お彼岸も過ぎてしまったが、今はなき縁者や古人という言葉で括られる彼岸人をしのびつつ、そして、今も病んでいる此岸人の平癒を祈りに、今日から週末にかけて奈良、京都、鎌倉などの古寺(ふるでら)をめぐってこよう。と、そのような深い信仰は持ち合わせてはいないことを自覚しているのだが、大寺の甍や丸い柱、参道の白砂利の感触、観音様のまなざしやくちびる、それからししむらのくびれなどに、なんともいいようのない思いにかられるのであって、仏教は、そのような身体的快楽を愚者に与えることによって、その道への扉を開いてくれているのかもしれない。
それとことなり、キリスト教は、音楽でひきつける。子供のころ意味も知らず歌った賛美歌や大人になってから繰り返しレコードやCDで聴いたバッハの受難曲やコラール。一度でいいから、生の演奏に接したいと思っていたが、週末に「マタイ」の演奏会があるということで、旅の締めくくりはこれにした。
仏教は、映像的快楽で、キリスト教は、音響的快楽で、ともに信仰へと誘っているようなのだが、どちらも「この世の苦悩からの解放とあの世の憧れ」を目途としているのだから、どちらにも寛容でありたい。
そのような、高邁な旅であるかしらのようだが、今日もイヤホンで聴いているのは「森友問題」なのだろう。解脱できない己を自覚。
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唐招提寺金堂(ライセンスフリー)
おおてら の まろき はしら の つきかげ を つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ (会津 八一 先生)