家にあった昭文社・山と高原地図「日光」は2004年版だから、たぶん、2004年に石垣島に住んでいた時に男体山と奥白根山を登るために購入した時のだろう。
記憶が薄れたが、当時は深田百名山歩きも年中行事のように行っていたので、海で遊んでいればいいのに、飛行機に乗ってのこのこやってきたのだろう。ダイビング用の大型キャリアバックに登山だのキャンプ用品だのを詰め込んで、前夜中禅寺湖温泉の民宿に泊まり、翌朝は荷物を預かってもらい、二荒山神社中宮から男体山ピストン、降りてきてバスで湯元のキャンプ場へ移動し、翌日に奥白根にもピストンしたのだろう。とにかく元気だった。マラソンにトライアスロン、トレランまではじめて「疲れ知らずだった」50代前半。(シゲシゲと回顧)
当時は、山と高原地図のコースタイムの7・8掛けはアタリマエで、花も昆虫も山岳展望もあまり眼中になく、ただただ馬車馬のごとく歩いていたのかもしれない。
そして16年後の2020年、再び日光湯元のキャンプ地から奥白根山を登ってきたが、途中弥陀が池から五色沼に降りて、コースを大きく迂回し、やれ花だ展望だと休み休みした結果とはいえ、7~8時間のコースを13時間かけて、日の暮れる寸前にテントに戻った。行きは大勢に追い越され、帰りは誰も見かけなかった。われながら、体力低下は甚だしいと自覚した次第である。
しかしながら、奥白根に関しては、16年前の記憶はほとんど失われていて、山頂のごつごつとした岩肌ばかりしか思い出に浮かばなかったのはどうしてなのだろう。スキー場から外山鞍部までの急坂もいやな急坂だったという記憶がないし、前白根から山頂までの長いアップダウンも、「外輪ルートは、こんなにきつかったか?」と驚くほどだったのである。
「ガスっていて展望もなかったか、花も、樹木も、鳥も昆虫も、山岳展望も何一つ記録しないせいですごしたその当時の行動の結果だ・・」と考えてはみたが、前白根に立ってみて、五色沼の美しさや、奥白根の威容はよみがえってきたので、天気のせいではなく、記録のないことはその通りだが、百名山の実績ばかりに囚われて、頂上を踏んだら達成しましたとばかり、山をじっくり噛みしめないまま下ったことが原因ではないかとの結論に達した。
それに、今回の13時間のように山で苦労したら記憶にも残ろうが、当時の体力では、ものの6,7時間で往復できただろうから、山での滞在時間も、記憶の薄さの原因となっていよう。
いずれにしても、関東一の標高と幾たびもの火山を繰り返したと思われる複雑な地形は、そんなイチゲンで終わる山ではなかったと自覚した。湯元から、菅沼、丸沼登山口方向にバスも走っていることも分かったし、前白根から「白根隠山・2410m」への魅力的な展望ルートもあることも分かった。
麓に避暑地を兼ねた温泉隣接のキャンプ地があるので、再びのみならず、三たび、四たびと、この山域に足を運ぶ価値はあるのだろうと、思いを新たにした。雪解けが早そうなので、天気さえよければ、夏休み前の、もう少し早い時期がベストなのかもしれない。
それにしても。このふがいない体力。もう一度ランニングを初めて、階段登りを日課にして、体重を下げて、50代には戻れなくても、山と高原地図「標準タイム」で歩けるだけの体力までにはもどしておこう(と、誓った)。
今の楽しみは、花鳥風月を慈しむための「自然観察」。体力に余裕があれば。標準タイムの倍を使って歩いても何の不安もないのだが、今回のように、13時間かけてフラフラでの帰還では・・・・・いけない。
山頂に「白根山」、「日光白根山」とあり、正式名称である「奥白根山」との表記がない不思議。 この山は、上州のヒトビトの信仰の山でもあって、上州側からだと堂々と前面に見えるので「奥」とは言い たくないのだ ろう。
たしかに、交通の便利な観光地「日光」方面からは、山の全容が拝めず、信仰の山男体山の奥の院の風情が あるので、奥 白根と名がついたのだろう。
今度、上州側から堂々とした山容を望んでみたい。雪の付いているときは、それこそ立派な「白峰」なのだ ろう。
前白根の崩れやすい砂礫地に「真っ赤なコマクサ」が「生息」していることは知らなかった。どうしてここだけ、こんな色を残して生きてきたのか。
知らないと踏んずけそうな登山ルートの傍らに健気に咲いており、ちょっとした地殻変動ですぐうずまりそうな急峻な砂礫地帯。環境省の立ち入り禁止のロープも、注意喚起もない。(へたにアナウンスすると採取されるというのか)
何千、何万年の命のリレーに思いを寄せると、目が熱くなる思いだった。もう2、3週間早ければ、もっと美しいのだろう。「真っ赤なコマクサ」ガンバ!
スライドショー
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今日は、ホロヴィツのシューベルトを聴きながら(PianhoroさんのYoutubeから)
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