何気なく、読書のBGMにバッハを流したくて、Youtubeの「バッハのピアノ曲」を選択したら、聞き覚えのある「舞曲」が流れていた。どこかのキリスト教団体作成による作品と思われるが、誰の奏でるピアノか分からなかったが、ゆっくりとしたテンポにあわせるかのように鮮やかな紅葉に彩られたヨーロッパの森か公園の写真が次々と映し出され、オイラは読書よりも、そちらの映像をしげしげと見入っていた。
映し出される秋の彩りとさみしさに、あまりにも、その「舞曲」がとけこんで、すこし涙ぐむほどになってしまったが、どうしてBachの音楽というものは、こうも自然の風景とマッチするのだろうと、いまさらながら、そのような気持ちになった。
ネットの便利さに救われて、聴いたことのある「舞曲」は、ほどなくバッハの「フランス組曲4番の冒頭のアルマンド」だと分かったので、読書をやめて、Youtubeからいろいろなピアニストの弾くフランス組曲を引っ張り出して、それらを聴きながら、野草園などで撮った花の写真の整理作業にきりかえた。
なぜ、バッハ(J.S.Bach)は、こうも自然の風景になじむのか。
バッハの音楽は、太陽の運行や、地球の自転、時間の推移によってもたらされる自然のあらゆる事象、それを森羅万象という四字熟語で言ってもいいが、そのような宇宙の事象によってもたされる四季の変化とあらゆる生命体の盛衰、これらにヒトが受ける感受性、それを喜怒哀楽という四字熟語で表わしてもいいが、そんな感情が網羅されているような気がしてならない。いわば、はかなく移ろうものへの共感という感受性。
バッハは、宗教家でもあったので、「死と復活」や「愛」いうキリスト教の根本理念を、ひたすら古典音楽の粋をあつめた「音」で追及した作家にちがいない。。そのような「音」だからこそ、キリスト教徒であれ、仏教徒であれ、はかない物への共感と再生への希求という何らかの宗教心を抱き、自然を貴ぶものにとっては、心を打つのにちがいない。
敬愛する日本生まれのピアニスト内田光子さんは、
――もし、離れ島へ行くとすれば持っていくレコードはバッハです。(1989年3月毎日新聞)
とお話になったということだが、僭越だが、オイラもあやかって、
― もし、森に持っていくとすれば持っていく音源はバッハです。
といってもいいのではないだろうか。(遠くの方で、シューベルトさんやモーツァルトさんが、忘れないでねといっています。)
追記
それにしても、内田光子さんはどうしてバッハを録音されないのだろう。70を超えた今でも、これからはショパンとヤナーチェクとお話されているようだ。内田さんで、平均律やフランス組曲を聴きたいのだが。唯一、Youtubeで「フランス組曲5番のサラバンド」を聴けるだけなのは、さみしいな。
6月29日野草園点描
*Youtubeを聴きながら、自作スライドショーをみることは、著作権法にかからないBGMの聴き方だろう。
フランス組曲4番アルマンドをマレーペライアさんで(Youtube)
フランス組曲5番サラバンドを内田光子さんで(Youtube)