9月21日の賢治忌にイギリス海岸の海岸出現催事に出かけ、みごとに空振りを食らったが、気持ちは、その日のお天気のように澄み切っている。
何より、海岸出現を期待するまでの時間を使ってイギリス海岸から北上川と豊沢川のほとりを3キロ歩いて、賢治さんの亡くなったわずか3年後に建立された通称「雨ニモ負ケズ詩碑」に足を向けることができたこと。
そこは、下根子桜(しもねこさくら)という所在地に立てられていた羅須地人協会(宮沢家別宅)のあった場所。亡くなる直前の妹トシさんも療養した場所であり、賢治さんがチェロを弾いたり、レコードを聴いたりした場所。この小高い杉林の東の北上川河畔沿いには「下の畑」があって、麦わら帽子をかぶった賢治さんがトマトやジャガイモを育てていた場所。いわば賢治教徒の聖地。
建物は、現在の花巻空港近くにある花巻農業高校の敷地に移築されており、詩碑の前は空き地になっているが思っていた以上にこじんまりとていた。
しかし、狭かろうが広かろうが、この聖地に立つ碑はただならぬ気配を漂わせた価値あるオブジェ。
なにより「無名と評された」賢治さん没後わずか3年後の昭和11年に、宮沢家や高村光太郎さんをはじめとする賢治文学発掘人らの手によって国内で初めて建立され、かつ、碑の基礎部分のコンクリート空間には、賢治さんの遺骨の一部や経典、その年に発行された全集などが収められているということで、いわば聖地に立つ墓石でもあるのだ。
それと、この碑には「雨ニモ負けケズ」詩の後半部分「野原ノ松ノ林ノ~ソウイフモノニワタシハナリタイ」の文字が刻まれているが、この文字を書いたのは高村光太郎さんであることが、この碑の価値を大いに高めている。
碑を目の前にして、シゲシゲと光太郎さんの筆致を眺めた。なんと美しい漢字と片仮名文字。光太郎さんの書は昨年、同じ花巻市太田の記念館で目にして、その清楚で高潔な筆致に目を奪われていたが、この碑も「美しい!何と澄み切って、丁寧で、品格ある文字をなんだ!」とうなった。
オイラは、賢治さんの筆致も好きであるが、光太郎さんの筆致も大好きになっている。「澄み切った心に美しい言葉が生まれ、それが字体となって現れる」(ああ、比べるのもなんだがオイラの不浄な字体・・)
つくづくとかみしめた。
さらに、この碑を眺め、光太郎さんの美しい文字を美しいままに石に彫った職人の腕前にも驚嘆した。もちろん今と違って機械彫りのない時代。一字一句、光太郎さんの墨書をノミで削ったものと思われるが、美しい字体を美しいままに石によみがえらせた職人にも賛辞を贈ろう。
なお、この詩碑、序幕の後に原文にある数カ所の字が抜けていたことが判明し(光太郎さんのせいだろう)、10年後に、足場を組んで光太郎さんが追加文字を墨書し、石職人が足場の上から彫刻したらしいが、直立した状態でも何ら不自然なく石に刻んだ、たぶん同一の職人だろうが、腕前は凄すぎる。(写真の【野原ノ林ノ】の右わきの【松ノ】のように)



詩碑を鑑賞、一礼したあとに、「下の畑」方向を展望した。いまは、畑はないということだが、当時の面影が偲ばれる田園風景であって、目を細めた。たぶん、賢治さんが一番口ずさんだと思われるベートーベンの田園交響楽の第二楽章が聴こえてくるような緑の風景。もっと晴れていれば早池峰や薬師の山嶺も望めたのだろう。
イギリス海岸からの帰路、賢治さんの辞世の歌を詠んだ鳥谷ヶ崎神社を参拝した。社殿の目の前にその歌を刻んだ碑が立っている。比較的新しい石碑で、彫刻は機械か。できれば賢治さんの筆跡をそのままに写してほしかったが、駅へ歩きながらその歌を何度か繰り返した。

「方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭り三日 そらはれわたる」
* 十里四方にわたって この地方だけに 特別に豊饒をあたえてくれたんだな 鳥谷ヶ崎神社の神様は
お祭りの三日間は よく晴れてくれたなあ いがった いがった (かぜねこ訳)
稗貫は、ひえぬきと読んで、賢治さん当時の花巻の郡名。
「ほうじゅうり ひえぬきのみかも いねむれて みまつりみっか そらはれわたる」
「ひえぬきのみかも」は、八文字でミソヒトモジのリズムが整わない、字余りにも受け取れるが、「ひえぬき」を「ひぇぬき」と東北弁みたいに発音すれば、七文字に収まることを「発見」して、イギリス海岸のスカも忘れて、こころも晴れわたり花巻をあとにする。