。
弱者や死に行く人にさえ愛を表した人の筆頭の一人、マザー・テレサの言葉を紹介します。
「呼吸するように、当たり前に愛しましょう」
それを願って、主は戒めを下さっています。律法を守らなければ救われない、というのではありませんでした。頑張れば愛する者になれる、と言っているのでもありません。でも、愛さなくてもいい、とも主は仰せられません。私たちが完璧に守ることを求められるのではなく、主によって本当に深く豊かに愛されていることによって、目を開こうとされるのです。そして、私たちの生きる道が、自分で自分を守ろうとする生き方から、他者を大切にする生き方にあると示してくれる。それが律法なのです[6]。主の愛に心を柔らかくしていただきましょう。
「大いなる恐るべき神が、限りなく私たちを愛し、私たちに心からの献身と他者への愛を求めてくださっていることを感謝します。私たちの心を、恐れや頑なさから救い出して、呼吸するように愛する者とならせてください。混沌の中、健やかに自分を捧げ抜いたイエス様の業に、どうぞ私たちをも与らせてください。御言葉によって、私たちを聖く守り、導いてください」
[1] 「心の包皮を切り捨てなさい」は、明らかに、割礼の内面性を表しています。儀式としての割礼は、男性の包皮を切る事ですが、それは、心や生き方における、神に対するOpennessというリアリティを象徴していました。
[2] 勿論それは、私たちのしたいようにさせてくださる、という意味ではありません。私たちが感情や欲望や思いつきのままに取った行動は、どれほど私たちを後悔させることでしょうか。
[3] ここでの第一のテーマは「愛」である。しかしそれは、「愛せよ」との命令ではなく、神の御民に対する愛(を覚えさせること)である。(R. C. Craigie, p.204)
[4] 20節以下でも、もう一度、主を恐れ、主に仕えることが勧められます。主はあなたの賛美、主はあなたの神で、大きなことを行われ、あなたを空の星のように多くされた、とあります。この主の偉大さは、私たちが主を心から信頼し、誉め称え、喜ぶようにというものです。でもそれだけではないのです。その主への信頼によって、私たちの毎日の生活、人間関係、生きていく価値観も方向付けられていく、というのです。貧しい人や難民、差別されている人を、大切にする生き方へと後押しするのです。
[5] この愛は、情緒的な愛ではなく、命令と掟によって導かれていく実践的な愛です。規則などないほうが自由に愛せる、という誤解が現代は蔓延しています。しかし、主は私たちにルールを与えてくださることによって、私たちがより健やかに、より具体的に、愛し合うようにと配慮されています。それがなければ、愛したいと願いながらも、色々な思いに流されて、もっと傷つくようになるのです。たとえば、「愛していれば、結婚していなくても、同棲やセックスをしてもいいじゃないか」というのが現代の風潮ですが、実際には、結婚というルールに縛られない関係は、相手への献身や責任をともなうことを回避しようとするわけで、問題(妊娠、喧嘩)などによって簡単に解消されてしまいます。「姦淫してはならない(男女の結婚を重んじ、それ以外のセックスをしない)」という戒めは、堅苦しい以上に、人間を守ります。この意味でも、最近の「同性婚」という考えの根本には「結婚は個人の自由・権利」という考えがあり、「自分を与えるのが結婚」という聖書的な理解とは、スタートからしてずれていると言えます。晩婚化、セックスレス、独身者の増加…それはみな、「愛」そのものの自己中心化の現れです。だとすると、その根にある「孤独」「不安」「低い自己肯定感」から癒されていく必要があります。それを癒すことが出来るのは、人間ではなく、キリストの福音だけです。
[6] もし、これをレベルダウンして、御心に従わなくてもいい、人を大切にしなくてもいい、自分勝手に生きても、人を傷つけてもいい、と言われたらどうだろうか? 私たちは幸せになれるだろうか。そんな人になりたいだろうか。難しい教えではあっても、大切なことを大切にし、何度でも示してくれるから、聖書は私たちにとってかけがえのない道だと言えることは明らか。
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