かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

打ちのめされた富士の大きさ

2022-08-31 14:09:26 | 日記

太宰治「富嶽百景」において、太宰は冨士の評価値を上げたり下げたりと、その評価をくるくると変えており、「いったいどっちなんだ!」と、一読者として、彼の気分屋に疑問を呈したくもなるが、当時の精神上の不安定(私生活・文芸活動上の苦悩や時代背景等もろもろ影響して肉体的にも精神的にもボロボロ状態)がそうさせているのあると推察されのであり、そこがこの小説の味わいでもあり、素直に受け止めようと思う。

太宰が富士を持ち上げた箇所で、オイラは彼が文学青年たちに誘われて山を下り、麓の富士吉田市内で過ごした夜、外に出て富士に面対した描写が好きだ。

「そこで飲んで、その夜の冨士がよかった。・・・・ おそろしく、明るい月夜だった。冨士が、よかった。月光を受けて、青く透きとほるやうで、私は、狐に化かされてゐるやうな気がした。冨士が、したたるように青いのだ。燐が燃えてゐるやうな感じだった。・・・」

彼が評価したのは、富士吉田市内から仰ぐ月光に照らされた夜の冨士であったが、いつも御坂峠から仰ぐ、秀麗だけれどもやや大きさに欠ける冨士ばかり見ていた彼にとって、まさに仰ぐような大きな富士を、麓の富士吉田の街から目の当たりにしたときの感動も重なっていると思いたい。

というのも、オイラも富士から受ける感動をまともに体験したのは、2004年の夏に富士吉田の街にはじめて足を踏み入れた時だからだ。

大きかった。打ちのめされた。これまで歩いた南アルプス、大菩薩、奥秩父の稜線から眺める富士とも、東海道新幹線の車窓から眺める富士の姿とも隔絶した「大いなる」という言葉にまさにぴったりの富士のお姿。

太宰が目にした「月光に照らされた富士吉田市街からの富士」はまだ体験していないが、未明に市内中心の金鳥居や北口富士浅間神社の森の上に浮かんだ青い大きい富士は何度か目の当たりにし、そのたびに息をのんだ。

その「大いなる富士」会いたさがゆえに、2004年以来、毎年のように富士詣りが続いていたが、来週の須走浅間神社からの卒業式登山が「無事」終了すれば、冨士詣に一区切りつけたいと思う。(台風11号来ないでね)来週後半は、満月も近づいて、もしやしたら吉田や河口湖界隈で太宰がみた「したたるような青い月」に巡り合えるかも。そうしたら、卒業式に花を添えることができる。

そして、卒業後は、太宰がちっとも卑下しなかった彼のふるさと「津軽富士・岩木山」、賢治さんのふるさと「南部片冨士・岩手山」、そして、「出羽富士・鳥海山」もふくめ、オイラの故郷でもあるみちのくの富士を再訪しようか。

 

 

 

    

  富士吉田市内の金鳥居まえの観光案内に表示されていた、おそらく太宰が目にしただろう大正期から昭和初期の富士吉田市街。チンチン電車も走っていたんだ。(2021.6.30)まさか鳥居は潜らないよね。

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河口湖・御坂峠間の月見草を探しに行く

2022-08-30 18:03:57 | 日記

太宰治「富嶽百景」に、まだこだわっている。

青空文庫縦読みテキスト「えあ草紙」のお世話になつて、叙述順に従ったエピソードや作家の本音らしき述懐、そしてこの小説のテーマではないのだろうが、天下茶屋の15歳の娘と作家(30歳前後か)との淡い心の交流について、大学ノートに抜き書きをしながら読む。デガダンで性格破産者(吉田の新田青年が「佐藤春夫の小説に書いていたとコメントしていた)の太宰には、茶屋の娘は聖女のような存在だったのではないだろうか。

どうでもいいことかもしれないが、この作品で太宰は御坂峠からの富士を「冨士三景」と記しているが、あとの「二景」はどこなのか、インターネットで検索しても出てこない。昭和初期には、世間の常識だったのだろうが、現代においては誰も関心がないようだ。今度、天下茶屋に行って店の人に聞いたら、あるいは分かるかもしれないが、分からないとモヤモヤが募る。静岡の三保の松原からの富士は、現在「新日本三景」、「日本三大松原」に選ばれているが、「冨士三景」かどうか確認できない。

 

「冨士には月見草がよく似合ふ」というこの小説の核となる叙述。

バスで出会ったこれも聖女のような老婆がバスが走っていく道沿いの月見草を見て、「おや、月見草」と言ったことが、太宰のこの名言を生み出し、その後、太宰が手の手のひら一ぱいの月見草の種を天下茶屋の背戸(裏口)に播いたのもこのバスの件が理由。

オイラは、今度天下茶屋に登ったら、茶屋の周りに太宰が播いた月見草(マツヨイグサ)の子孫がまだ咲いていてくれるかということに興味を抱いている。

さらに、あらためてこの月見草に関するエピソードを読み込むと、次のことか分かった。(あくまでの事実にもとづく記載だと信じてだが)

① 太宰は、御坂峠の天下茶屋に9月から11月はじめまで逗留し、出来上がった原稿などを差し出すために、麓の河口集落にある郵便局までのバスを利用していた。

② 当時は、河口湖方面(船津集落のあつた今の河口湖駅や富士吉田市内)から甲府方面までは、いまの天下茶屋の目の前から旧御坂トンネルを経由する道路をバスが行き来していた。

*現在の河口湖・甲府間は、標高1010m「三つ峠入り口バス停」から新御坂トンネルを通るため、標高1300mの天下茶屋を通らない。(旧御坂トンネルをバスが走らない。)

③ 老婆は、河口湖の郵便局から御坂峠に到る甲府行き方向のバス通りで、富士が展望できる標高にバスが登っても、ひたすら山の崖側に目をやっていた。その道は、おそらく現在の山と高原地図に「御坂みち」と標示される「三つ峠入り口」から「三つ峠登山口」までの間の道で、月見草が咲いていたのもその道の崖側(山側)ということになるのだろう。

 

以上のことから、「御坂みち」の山側にもしかしたら老婆と太宰に「冨士によく似合ふ」と思わせた黄色い花の子孫たちが今も元気に花開かせているのでないかと考え、オイラはこの道も歩いてみようという気になった。山と高原地図によると、三つ峠入り口から三つ峠登山口までの歩行時間は1時間、標高差にして300m程度なので、そんなに負担にもならないだろう。天下茶屋へは、登山口から25分とある。このコースなら、月見草に出会う確率はあがり、文学散歩も完璧だ!

と、もっともらしい結論に達したのはいいが、実は・・(現在のバス運行図と時刻表をしらべたら)

現在は甲府まで行くバスは御坂峠(旧御坂トンネル)までは行かず、麓の新御坂トンネル経由だ。天下茶屋行の定期バスは観光用に1日1本あるだけで、それも、ずいぶんと遅い午前10時少し前河口湖発とあり、利用しにくく、しかもそのバスはすぐの折り返しで、あと帰りの便はない。なんという不便な1日1本なんだ。

そんなことで、やはり三つ峠に登って、天下茶屋にも行くには、1日に何本もある甲府行きのバスに乗って、麓の「三つ峠入り口」というバス停から歩いていくしか手段がないのだ。午前6時まえの始発に乗れれば、太宰がドテラ姿で歩いたという三つ峠までの道も歩けて、月見草に会えるチャンスも広がるだろう。

問題は天気だが、傘がさせる程度だったら、天下茶屋までは歩けるかな。(台風11号来るなよ!)

 

    

    夕方開いて朝にしぼむので月見草と図鑑にあるが、昼の花は、全開ではないのか

   だれが花粉を媒介してくれるのか・・など、マツヨイグサに疑問は尽きないが

 

 

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9月初めは、雨、雨、雨・・の予報 それでも卒業式富士をめざす

2022-08-29 18:09:29 | 日記

台風11号が発生し、南西諸島方面に発達しながら西進し、その後北上するという。来週には本州方面にも何らかの影響が出るとか。昨日か一昨日までの二週間天気予報では、来週は晴れマークが続いていたのに、今日の予報では、山梨県側(河口湖周辺)も静岡県側(三島周辺)も連日の雨マークとなっている。(落胆)

いつものことであるが、富士山麓へのアクセス費用を節約するため早割料金の高速バスや、思い付きでオプション追加した御坂峠「天下茶屋」立ち寄りのため、前泊にと、「空室あと1室!」と標示されている安価なホテル予約も行った。

予約さえしなければ、前日の天気図を見ながら出かければいいのだが、遠出となればそうはいかない。よっぽどの悪天なら躊躇せずキャンセル料金を惜しみながらキャンセルしよう。雨マークでも嵐でなければ、一応出かけて、登らずに湯にでも浸かっていよう。そろそろ、悪天ともなると富士山頂の天気予報には⛄マークもチョコチョコ入り混じる季節になっている。「防寒対策を怠らず、無理せず、だめなら引き返す。あるいは、八合目まで登ってから山頂を断念し、吉田口に駆け足でエスケープする」と一案、二案を描いて出かけよう。

9月に富士山頂に立ったのは、これまで二度。あれは、どちらも閉山前日の9月9日だったか。2017年には沖縄の仲間と富士吉田市内から。風が強かったが、時おり晴れ間の剣が峰に立った。そして、2019年9月、台風一過の富士本宮口八合目まで三島からバスで登り、プリンスルート~御殿場ルートで剣が峰に立った。快晴だった。そのあと富士吉田に下りて、次の乗鞍のため松本に向かった。

いずれも、9月の富士山は晴れてくれた。二度あることは三度ある。晴れ渡る2020年9月の富士山頂を祈ろう。

 

二週間天気(静岡)

 

      

      2019年9月は、富士⇒乗鞍⇒御嶽とつないだが、いずれも天の恵みを得た。

      御嶽から望んだ有明の富士。

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「富嶽百景」から「津軽」までのあいだ

2022-08-27 23:01:13 | 日記

蚊取り線香の香りが好きで寝る前に焚いていたのと、窓を開けて寝入ったこともあり、目覚めたら喉に痛みを覚え、悪寒が走った。線香の脂が喉に炎症を生じさせ、風邪の原因となったのだろう。

富士登山のトレーニングどころか、昼間の半分を薬を飲んで横になっていた。

昨日、久々太宰の「富嶽百景」を縦読みのできる青空文庫「えあ草子」のお世話でスマホ走り読みをしたが、やはりもう一度紙で読んでみようと書棚を探したが、見つけられなかった。今の新潮文庫なら「走りメロス」に掲載されているが、「走りメロス」を買った記憶がなく、それでは「富嶽百景・走りメロス」が表題の岩波文庫かといえばその記憶も怪しい。ほんとうに文庫で読んだか記憶もあいまいになってきたので、横になって、YouTubeの朗読(シャボン朗読横丁さんの女性の声で)を、ちかくにあったノートに要旨を走り書きしながら聴いた。45分くらいの朗読時間なので寝入ることもなくおしまいまで聴けた。

聴きながら、昨日の「月見草」の件を整理できた。作品の中で、太宰が天下茶屋の前庭に拾い集めてきた月見草(マツヨイグサ)の種を播いた理由として、その後すぐに、あのバスで老婆と出会ったくだりを書いている。〈俗なる富士に対する聖なる月見草〉、安っぽい文学論的言い方をすれば、そんな思いがあったのか。

この「富嶽百景」を読み終えると、「人間失格」や「ヴィヨン妻」など戦後の傑作と言われる作品や、「晩年」などの初期の作品の読後感と違って、ある種のペーソスが背景にあるとしても、あの名作「津軽」と共通したノスタルジックな安堵感をもよおす。どこかおかしく明るいのだ。

横になりながら、Wikipediaを開き、改めて太宰の「生涯」と「作品」を読み返してみたら、「さもありなん」。富嶽百景は、太宰が、昭13年に恩師的存在の井伏鱒二の紹介により甲府市在住の石原美知子さんとお見合いをし、翌14年に結婚をするいきさつを秘めた「心の平和時代」到来ともいえる時期に書きあげられた短編だ。学生時代から作家活動に入った、その直前までは、酒、薬物、女という三点セットに苛まれ、Wikipediaには「乱れた私生活」と記されている。

 

この「心の平和時代」は、驚くことに日本が戦時下にいたり、大方の国民が敗戦期のどん底に陥る昭和44年ころまで続き、この時代に、太宰は体制に媚びするわけではなく、薬物にもアルコールにも女にも影響されず、この間、曲がりなりにも3人の子供に恵まれた家庭の幸福を味わい、旺盛な創作活動を展開している。名作「津軽」も1944年の作品。この間は、いわばオイラから言わせると「傑作の森」であり、もっともっとこの時代の作品を読みたくもなってくる。あれだけ国民が疲弊した時代に、創作欲が湧いていたのが不思議だ。

やがて、敗戦し、太宰の「心の平和」は、あっという間に瓦解し、再びアルコール、薬物、女という魔の手に冒され、敗戦からわずか3年後の1948に彼は命を絶ってしまう。Wikipediaを読むと、この戦後の精神的没落のありさまを心配した井伏さんが、彼の死に到る直前、「御坂峠の天下茶屋で太宰を静養させる計画」を企てたというが、かなわなかったようだ。

もし仮に、この天下茶屋再訪が叶ったら、もしかしたらあの茶屋の娘さんもまだ店にいて、「ほら,先生の蒔いた月見草、こんなにいっぱい咲いています。」と太宰を喜ばせ、あるいは立ち直るきっかけを与えたのかもしれない。

御坂峠の天下茶屋、この秋ますます行ってみようという気になった。そうだ、文庫本、また買ってザックに入れて行こう。

 

 

太宰治Wikipedia

シャボン朗読横丁さん「富嶽百景」

 

     

      

  

 

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富士山卒業式の帰りに太宰治の月見草を探しに行こうか

2022-08-26 19:20:53 | 日記

もしかしたら、太宰治の作品では、あの戦争が始まる前、昭和14年に発表されたという「富嶽百景」との付き合いが長いこともあり、オイラにとっては、これが最も愛している作品と言えるのかもしれない。

たしか、高校時代の国語の教科書にも載っていたはず。おそらく全文掲載ではなかったかと思う。作品の一部分だけの切り取りか、抜粋部分の継ぎ合わせだったろう。

その教科書では、

① 太宰が先輩作家井伏鱒二さんの後を追いかけて御坂峠の富士山の展望がよい「天下茶屋」に秋のはじめから富士山頂が白く染まるころまで逗留したこと。

② 当初、太宰は、富士三景と賞されるほどだった茶屋からの富士を風呂屋のペンキ画と卑下するほど価値を認めていなかった。

③ 尊敬していた井伏さんと、ある秋のある日三つ峠山に登ったが、雲の中で富士山が見えず、不機嫌そうにタバコをふかしていた井伏さんがオナラをした様子が、抑制のきいたユーモアで描かれていたこと。その部分を抜き書きすれば、「井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸ひながら、放屁なされた。いかにも、つまらなさうであつた。・・」とある。

④ 吉田から御坂峠に向かうバスのなかで、ひとりの老婆が他の遊覧客が富士山が望んでいる車窓とは反対の方向を見つめていいて、その孤高の姿に太宰が共感したこと。このくだりのおしまいの方で、その老婆が「おや、月見草」と路傍の花をゆびさしたシーンがあって、太宰は、「冨士には、月見草がよく似合ふ。」と表現したこと。

などの部分が記載されており、まるで④のところが、世間的な評判のくだりなのであり、オイラもこの作品のラストシーンだと長い間誤解していたようだ。後年、この作品を読んだら、このシーンは作品の半分を過ぎたあたりだと分かり、なんだか教科書に騙されたような気がした。。

とにかく、オイラはこの日記とも、紀行とも、フィクションとも言い難く、アイロニーやユーモアをちりばめながら、作家の苦悩というよりも、どこか生きていくことの辛さや悲しさが垣間見える太宰のこの作品が好きでたまらない。

9月の初め、富士山麓にも月見草(実際は、外来種のマツヨイグサだと思う)が咲いていてくれるだろうか。そして、「富嶽百景」には、上記④の伏線として、少し前にこんなくだりがある。


私は、どてら着て山を歩きまはつて、月見草の種を両の手のひらに一ぱいとつて来て、それを茶店の背戸に播いてやつて、「いいかい、これは僕の月見草だからね。来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちやいけないよ。」娘さんは、うなづいた。


 

そうか、天下茶屋はあの時の建物がまだ残っているらしい。太宰が蒔いた月見草の子孫たちは、今も生きているのだろうか、それともフィクションにすぎなかったのか。確かめに行かねば。

何度か富士山周辺を歩いたが、天下茶屋には、まだ訪れていなかった。こんどの卒業式で河口湖に下りたら、もう一泊して、御坂峠の天下茶屋にバスで行ってみようか。天気が良かったら・・太宰がドテラ姿で登り、井伏さんが「放屁」した、あの三つ峠にも登ってみようか。大事なことを忘れていた。思い出してよかった。

 

 

        

         広瀬川河畔に咲きだしたマツヨイグサ

 

 

 

 

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