かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

美しい石段を踏んで野草園に行く散歩道

2024-05-31 20:50:55 | 日記

         

 

伊達家の霊廟へと続く大年寺の石段は美しい。この街屈指の石段だ。

何段あるか数えていないが長い。だが蹴上げが低いので今の体力でも何とか登れる。それにしても体力が落ちたもんだ。そして右も左も膝に違和感がある。右膝はこの一月ばかりの痛みが何とか和らいだが、こんどは左も少し違和感あり。

こないだの「石丸謙二郎の山カフェ」の膝痛特集によると、膝痛の大半が膝周辺の筋肉の衰えによるものらしい。つまり、鍛えれば痛みが解消されるということらしい。

そうだな、週に一、二度はこの石段をウォーキングのルートにして野草園に行ってみよう。この石段を二度、三度と往復しながら。


今日の野草園(5月30日)

何といってもツツジ科のネジキの可愛らしい白い鈴の列。このあと、同じツツジ科のナツハゼがこんどは可愛らしい紅色の鈴を連ねるだろう。

     

 

     

     

      お尻の赤いハナバチが来ていた。マルハナバチの♂かな。

 

     

    アジサイたちの色づきはまだだが、このコアジサイだけは薄紫色の花を咲かせ始めていた。

 

     

      ユリ科ニッコウキスゲをみるたびに「夏が来た」と叫びたくなるね。

 

     

     ユリ科ヒメサユリ、名前に引かれて50数年。初恋の花。飯豊山だったか。

 

     

     野草園に紛れ込んだ帰化植物、アヤメ科のムラサキニワゼキショウ。

     でも黄色い蕊がかわゆい。

     

     

     キンポウゲ科のキイロヤマオダマキ。やさしいクリーム色が新緑に映える。

 

     

    初秋の花、マツムシソウ科タカネマツムシソウが、もうその複雑な小花たちを開かせている。

    チョット早すぎないか。季節感が湧かないじゃないの。

     

     モクセイ科イボタノキ(水蝋の木)の芳香に寄せられていろんな虫たちがやって来ていたが

     なんといってもアオスジアゲハの瑠璃色の紋様が美しい。

 

     

     ケシ科コマクサを大事に育てている。コマクサをみてどの山を思い出すかな。

 

     

     フウロソウ科のハクサンフウロ、もう鮮やかな紅色を目立たせていました。花の基部や茎に白い毛が生えていることは、知らなかった。観察力足りんね。

     

     

    キク科ホソバウスユキソウは蛇紋岩の山に生えるそうだが、どうやって育てているのかな。

     

       ユリ科コバイケイソウかな。まだ花は疎らなのは咲はじめだからかな。

      また行って、調べてみよう。

  

     

 

 

 

 

 

      

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武田花さん、どの星の富士山麓におでかけかな

2024-05-29 15:47:03 | 日記

未明、スマホのニュースを枕もとでチェックしていたら、写真家の武田花(たけだはな)さんが、この4月30日に亡くなっていたとの報道を眼にする。

武田さんの写真愛好家ではないのだが、彼女は作家で中国文学者の武田泰淳さん、その妻のエッセイスト武田百合子さんの愛娘であることは、武田百合子さんの「富士日記」(昭和39年からの51年まで間の13年間の日記)愛読者であることから、よく知っていた。

その「富士日記」には花さんがよく登場していた。富士山麓の別荘には普段、武田夫婦のみ主に春から秋にかけて断続的に居住していたが、夏休みなどの休日を利用して学生(13歳から25歳くらいまでか)だった花さんが東京の本宅から遊びにやってきた様子が、百合子さんによってほのぼのと描かれていた。

オイラは、2000年代初頭に「富士山」に憑りつかれてから、一昨年まで、毎年のように「富士山」を訪れていたが、その間しばしば「富士日記」中公文庫版三冊を手元に置いて、適当な時代をパラパラめくっては武田一家の他愛もない富士山麓での日常生活を垣間見ながら、いつもほのぼのとした気持ちになって、「富士山」とその山麓への思いを募らせていた。花さんとほぼ同じ時代の空気を吸っていたオイラにとって「富士日記」とは、遠い昭和と今はない家族との楽しいひと時をよみがえらせてくれる走馬灯のような存在だったのかもしれない。

その「富士山」だが、コロナが明けてのこの1,2年、内外のヒトビトが「富士山」に押し寄せるようにやって来て、山頂を目指す行為が「予約制」と化したり、コンビニの上の富士山をスマホで撮るためにインバウンドのヒトビトがワンサカ押し寄せ、はては貧乏くさい黒幕でその風景を覆い隠すという自治体の慌て様などを見るにつけ、オイラの「富士山」愛は、いまや憑き物がおりたようにすっかりと下降のベクトルを向いている。

「富士山」きらいになったわけではないから、これからは遠くから富士山を仰いだりして、過去の余韻に浸るだけでいい・・・。そして、たまには「富士日記」をパラパラめくっては武田一家にお会いしよう。

今日の午前、図書館にいって武田花さんの写真集を1冊借りてきた。花さんがいつも被写体にしているノラネコは孤独で、どこにさまよっていこうか逡巡しているような眼をしている。どこかオイラみたいだ。

いまごろ武田花さんは、どこかの星の富士山麓の山荘にでかけ、再会したご両親と何かおいしいものを食べながら、他愛のない言葉をまた元のように交わしているのかな。周りには家族が愛したネコやワンちゃんも寝そべっているのかもしれない。

        

Photo & Culture,Tokyo ニュースから

     

               御坂峠から太宰治が見た冨士山(2022.9)

               武田山荘は、あの山麓の白い雲の中あたりかな

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愛らしいオメメのチョウ

2024-05-28 10:25:45 | 日記

山の林道を歩いていると、地べたに止まっているチョウがいて、あまり人を恐れずいったん飛び上がってもまた少し先に止まっていてくれたりして、カメラに収めやすい。

休んでいるんだか、なにかの蜜を求めてに集まるのかよく分からないが、春先のルリタテハやキタテハなんかは明らかに時折翅を広げているので日光浴だと分かるのだが、暑くなると日光浴もあるまい。

こないだ見かけたサトキマダラヒカゲ♂♀不明(あるいはヤマキマダラヒカゲ)は、翅の一部を欠いていて少し痛々しいので、明らかに休憩をしているのではないかと想像した。

鳥に襲われたのか、薔薇のトゲに引き裂かれたのか、クモの巣から必死に逃げからなのか、翅の欠損原因か分からないが、図鑑で拾うと、カレラ・カノジョらの成虫でいられる期間はひと月もないので、なんとか「生」を全うして次世代に命をつなげてほしいと願うのである。

よく見ると、このチョウはオメメが大きく真黒くて可愛らしい。(勝手に♀と決めつけている。)そして図鑑には説明がないが写真では胴体から翅裏の付け根にかけてコバルト色の鱗粉を纏っていてなかなかおしゃれだ。

もう思うようには飛べないのだろうが、なんらかの「希望」にみちたマナコではある。

 

 

     

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白い花追慕

2024-05-25 19:28:38 | 日記
今日は晴れて涼しいとの予報を受けて、青葉の森を歩く。二週間ぶりだろうか。ハクウンボクの白い花は、もう終わってしまったのだろうか。上を見ても地面を見ても花の気配はない。季節のスピードに圧倒される。
大好きな初夏の森の白い花たちが現れては次々と消えていくが、新たに姿を見せてくれた者もいる。今日は、エゴノキやノイバラが満開の姿を見せてくれた。ヤマブキショウマも真っ白な穂を奔放に拡げはじめた。






でも、今日の真の目的は夏鳥たちに会うためだったのだが、キビタキ、サンコウチョウ、クロツグミたちの声はすれども、なかなか姿を現せてくれなかった。気になるのは、今年まだ一度もオオルリさんの声も姿も確認できていないということ。もう子育ての時期なので、せめて警戒音だけでも聴きたかったのに、叶わず。気候の異変によるものなのか。

ホトトギスくんの初鳴きもそろそろかと期待したが、叶わず。この時期、あわせてカツコウさんの声も聴きたいので、来週は蔵王か泉ヶ岳に出かけようか。
この季節、彼らを迎えずして夏は来ない。







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クマさんの脅威を知らず無邪気に歩いていた北東北の山々

2024-05-22 21:24:56 | 日記

もう40年前の話になるかな。

仕事の関係で青森の港町八戸に4年間住んでいた。

そこの街の山岳会に4年間所属していた。あまり大人数の会山行はその当時から積極的ではなかったが、会所属の仲間の二人、三人とは毎週のように車を運転し山に行った。

そこの仲間たちのホームグランドは、八甲田と十和田湖周囲の山々だった。

十和田湖周辺の山々については、すぐに名前が出てこなかったが、十和田山(とわだやま・1053m)や十和利山(とわりさん・990m)という名前だけは記憶のうちにあった。

今、その周辺を地図アプリで眺めていると、懐かしい山の名前がいくつか拾えた。

新郷村の戸来岳(へらいだけ・1144m)や田子町の四角岳(しかくだけ・1003m)など。

それぞれの山が標高は低いが独立峰的にポッコリしていて、山頂は低いネマガリダケなどに覆われて展望がよく、八甲田や十和田湖、八幡平が見渡せ、勤労者が土日に遊ぶのはもってこいの山々だった。

青森にいたので、それらすべてが青森の山だと思っていたが、今地図を確認すると、十和田山を除くと隣県秋田県の鹿角市や岩手県の現在の八幡平市など県境を分けていた。

そして、この県境を接した山々の秋田県側の鹿角市なのだが、現在までクマさん(ツキノワグマ)による人身被害で名をはせた「不名誉な」山域として全国的に名を知られるようになっている。

先週も、十和田湖南岸に近い鹿角市大湯大平(おおたい)というところにタケノコ採りにいった年配の男性が行方不明になり、なんでも顔に傷を受けて意識不明の状態いたとの連絡を受けて、警察官2名が救出に向かったところクマに襲われ二人とも重軽症を負ったというニュースが流れた。

その後、この地域を中心として広範な地域が閉鎖されているということである。

そして思い出されるのが、2016年の今時分に起こった十和利山周辺でクマによる大事件。数日の間に4名の方が亡くなって、4名の方が重軽傷を負った。ツキノワグマ関連事故としては史上最大のものだという。

そして記憶に焼き付けないとならないことは、全員がタケノコ採りにきていた地元の人々だということだ。ネマガリダケの新芽は青森時代にいただいたことがあるが、鍋などに入れて食べるととても柔らかく香ばしく、北東北の人々にとっても愛される山菜だった。

なんでも収穫したタケノコは地元の青果業者等に高く買い取られて、地元の老人たちのいい稼ぎになるとも聞いたし、サラリーマンも年休をとってこれに勤しむものもあるとかで、40年前にも、5月から6月にかけて上記の山々の山中にたくさんのタケノコ採り(主に年配の男女)が車で駆けつけていたと記憶している。

ヤブ漕ぎをした登山者なら思い出すだろうが、あの密に生い茂ったネマガリダケのヤブに分け入ってタケノコを捜しながら歩くのは進むのも折り返すのも大変なアルバイトを要するのであって、なまけもんのオイラなんか「決してタケノコだけは取るまい」と心で誓ったものだ。(今でも、山菜やキノコをといった山の幸を愛するがタケノコだけは眼中にない・・・)

そして、このタケノコをこの時季クマさんたちも目の色を変えて掘り出して食べるのだという。

おそらくだが、同じエリアに侵入してきてクマさんの好物を横取りしているヤツらを許せなかったのではないだろうか。

それが、第一の反応だとは思いたい。

そして、雑食である彼らは、倒してしまった相手を何気なくいただいたところ、ヒトも彼らの糧になってくれると「学習」したのではないだろうか。当時襲ったクマは、「スーパーK(鹿角だからK)」と名付けられておそれられていたという。(添付の読売オンラインに詳しい)

たとえ、当時8人を襲った個体が駆除されたとしても、あるいは子や親族といった子孫たちに「学習内容」が引き継がられて現在に至っているのではないのだろうか・・・

こないだ、岩手の湯治宿でお話をしたオジサンは、「かつて、北海道から凶暴なヒグマが日本海側の青森や秋田に渡ってきて、彼らのDNAが今のツキノワグマに引き継がれている。」とウソかホントか真顔で語ってくれた。

40年前には、北海道のヒグマを除いて、まったくクマの脅威を感じず、クマ鈴さえも鳴らさずにオイラたちはあの周辺を歩いていたな。ネマガリダケの原に作られた登山道を踏みながら。

クマの気配を気にせず歩いていたあのころの屈託のない時代につくづく戻りたいと思うこの頃である。

いま、八戸の山岳会のあの当時の仲間はどうしているだろう。オイラと同じく、皆年老いて弱気になっているのだろうか。

鹿角市ホームページ

読売オンラインから「スーパーK」に関する記事

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