沖縄県宮古島市。2001年に仕事の関係で初めて沖縄で暮らした人口5万ちょっとの離島。当時は島には、平良市(ひららし)、城辺町(ぐすくべちょう)、下地町(しもじちょう)、上野村(うえのそん)、離島の伊良部町(いらぶちょう)、多良間村(たらまそん)、の1市5町村という行政区画があったが、島を離れた2005年に平成の大合併で多良間村以外の市町村が一緒になり、宮古島市(みやこじまし)となった。
その後、2015年に宮古島と伊良部島に3540m(サンゴショーとおぼえたい)の長い橋が架かり、港も整備され中国などからのおしゃべり観光客さんが大型クルーズ船でどんどんやってきて、観光バスが1周道路を行き交い、ドン・キホーテや大型ドラックストアも進出し、ホテルもさらに増えた。おかげで、働くヒトも島外からどんどんやってきて、家賃も高騰した。
さらに、伊良部島とひとつながりの下地島に、2001年当時は訓練用の飛行場だった下地島空港にターミナルが整備され、2019年にスカイマークや香港からの国際便などが就航する下地島空港が営業を開始した。小さな島に、宮古島空港と下地島空港という二つの空港が運用されているのは例がないだろうが、サトウキビがざわわざわわとなびいていた静かな伊良部島にもどんどんコンドミニアムやペンションが立ち並んだ。
おまけに、南西諸島の防衛と称して2019年には、陸上自衛隊のミサイル部隊700名余が駐屯するようになって、その家族用の立派な宿舎なども立ち並んだ。
宮古島のこの20年間の発展ぶりは、驚くほどで、隔世の感がある。
2001年から2年間の島暮らしで、オイラは、そのころ生活の一部となっていたランニングのほかにトライアスロンやダイビングもはじめ、ミヤコンブルーのサンゴ礁の透明な海とサトウキビ畑からヤギやセッカが高鳴く静かな海岸道路に、余暇時間をすごし、夜は真冬でも暖房知らず、夏はうっとりするような南風に吹かれながら、部屋や居酒屋で泡盛タイムを慈しんだ。沖縄では、度数30度の泡盛2合瓶というのが売られていて、これのロックだけで極上の夜を過ごした。
この島を離れてからも、トライアスロンやワイドーマラソンなどのイベントに毎年のように通い続け、2019年1月のワイドーマラソン参加(途中リタイア)まで、足掛け11年という沖縄滞在中は、年に1.2度は必ず足を向けていた。山や川のないサンゴの隆起したのぺっとした島ではあったが、海と島人(しまんちゅ)の素朴さとおおらかさにも魅かれ、愛してやまない島の一つとなっていた。
その宮古島、この1月になって急にコロナ感染が拡大し、医療の拠点宮古島病院の病床はコロナ患者で埋まり、現在、市は島内外からの移動自粛を強力に発信し、学校も休業し、ロックダウンの状態だとか。昨日は、とうとう県が自衛隊の出動を要請し、十数人の災害派遣部隊が駆け付けている。年末まで続いた,GOTOのせいか、成人式のせいか、市長選挙とその後の打ち上げのせいか、原因は分からんが、離島に感染症が蔓延すると目も当てられなくなってくる。
観光向けに飛躍的に拡大した観光産業は大打撃だろう。平均給与15万円程度と本土と比べ格段な低賃金で働く観光・飲食関連のヒトビトは、休業や解雇を命じられるのだろうし、ロックダウンが長引くと高い家賃に音を上げて、島を離れざるを得ないのだろう。何とか早く、コロナが終息してくれないかと、願うばかりである。トライアスロンやワイドーほかスポーツイベントも2年連続中止となっているが、宮古島には、団体旅行者や迷彩服よりも、個人旅行者やダイバー、アスリートがよく似合う。
ランニングも、トライアスロンも、ダイビングも、仕事もやめてしまった現在、外国富裕層や迷彩服ルックスでにぎわう北緯24度の宮古島は、オイラにとってあまりにも遠い存在になってしまったが、老い先の短さを意識した近未来のある日ある時、何度も何度も訪れた宮古諸島伊良部島西海岸のの白鳥岬(しらとりみさき)の草むらに足を伸ばし、180度に開けた東シナ海の波音をずうっと聴いているオイラがいるのかもしれない。
2019.1.23ワイドーマラソン翌日に、植物園の宮古馬さんに別れをつげた。
もう二度と、この地を踏むことはないのか。